「骸さーん!」 黒曜ランドの外から、大きな声がする。普段からやかましい犬が近くにいるせいでその声にうるささを感じはしないが、彼女自身は頑張ってその声を出しているのだろう。自分がいる二階の窓から下を覗けば、小柄な少女が不釣合いな大きめのバッグを持っていた。 「骸さーん、今日はオムライスにしようと思ってチキンライス作ってきましたよー、あとサラダもいるかと思って野菜、それと飲み物にコーンスープ持ってきたんですけど台所貸りていいですかー」 「…犬が起きますから、静かにお願いしますね」 「了解です」 溜息混じりに言えば、少女は笑顔で手を振ってから中に足を踏み込んだ。それを見送ってから上着を羽織り一階へ降りる。台所に向かうと、もう既にフライパンを火に掛けて準備万端といった感じだった。 「あ、あの、卵は割れるから持ってこれなかったんですけど、使ってもいいですか?」 「どうぞご自由に。…毎週毎週あなたも飽きませんね」 お皿に持参のチキンライスを盛り分ける少女のもとに卵を適当においてやると、ありがとうございますと笑う。 「だって少しでも恩返ししたいんです、迷惑だったらやめます…けど」 語尾の声が小さくなって笑顔が少し落ち込んだ。表情が素直に変わる少女だ。 「迷惑、ではありませんが。変な人だと思ったんですよ」 二ヶ月程前だっただろうか。雨の日に迷ってここへきた彼女が高熱を出していて、それを看病してやったのだ。こんなところへ普通迷い込むものかと思ったが、話を聞けば散歩の途中で具合が悪くなり、さらにそこへ雨が降ってきて、発熱して朦朧とするまま歩いた末に辿り着いたのだそう。それ以来、男手しかないと知った彼女は、休みの度にお礼だといってご飯や家事をしに訪ねてくる。彼女に言った通り迷惑ではなく助かると思っているが、本当に変な人であるとも思うのだ。なぜなら、自分の過去を、既にカミングアウトしているからである。それはいつのことだったか。たしか彼女がここを訪れた四回目のくらいだ。彼女が自分の行いを親切に感じていようとも自分は感謝されるような人間ではない、もう十分だから来なくていいと告げたのだが、彼女は怯えるでもなく、蔑むでもなく、ただ泣いていた。そんな反応をするとは思ってなかったので狼狽えた僕に、彼女は言った。 『まだ、痛い、ですか』 『いえ…もう目はどうってことありませんよ』 『違う、そうじゃなくて…』 『?』 『骸さんの、こころ、が』 同情なんかじゃなくて、本当に、自分が痛いと感じているような顔をする彼女に、こんな人間もいたのかと驚いた。どう答えるか少し迷ってその手を取り、自分の左胸へと導いた。 『もう、麻痺してしまったかもしれません。動き、止まってるかもしれませんね』 『う、ごいてます』 『おや、そうでしたか?』 『ちゃんと、動いてますよ、骸さん』 何故だかこのとき、思わず二人で笑い合った。温かい気持ちで自然と笑みが零れたのは久しぶりのことだった。それきりもう彼女を遠ざけようという気持ちにはならなかった。 「骸さん骸さん、ケチャップでハート書いてもいいですか?」 「は?」 何に、と振り返ると卵を乗っけたオムライスにこれからケチャップを搾り出すところだった。まだケチャップをかけていないのは残り一つで、三つはちくさ、けん、そして彼女の名前が書かれている。 「いや…構いませんが、ハート、ですか」 「だってオムライスの醍醐味じゃないですか!犬さんと千種さんには嫌な顔されそうなので諦めます」 そう言いながらなまえは早速「むくろ」と小さめに書いてそれをハートで囲っていた。 「犬と千種、態度はああですが君のご飯好きみたいですから、ハートくらい許してくれるんじゃないですかね」 「ほんとですか?あっでも名前大きくしたから囲めない…あ、横に書けばいいのか」 これでよし、と小さくハートを書き足して満足そうになまえが笑う。 「君のには書かないんですか」 「うーん、だって何だか変な感じじゃないですか、自分に書くと」 「そうですか?…では、」 骸はするりとなまえの手からケチャップを取り、彼女の名前が書かれた横にハートを足した。 「これで良いですね。…なまえ?」 まだ呆気に取られたような表情をしている少女の頭にキャップを閉じたケチャップを置くと、落とすまいと慌てて手を出して骸を見上げた。 「まさか骸さんが書いてくれるなんて思いませんでした」 「良いじゃないですか、醍醐味なんでしょう」 「まあ、そうですけども…」 「けども?」 「嬉しい、ですありがとう骸さん」 えへー、と頬を緩ませるなまえを見て骸も頬を緩ませた。たかがこれくらいでそんなに嬉しそうにする少女を見ているとどうも調子が狂う。 世渡りの作り笑顔じゃなくて、いつも楽しそうに笑っている彼女の雰囲気が、ここにも移ってきたのだろうか。知り合ってから、どうも自分が柔らかくなっていく気がする。 千種は大人しい性格であるし彼女に対して感情をあらわにすることはなかったが、犬は当初すごく嫌悪や反発心を彼女に示していた。それが今では早く土日になればいーびょんとか言っているくらいで、料理も人柄も受け入れ始めたらしい。