一発殴ってやればよかった。

やっと動きを再開した脳で真っ先に思ったのはそれだ。拳が震えたところで教室には誰一人残っていないから、もう手遅れである。


今日の朝、放課後残ってて、と彼氏に言われた私はホームルームが終わったあと自分の席で待っていた。チョコレートのことだろうな、と昨日そこそこ頑張って作ったお菓子のラッピングを直しながら。日直だったらしい彼が来る頃には、部活動や帰宅のためにクラスの子たちはいなくなっていた。

「遅いんだけど」

「悪ぃ、日誌に時間掛かった」

「仕方ないなあ…。それで?」

「ああ、それで、な。気付いてると思うんだけど」

「うん」

「彼女できたから別れよう」

「…はぁ?」

こいつ頭大丈夫かな、と心底思った。百歩譲って、好きな子が出来たならともかく。彼女ができたからってどういう理由なの。私が彼女なんじゃないの。気付いてるわけねーだろ!てっきりチョコの催促だと思って鞄の中に手を伸ばしたのに。

呆然として生返事しかできない私に一方的に話して、彼氏“だった”やつは足取り軽く帰って行った。


「何で殴らなかったんだ…!!」

一発どころか三発くらいいったって私を咎める者なんていないはずだ。よりによってバレンタインデイに振るなんて。それも浮気をした挙句。

遅れてやってきた怒りの捌け口がない。ふつふつと沸いて出る苛々の衝動で、手にしているものを壁に全力で投げつけそうになったが、既の所で止めた。直したばかりのラッピングは握ったせいでぐちゃぐちゃになっている。あいつの為に作ったものなんて、捨ててしまいたいけど。昨日作るのに掛けた時間と材料があいつのせいで無駄になってしまうのは癪だ。

買う時にピンクと悩んだ水色のリボンを解く。袋の口を開けるとすぐに良い匂いがしてきた。

「…おいしい」

お菓子雑誌のバレンタイン特集を参考に作った、チョコ味のカップケーキ。綺麗な形にできあがったものを厳選したのは、決して自分で食べるためじゃなかったのに。噛み締めている途中で、入れた覚えのない塩味が舌に届いた。

「…みょうじ?」

「っ?…佐伯」

足音を聞いた覚えがないのに、教室の戸口にいつの間にか佐伯が立っていた。我らが六角のロミオは臙脂色に身を包んでいる。部活抜け出して何してんの。口に出していないのに佐伯はすぐ疑問に答えてくれた。ちょっと忘れ物をしたんだよ、とのこと。佐伯は私の隣の席だから、もちろんこっちへ向かってくる。早く忘れ物を持って戻ってほしい。視線を戻して二個目のカップケーキに手を付けた。私は今見るからに腫れもの扱いをしたくなる雰囲気を放っているだろうから、佐伯もすぐに教室を出て行ってくれるはずだ。気まずい思いをさせて悪いけど、誰かを気遣う余裕なんて今は持ち合わせていない。

おかしいな、と思ったのは三個目に手を付けたときだった。佐伯が机の中身を漁った音がしなければ、立ち去った音もしなかった。来た時と同じく気配がなかったのか、私が自分のことで精いっぱいなせいで気付かなかったのか。どちらだろうかと横目で見ると、椅子に腰かけて私のすぐ隣にいた。何してんのお前。佐伯はさっきと違って私の心を読み取ってくれることはせず、疑問を放ったまま、逆に私に問いかけてきた。

「それさ、俺も食べていいかな」

「…は?」

あと一つ中身の残る袋を、もしやと思って持ち上げると、佐伯は頷いた。

「いや…」

捨てるより、自分で食べたほうがよっぽど良いとは思ったけれど。他の人に食べさせてしまうのは何か違う気がする。佐伯はよっぽどお腹が空いたんだろうか。まだ部活が始まって一時間も経っていないから、小腹ごしらえとか?でも佐伯は今日色んな女の子から義理やら本命やらをもらっていたし、どんなにお腹が空いていたとしても、余るほど足りているはずだ。それ以前に、佐伯はどうしてこんな雰囲気の中で私に声を掛けてきたんだろう。空気を読めて気遣いバッチリでモテモテ、な佐伯のはずなのに。と、ここまで考えて思い出す。確か、数週間前に何を作るか決めた時。カップケーキとクッキーで悩んで、隣にいた佐伯に雑誌を見せたんだった。「彼氏にあげるのどっちがいいと思う?」と。つまり私が触れたくないような雰囲気で、見覚えのあるお菓子を食べている光景を見た佐伯は、何があったか何となくわかってしまっていたわけだ。

「佐伯ごめん、大丈夫だから忘れ物取って戻っていいよ」

「本当に大丈夫?」

「うん」

「こんなに目を腫らしているのにかい」

佐伯に気付いた時咄嗟に拭った目元を、指先で触られる。あまりに自然な動作だったから驚くのが遅れて、目をパチクリとさせている間にそっと溜まった涙を掬って離れていった。さすがモテ男、やることが違う。こんな動作を現実でやる人初めて見た。彼氏にだってやってもらったことがない…っていうか彼氏の前で泣いたことなんてなかったわ。

「ごめんね、冷たかったかな」

「や、大丈夫、ありがとう。…手、赤くなってるね。外寒そう」

「ああ、これは、ちょっとぶつけちゃってね。外は寒いけど、動けばあたたかくなるよ」

「そっか」

「…」

「…」

この空気どうしたらいいんだろう。話逸れちゃったから、もう一度戻れなんて言いにくい。手持無沙汰になって外したリボンを弄っていると、佐伯が口を開いた。

「さっきも聞いたからさ、しつこいと思われるだろうけど」

「うん?」

「それ、俺がもらっちゃだめかな」

指されたのは確かにさっきも食べていいか聞かれた、残りひとつのお菓子だ。

「え、でもこれは…」

「高田の為に作ったものだから?」

「…そう。人にあげるようなものじゃないよ」

「でも俺は欲しいんだ。俺に向けられたものじゃないけど、そこに込められたものを。…俺じゃ、代わりになれないかな」

「…え」

彼女できたから別れようって聞いたとき並に、言われたことを理解するまで時間が掛かった。今日の佐伯は少し変だなって思ってたけど。私を心配してくれているにしても空気読めないなって思ってたけど。放課後から超展開すぎてついていけない。

「あの、ちなみに、心配すぎて代わりに食べてあげようかなみたいな、そういう?」

「はは、違うよ。そうだね、ハッキリ伝えないといけない。…なまえさん」

「は、い」

「俺は君のことが好きです。付き合ってください」

ほんとにハッキリだな佐伯。まさかこんなイケメンに、ていうか六角のロミオに告白される日がくるとは思っていなかった。しかも最低な振り方されたその日に。

心臓がドクドクと暴れている。佐伯は真剣な表情をしたまま私を見つめている。

「…さえき、」

震える唇をそうっと動かした。こんなバレンタインになるとは思ってもいなかったよ本当に。







「はぁ?……はあ?!」

登校して開口一番、昨日どうだった?私んとこはもうラブラブでさ〜お泊りまでしちゃったよ〜と朝の挨拶もしないまま惚気てきた友人、朋子に「別れました」と告げるとデレッデレだった表情が一瞬で引き締まった。

「別れたって何?!え、チョコ作ったっしょ?」

大きい声が耳に痛い。幸いなのは私と友人の登校時間が早めでこのクラスにまだ人がいないことである。

「作ったよ。作ったのにさ、彼女できたってフラれた」

「はああ?!何それ何なの?!えっまじで?」

「まじで。殴ってやろうかと思った」

「マジ無い何それふざけてる、私が高田殴ってきてやろうか」

「ね…マジ無いよね」

「ていうかアンタなんでそんな落ち着いてんの。まさか怒り通り越して鬱っぽい?」

「いや、ちがくて、なんていうか…そのあとにね…」

ポツリポツリと廊下を通る人数が増えて来たから声を潜めて昨日のあらましを伝えると、本日最大音量の叫びが返ってきた。ちょっと待って本気で耳が痛い。

「佐伯くんを振った?!!!はあ?!!!!正気?!」

「至って正気ですけれども」

「嘘だよ、おかしいよ。だって佐伯くんでしょ?!答え一択じゃんイエスorはいじゃん!断るとか女じゃないよ!」

「女ですけれども」

「佐伯くんと付き合いたい女なんてごまんといんのよ?そんな人がアンタ選んだっていうのに」

「だからこそ、っていうか」

「…?」

「佐伯のことは嫌いじゃないし、人間として好きだから、私が普通にフリーで告白されたんだったら、頷いたかもしれないけど。でもそうじゃなくて別れたすぐあとに佐伯に乗り換えるのって、佐伯にも佐伯を好きな子にも失礼なんじゃないかなって、思って…」

「はあ…そっか。なまえがいいならいいけどさ」

長い長い溜息を吐いた朋子はそう言ってから苦笑いをにこやかな表情に変えた。

「とりあえずあとで高田は殴ろうね」

いやそれそんな爽やかに言う内容じゃないです朋子さん。







「…アンタ今年厄年なんじゃない?」

顔を顰めた朋子の視線の先には、元彼アンド佐伯。普段の体育はD組と合同なのに、何で今日に限ってF組と一緒なんだ。しかも男子はバスケ、女子はバレーでどっちも体育館使用。昨日は佐伯の衝撃で和らいだけど、今日間近であいつの顔を見たら殴りたくなってしまうと思う。…ん?

