バウンドするボールの音に霞む思考がゆっくりと浮上していく。ダァン、一際高い衝撃と共に天まで伸びるかと見紛う獲物。まるで待ち望むように両手を広げたリングの中央。
俺は一抹の寂しさと悔しさに唇を噛んで、折り曲げた膝に顔を埋める。
とっくに試合なんて終わっているのに、こうして駄々をこねる子供じみた真似をするのは。好きな相手に何度アプローチしても振り向いてもらえないからで。
今日だってもうしつこいとばかりに俺を奈落へと突き落とした相手は、この真っ直ぐな男に心底惚れている。好きだ、と口で伝えても、行動で示すとは案外難しいものだ。
は、短く息を吐き出す。揺さぶられる脳は確かに酸素を求めて訴えているのに、呼吸をするための鼻も口も言うことを聞いてはくれない。顔を伏せた腕は色んな水でぐしゃぐしゃだった。目から頬、顎にかけて流れる涙は枯れることを一向に知らない。一年分の涙を、出し切ったような気さえしていた。


だって、なぁ。この男でさえも、駄目だった。
違う。こいつが駄目だったのではない。
俺達では、駄目だったのだ。
WCでの、この男の美しい涙を俺は決して忘れはしないだろう。
そう思うのに、なんだって俺はちっともこの男を信頼していなかったと言うのか。
だから、負けたのだと。愛されることも叶わないのだと、言うのか。
ふざけるなよ。どいつもこいつも。愛されるのが当たり前だという顔で、きっとお前達はなにも分かっちゃいない。
その裏で、どれほどの人間が、血を吐く想いを必死に堪えてきたのか。
それでも、この男だけは違っていた。
愛した相手を顧みない天才達の隣で、何倍も何万倍も誠実に返し続けた男。
俺は、ただ羨ましかった。
そうして一人だけで戦う男の背中があまりに眩しくて。

少しだけ、怖かった。

「高尾」
寝て、いるのか。
戸惑ったような緑間の声が存外近い。
狸寝入りに身を委ねていた俺は、未だ身体を纏う倦怠感も相俟って起き上がりはしなかった。
緑間の冷え切った体温が俺の頬に触れる。
心地好い。とろりと脳内から溶けてそのまま生温い血液ごと蹂躙していくようだ。
今はもう、恋のライバルではなくなった相手に、随分と絆されている自覚はあった。
あるいは、俺が緑間を懐柔したのか。
「高尾、起きろ」
耳元で囁く声音だけが、俺を煽るように熱かった。
焦げつく視線が這っていく。
不思議と気持ち悪さはない。
抵抗する力さえ残ってはいなかったのだから、これは不可抗力だ。と、何の言い訳か。
タオルで拭ったとはいえ、汗の染み付いた男の肌に舌を伸ばして楽しいものか。
バッシュを脱がされ足先に口づけ。
震える唇の感触は、高尾の心と同じく泣いている。
濡れそぼったそれは、甲に移動して軽く歯を立てられる。
別段痛くはないのに、左胸が強く握り込まれたように悲鳴を上げた。
手。指先。甲。腕。反対。
髪。額。顎。瞼。頬。反転。

「高尾」
ギシギシと心が身体が、訴える。
先ほどよりもずっと甘い響きを孕んだ緑間の呼びかけが。
今度は確認するように、忠告するように。
馬鹿だなぁ、と。思ってしまうのに。
吐息がかかる。最後の最後まで躊躇う緑間の唇が、ゆっくりと重なる。
馬鹿だなぁ。
俺もお前も、一番がお互いになってしまった時点で。
愛されることなんてありはしないのに。
俺には、知らないふりをすることしか、できはしないのに。
なぁ、緑間。なんで、俺達は。
なんで、俺達は、一人じゃないんだろう。


「ありがとうございました!」
梅の花は咲いていたけれど、麗らかな門出とはいかなかった卒業式。
卒業式に降る雨は縁起がいいと聞くが、それは如何様なものなのか。
湿っぽい外気に晒されながら、可愛い後輩達は一斉に頭を下げた。
俺より少し高い涙ぐむSGの肩を叩きながら、笑ってエールを送る。
しっかりしろよ、キャプテン。
俺達の果たせなかった、全国制覇を。
それだけで、現キャプテンの表情はきりりと引き締まった。
眦から頬にかけて流れていった涙には、見ないふりをした。
俺には、泣けなかった。
そんな綺麗な涙、俺にはもったいない。
代わりに持った花束を押し付けて。
後輩達からの寄せ書きが詰まった色紙を抱いて、手を振った。
傘に当たるバタバタという雨の音が、俺の心の悲鳴を掻き消してくれているようだった。