犬がいるとうるさいから、作り終わるまでは起こさないことにしているのだけれど。 「これで完成、ですか?」 「はい、あとは運ぶだけです」 「じゃあ犬と千種を呼んできていただいてもいいですか?僕が運んでおきますよ」 「わかりました」 ・ ・ ・ 「おはようございます、千種さん。犬さん…は、まだ寝てるんですね」 ノックをして部屋に入ると千種が自分の毛布を畳んでいるところで、犬はというと毛布に顔まで包まっていた。 「さっきも起こしたんだけど眠いみたい」 面倒臭そうに眼鏡を掛けなおす姿を見てなまえが苦笑すると、「そういえば」と千種が向き直った。 「気になってたんだけど、なまえ、骸様に言う気ないんだね」 いつもと変わらない表情で言われた言葉に、なまえがピシッと固まった。 「…骸様は気付いてないだろうけど、こっちには筒抜け」 千種が小さく溜息を吐く。少女は観念したように表情を崩した。 「こうやって押し掛けてるのが迷惑なんだろうって、わかってはいるんですけどね。…もう少しだけ、もう少しだけって、来ちゃうんです」 「…迷惑じゃ、ないよ。骸様も、俺も助かってるし、有難いと思ってる。ただ…なまえはこのままで良いのかと思って」 骸様は変わった。なまえがここに来るようになってから。確かに、最初は迷惑がっていたかもしれない。でも、それが重なるたびに、そこに存在する何かを、温かいものを骸様も感じ取っただろう。俺や犬が彼に注ぐ忠誠心などとは違った、包み込もうとするような一つの愛情の形を。 「そう、ですね…。怖い、のかもしれません。こうしてここに来させてもらうことも、言ってしまったら二度とできないのかもしれないって、そう考えると」 言いながらそんな未来を考えたのか、少し寂しそうな顔をしてから「それに、」と続けた。 「今でも十分なんです。好きだなって思える人ができて、傍にいることができて、少しでも役に立てるなら」 「…そう」 その気持ちは、何だか自分に似通っていて、笑いそうになり目を閉じた。自分を助けてくれた大切な人の傍にいたくて、彼の為に何かしたくて、見返りを求めたいわけじゃなく、ただそれが自分にとってのやりたいことで、生きる糧でもあった。 「だったら来る日増やせば良いびょん、飯うまいもん」 のそり、と毛布から顔を出して大きな欠伸をしながら身体を起こした。 「犬、起きてたの?盗み聞きはよくない」 「盗み聞きったってそっちが勝手に話し始めたんらろー。いくら俺でも起きるっつの」 なー、だからもっと来ればいいじゃん、なまえの飯好きなんれすよー、と名前をそのまま体現したように犬のごとくじゃれるとなまえの表情から寂しげな色が消えて口元が綻んだ。ああ、この笑顔だ。これを見ると、心が少しほっとするんだ。とうに見飽きた打算を含んだり卑下たような笑みじゃなく、周りまで温めるような笑顔。料理も、温かい味がする。用心深い自分と犬が心を許すのは、そんな温度ゆえなのだろう。今まで知らなかった温度に。 「犬いつまで寝ているつもりですかなまえに迷惑掛けないで早く起きなさい、ご飯が冷めてしまいますよ」 「…骸様だ」 「早く行かないとだね、結構待たせちゃったかな」 「むっくろさーん今起きましたーすぐ行くびょん!」 恐らく骸様はまだ、自分が感じる温かさの正体を知ってはいないだろう。それが自分に存在すること自体を有り得ないと、想像すらもできず。でも芽生えているものは、目に見えずとも、確かに少しずつ育っているのだ、きっと。 「ごめんなさい、遅くなっちゃいました」 「良いですよ、悪いのは犬ですから。冷める前に早くいただきましょう」 「わーうまそーれす!」 「いただきます」 「はい、どうぞ」 食欲をそそる匂いを放つオムライスを見渡して、彼女のが目に付いた。 「千種、どうしました?笑うなんて珍しいですね」 「いえ、少し、ちょっと」 一つだけ形の違うそれを見て、久しぶりに口元が緩んだ。目に見えるものも、あったようだ。 ・ ・ ・ 石鹸の香りが鼻腔へ辿り着く。小さな泡が時折中を舞って飛んでいった。ガチャ、と音を立てて最後の一枚を洗い終わった。あとは流すだけである。骸がタオル片手に、なまえが洗い流すのを待っていた。 「手伝ってもらってすいません」 「いいえ、お礼を言うのはこちらのほうです。いつもごちそうさまです」 「いいえ、あんなものしか作れませんが…」 言ってから、二人で顔を見合わせて小さく笑った。お互いにお礼を言い合うのはどこかおかしくくすぐったい。 「なまえ」 「はい?」 「少し休んだら、一緒に買い物に行ってみましょうか」 「えっ?」 なまえは驚いて手の動きが止まった。無理も無い、何故ならそんな誘いは初めてされたからである。いつも、自分でほとんどの材料を持って来て、作って、食べて、皆と一緒に時間を過ごして、夕方には帰る、そんな一日だった。 「たまには僕からもごちそうさせてください。ろくなものは作れませんが。よろしかったら、夕飯食べていきませんか?」 「よっ…よろこんで!ぜひ!」 尻尾があったなら千切れんばかりに振るっているだろう様に骸はまた笑った。 たとえばそれに本人が気付いていなくとも、気紛れでも、一歩ずつ、何かが変わっている。 |