「ねえ朋子、あいつのほっぺちょっと腫れてない?」

「えー…?あ、ほんとだ。ぶつけたのかな、天罰でしょ」

まじウケんだけど、と嘲笑する朋子が味方でよかったと心から思います。朝惚気てきた時の面影はどこにもない。あ、佐伯がゴールを決めた。コートの方から「きゃーかっこいー!」「佐伯くんやばい」と聞こえてくる。試合しようよ君ら。朋子はひたすら「いけ佐伯、高田にぶつけちまえ!」と応援している。「朋子さんもう少し声小っちゃくしようもう少し」。バレーの試合が回ってくるのを待ちながらそんなやり取りをしていると、近くで得点係をしているクラスメートに恐る恐るといった感じで声を掛けられた。

「もしかして、みょうじさん、知らないの…?」

朋子と顔を見合わせて首を傾げる。なんのこっちゃい。聞き返すと、少し言いずらそうに唸ってから話し始めた。昨日の帰り…えっと、帰宅部の子が見たらしいから部活始まる前くらいだと思うんだけど、と前置きをして。

「F組の…高田くん?が、校門で他校の女の子と待ち合わせしてたとこを、通り掛かった佐伯くんが殴ったんだって」

「…は?佐伯が…?」

「…え?佐伯くんが…?」

「よくわかんないんだけど、見かけた子が言うには、高田くんと女の子は「ちゃんと振ってきたよー」みたいな会話してたらしくて。だから佐伯くん男前だねっていうのとみょうじさんを好きなのかなっていう二通りの意見で今朝とか女子の間ですごい噂になってたんだよ」

「えっ…えっ、何か…えっ」

「朝って…ずっとなまえと話してたね。気付かなかった」

昨日あいつに振られた時よりも、佐伯に告白された時よりも、大きい衝撃が私を襲った。話を聞くに、佐伯が教室に来たのは校門で私のことを聞いたからだ。その証拠に彼は教室を出る時に何も持っていかなかった。忘れ物なんて初めからなかったのだ。

「佐伯くん、優男だと思ってたけどやるときやる男なんじゃん。あんたやっぱもったいないこと…ってなまえ?」

「佐伯、そういえば昨日、涙拭いてくれた時に手が赤くて…ぶつけたって言ってたけど、それって…」

「涙拭くってどこの少女漫画…まあそれはおいといて、そうなんだろうね、十中八九」

「うわあ…何それ…」

「ちょっと、顔赤いけど……ってボール危ね」

私に向かって飛んできたボールを朋子が難なくキャッチした。お礼を言うと、どういたしましての代わりに「うわあ」と返ってくる。

「朋子?」

「ご本人様いらっしゃったんですけど」

「え」

顔をバスケコートの方へ向けると薄茶色の髪を揺らしながら走ってくる佐伯虎次郎の姿が確かにあった。固まる私をよそに朋子はボールを受け渡して話しかけている。

「佐伯くんただのイケメン優等生じゃなかったんだね」

「えっ?…あー…聞いちゃった?」

「女子間で噂になってるらしいよ」

「そっか…。つい我慢ができなくてね。褒められる事ではないし、できれば耳に入れたくなかったな」

「そう?うっかりきゅんとしちゃうなんてこともあるかもだよ」

「はは、そうなれば嬉しいけど。…みょうじ、」

「ぅはい!」

「昨日のことで悩ませていたらごめんね。追い打ちをかけるようなことをしたかったわけじゃないんだ」

「いや…」

「彼のこともごめん。部外者だってわかってはいたんだけど。あとで彼にも謝りにいくよ」

「や、それは私も殴りたかったから…ありがとう」

「あのー…私から話振っといてごめんなんだけど、佐伯くん試合再開しろって先生が」

朋子につつかれてハッとなる。授業中でしかも彼は試合中だということが頭から吹き飛んでいた。

「じゃあ俺は戻るね」

「あ……佐伯!」

「はい?」

「えっと、試合頑張って」

「!…ありがとう、なまえさんもね」

はにかんだ笑みを見せてから走っていく佐伯はなるほど六角の王子様であった。周りから小さく女子の声が沸く。私はその場に座り込んで膝の間に顔を埋めた。

「…なまえさーん」

「うあーい…」

「お耳赤いですよ」

「うっせ」

「うっかりきゅんときた?」

「だって…何あのイケメン…男前過ぎんだろ」

「捨てる神あれば拾う神あり、みたいな?」

「ちょっと違うような気がするし私拒否したしね…」

「いいんじゃないの、難しいこと考えなくたって」

「でも昨日の今日でだよ朋子さん…」

「若いんだからいいじゃん。とりあえずバレンタインやり直してみたら?」

ポンポン、と朋子がわたしの頭を優しく叩く。頷いてから顔を上げてバスケのコートを眺めた。ちょうど佐伯が高田にパスをしたところだった。

今日は、帰りにスーパーに寄ろう。そうしてバターと板チョコを買おう。もう一度カップケーキを作ろう。今度はあいつの為じゃなくて、自分で食べる為でもなくて、佐伯に思いを伝える為に。


(ちよこれいと/130701)

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