茹だるような熱気と張り付く不快感に、俺は呻き声を上げた。
室内だというのに、ゆらゆらと目の前をたゆたう陽炎が酷く気味悪い。
一心にオレンジのボールを掲げていた緑間は、片手にタオルを持って体育館に戻ってきていた。
顎を伝う水滴の種類は何か。
整った眉を潜め、俺の隣へ腰掛けた緑間が、億劫そうにスポーツドリンクを煽る。
ラベルに印刷された人気アイドルが、白い歯を覗かせ無邪気な笑みを浮かべていた。
「最近オーバーワークが過ぎる」
「はあ」
「限度を考えろ」
壁に背を預けたまま、頭だけを緑間に向けた。
ムカつくほど綺麗な横顔がしかめっつらでコートを睨みつけている。
こういうときは大抵心配しているのだ。素直じゃないなぁと笑おうとして、口の端が引き攣った。
どうやら大袈裟ではないらしい。
緑間は俺の様子に気づいて、呆れた表情を作った。
だから言っただろうと腰を上げた緑間の裾を、白ばんだ指先が追い縋る。
待って、なんて口にしていなくとも、緑間をその場に縫い付けてしまうことは容易だった。
情けなく戸惑う緑間の気配が、俯く俺からでもよく分かった。
大して力の入っていない俺の手を振りほどくなど困難でもないのに、俺がどういう意図を持って行動したのか理解しているこの優しい男には酷だろうか。
「真ちゃん」
「高尾」
「ごめん。少し休めば、大丈夫だから」
そう言って緑間のシワになったシャツから手を離す。
普段感心されるほど動く表情筋さえも、凝り固まってしまっている。
落ちる瞼の貪欲な眠気に、俺は何度も意識を手放しそうになって、緑間を見上げた。
「平気だって」
「…馬鹿め」
一瞬、苦しそうに歪めた緑の双眸に、俺は嘆息する。
違うんだ。お前を、信じていないわけじゃない。
俺が、不足していたから。
緑間、ごめん。俺も、お前も、大馬鹿者だ。
信じていないのは、お互い様だろう。

IHも間近に迫った日曜日。
オーバーワークが過ぎて倒れたのは、意外にも俺ではなく緑間の方だった。
照り付ける日差しは少しずつ頂上を目指して、比例するように部員達は次々と音を上げていく。
強豪秀徳の名に入部してきた一年生も、限界に見切りをつけた二、三年生も、諦念を含んだ息を吐いて退部の二文字を舌に乗せるばかりだ。
激化する練習量に嘔吐する部員は後を絶たない。
しかし、よりにもよって、緑間が体調管理を怠るとは誰しも想像だにしていなかった。
前任の大坪から引き継いだ主将の座は、身にあまるほどの圧迫感を携えていた。俺は、ただ主将の仕事に精一杯で、緑間の不調に気づけなかったことが悔やまれる。
緑間は決して俺の変化を見過ごしたりはしなかったのに。
随分と、無理を、させてしまった。
監督に呼ばれていた俺が体育館に戻ると、辺り一面に広がる静寂とコートの中荒々しい息を吐き続ける緑間の姿があった。
一年と緑間のみの練習だ。二、三年は合同で別の体育館を使っているためにここには一年生しかいなかった。
泣きそうに歪めた顔を俺に向ける部員達に指示を与え、比較的体格のいい一人を連れて緑間を抱える。
部員達の手前、安心させる俺は冷静であろうと努めていたけれど、心臓の奥底で燻る感情はどうしようもない己への憤慨だった。
俺が不足していたばかりに。
今度は、緑間を、大切なエースを。
俺は、一体なんのために、ここにいるのだろう。

保健室の扉が重く固く閉ざされているような気がして、緑間を抱える腕に自然と力がこもる。
カララ、考えるよりもずっと軽い感覚にほっと胸を撫で下ろした。
薬品の独特な臭いが鼻の粘膜に身を擦る。窓が開いている、カーテンは風に乗って大きく波を描いていた。
誰もいないようだ。俺は緑間に余計な刺激を与えないようにベッドへ横たえる。
清廉を極めた真っ白なシーツが緑間の陶磁器めいた艶やかな肌と合わさって、不健康な印象を醸していた。失う色味に死んでいるようだとは不謹慎か。
ベッドサイドに腰掛け、常の険しさが抜け落ちた緑間の穏やかな表情を見下ろす。
新緑の髪が差し込む陽光に当てられて、生き生きと呼吸を始める。
レンズの奥で潜める翡翠の双眸も目元を彩る長い睫毛一本一本も、取り立てて万人を引き寄せる華やかさは見られない。
それなのに、浮世離れした造形はある種恐怖にも似た感情を植え付けた。
よくできた人形とは違う、屍でもない。
言うなれば、生きたままの人間を、死に近い状態で冷凍保存したような。
そんな、生きているとも、死んでいるともとれない不完全な存在。
なぜだか分からないが、俺は直感的にそう思った。

「たかお」
薄ぼんやりと浮遊したままの意識を繋ぎとめる緑間が、一文字ずつ区切るように俺の名を呼ぶ。
緑間の瞳はしっかりと閉ざされているのだから、俺はどう返事をしたものか迷って反射的に右手を握りしめた。
俺とそう大きさの変わらない掌はそれでも、固く骨張った男らしいものだ。
奇跡の掌。これが、あの、芸術とも言われる緑間のスリーポイントを生み出す掌。
練習中テーピングを外した左手には触れられなかった。
体温を移すように掌同士を擦り合わせ、指の腹に軽く爪を食い込ませる。
決して忘れはしない。させてなるものか。
悔しさも、憎しみも、妬みも。
誓いであり、とうの昔に捧げた懺悔だ。
愛したモノの前で、俺はいつまで経っても無力だった。
この身一つ、お前のために捨てたって構わないと誓ったはずなのに。

「すまない」
ぽつりと空気に霧散してしまいそうなほど、か細く頼りない呟きが俺の耳朶を震わせた。
己の右手を傷つけんとする俺を咎める様子はない。深く枕に頭を沈ませたまま、繰り返す。
すまない。すまない。
いつの間にか俺の手は、緑間を慰めるために動いていた。
あぁ、そうか。
この男も、不安だったのか。苦しかったのか。寂しかったのか。悔しかったのか。

愛されたかったのか。

頭上を吹き抜けさらっていく風が、夏の始まりを告げていた。


「お前、俺のこと好きなの?」

太陽は地上近くで傾き、空気に触れる肌は粟立つ放課後。
脇に据えられた木々はもうとっくにやせ細り、枝にぶら下がる葉も精魂尽きて自然に還るべく身を横たえている。
雨ざらしになった瓦が体育館と校舎を結ぶ渡り廊下に影を作り出していた。
橙に染まる夕陽が交差して、俺の下に潜る。
制服の内ポケットに転がっていた飴玉を口に放り込んで咀嚼。
がり、小さく音を立てて、掃除当番なんて引き受けるんじゃなかったと一人ごちる。
伸びていく高い影と短い影。
長い黒髪を片手で押さえ、夕陽のせいとは思えぬほど赤く染まった頬が柔らかく緩んでいく。頷く。
「そっか」
緊張で強張った顔が幸せそうに蕩けて、二人の影が重なる。
両手に持ったゴミ箱を抱えて俺は背中を向けた。
ゴミ収集の嫌な臭いに鼻をつまみながら袋を縛る。
納得なんてできるわけがないのに。
壁に刻まれた相合い傘が、年月を経て削れわからなくなっていた。
彼女達もいずれこうなってしまうのだろうかと考えて、僅かに頭をもたげた。


周囲は受験戦争真っ只中。当然、最終学年へと進んだ俺と緑間も例外ではない。
部活以外では分厚い赤本とペンを手に、三年間の傷をつけた机と睨めっこの毎日だ。
膨大な公式、単語、文章。
暗記には自信があったけれど、模試の結果は再考の余地あり。
幸いというべきか、進学先にさほどのこだわりはない。
大学に行ったところでバスケを続けるつもりもないのだから、とりあえず俺の学力に合った先で構わなかった。
元よりバスケは高校三年間と決めていたし、緑間のいないチームで鷹の目を活用できるとも思えないからだ。
件の緑間はというと、大学病院を経営している理事長が勤める、医学部に力を入れた都心の大学を狙っているらしい。
生徒の層が厚い秀徳でも、かなり厳しい受験となることは間違いないとされる恐ろしく偏差値の高い学校だ。
緑間ほどの学力ならば特別推薦枠でも難しくはないのだろうが、当の本人は希望しなかった。
曰く、受験にも人事を尽くすべきなのだよ。
緑間らしくて思わず笑ってしまったのは、一月前のことだ。
もうバスケだけを考えられる時期は過ぎてしまった。
WCが終わってしまえば卒業もすぐそこだ。
センター試験に忙しい緑間とボールを交わすことは叶わないだろう。
これが、最後だ。

「決勝前に考え事とは、余裕だな。高尾」
頭上から降ってくる不遜な声に、俺はにんまりと口角を上げる。
「余裕なもんか。武者震いが止まらねