「帰省してくるから」

案の定お仕事中だった臨也にそれだけ言ってマンションを出た。
何のアポも無しに行くことは何度もあったけど今回はびっくりしたようで、キーボードを打ちながら画面を見つめていた眼鏡越しの目が、私に視線を移してぽかんとしていた。悪いことしてるなんて嘘みたいな素直な表情で可愛かったなんて口に出すと拗ねちゃうからもちろん心の中で言った。「え、なに、いつ?」と飲み込めていない口調で聞く臨也の声を聞こえないふりして、マンションの下で待ってもらっていたタクシーに駅まで連れてってもらい、彼に言った通り実家へ向かったのだった。新幹線で何時間もかかる実家へ。

もう少し前もって話しておくのがきっと一般の恋人たちなのだと思う。いつ行くのかくらい答えたっていいじゃないってなるのだと思う。でも生憎わたしの好きなひとは一般の人ではない。予め話してなんておいたらどうなるかわからない。実家の住所まで教えたことはないけど、きっと彼の手にかかればお茶の子だ。俺も行くなんて言いかねない。メールで事後報告しようもんなら機嫌を損ねただろうから、直接言いに行っただけ褒めてほしい。着いて来られたら困る、とまで言わないが、がっかりされるのではという不安がある。わたしが育った場所は田舎だ。田んぼしかないわけじゃなくてコンビニもスーパーもあるけれど都会と比べたら何にもないようなところなのだ。電車なんて一時間に一本通るか通らないかという土地はきっと臨也には面白くないだろう。自慢の人間観察だって満足にできないし、仕事も溜まってしまうし。来なきゃよかったなあなんて思われてしまったら、そりゃあ田舎ではあるけれど、わたしが生まれ育った場所だから、やっぱり寂しい。でも彼が着いていくって言うことを断言できるくらいには愛されている自覚がある。人間観察の一貫もあるだろうけど。

何度も車内でうたた寝して新幹線から電車に乗り換えて、家の最寄駅に着いた頃には日が沈みきっていた。空には星が浮かんでいる。あっちは夜でも明るかったから、こうして綺麗な夜空を見るのは久しぶりだった。見上げながら背伸びをすると腰がボキッと嫌な音を立てる。そりゃああれだけ座ってればおかしくもなるよと一人ごちながら荷物を詰め込んだ重いキャリーケースを引きずって駅のホームを出る。空気がひんやりとしていてぶるりと服の下が震えた。


「遅いよ」


視界の隅にあった真っ黒いものがずいっと立ち上がった。寒さも一瞬忘れて「え」と変な声が出た。何でここにいるんだ。

「え、なに、なんで、いつ…?」

臨也に言われた覚えがあるようなことを聞くとムスっとした顔になってお馴染みの上着を脱ぎ始めた。ちょっと待ってこんなとこでストリップ…?!やめて変な目で見られちゃう!他人のふりしようかなと考え始めると臨也にそれを被せられた。もふもふのフードが頭にすっぽり、それから腕も通されて、前を締められる。失礼なこと思ってごめんなさい。

「何で上着くらい着てないの?」
「だって日中暖かかったから…大丈夫かなって」
「大丈夫じゃなかったじゃん」
「うう、ごめん………ってそれより何でいるの!」

仮にわたしがマンションを出てから住所を調べて後を追ってきたとして、何で先に着いてるんだ。こわいざや。親父もびっくりな寒いジョークを脳内でかますわたしをよそに、臨也は余計に顔を歪ませた。素直でかわいいざや。

「だって急に言うし、聞いても無視で出てくし、家に行ってみたら必要なものとかないし、だから行ったんだなって」
「うん…それで?」
「で、新幹線乗って、タクシーで君の実家まで行ったのに、まだ着いてないって言われたからさ」

それだ!タクシーが時差の原因だ。くそう金持ちめ…ってちょっと待って、実家?

「まだ着いてないって誰に言われたの?!」
「お母さんだけど」
「えええええ」

何てこった。わたしお母さんに何も言ってないのだよ臨也くん。せめて紹介してからとかじゃないとね、どうなのかなって思うのだよ臨也くん。急に来たらびっくりだと思うのよね!それからどおりで彼が手ぶらな訳だ。荷物を置いてきたなんてちゃっかりしている。あからさまに嫌そうな顔をしたわたしを気にせず、そのくせキャリーバッグを奪って、反対の手でわたしの手を繋いだ。上着を貸してしまったせいなのだろう、器用そうな白い指は冷たくなっていた。ガラガラと小さいタイヤがコンクリートに擦れてうるさい音を立てる。

「場所わかるの?」
「ここまで歩いてきたからね、何となく」
「怒ってる?」
「そう思うなら前もって教えてくれればよかっただろ。…まあそんなに怒ってないよ、考えてそうなことはわかる」
「…そうですか」

説明という名の言い訳は必要ないようだった。でもわかっておいてね、好きだから一人で来ようと思ったんだよ。怖がりとも言うけれど。

「でもほんとに良いの?暇だよ、すごく」
「嫌だったら来てないよ」
「仕事は?」
「急な仕事はないし書類は押し付けてきた」

ごめんね波江さん、おみやげ買っていきます。

「お母さん何か言ってた?」
「こんなかっこいい彼氏が出来たなら言えばいいのに水臭いってさ。何で?」
「連れて行くの初めてだから」
「来るの初めてだしねえ」
「いや、うんそうなんだけど、そうじゃなくて、付き合うこと自体がね」
「えっ…」

臨也が素でびっくりした声を出した。ほんとに?と顔を見られてちょっと恥ずかしくなってしまう。臨也は色んな女の子と色んなことしてたんだろうけど。
「するのが初めてなのは知ってたけど、まさか、全部?」
「うん」
「キスも?」
「…うん、こうやって手を繋ぐのもだよ」

口にすると余計恥ずかしくなる。何言ってんだろうと自問せざるを得ないけど、負い目がなくはないので素直に答えた。

「はあ…」
「…呆れたの?」
「違うばか可愛い」

ちゅう。一瞬のことだった。ぱちぱちと瞬きをしてから顔がぼっと熱くなる。可愛いなあとまたわたしを赤くさせる言葉に重なって、あらあらと聞こえた。…あらあらって、誰の声だった?

「ごめんねなまえちゃん、そろそろ帰ってくるかと思って…ふふふ、じゃあお母さん夕飯の用意しとくから、ごゆっくり〜」

言うだけ言って玄関の戸が閉まった。いつの間に家に着いてたんだろう、いつの間に玄関からお母さん出てきたんだろう!やっぱり一人で来れば良かったと真っ赤な顔を抑えながら臨也を睨んだ。

「ごめん、でもそれ可愛いだけだよ」
「…うるさいざや!」
「何それ親父ギャグ?」



one's one and only/前編

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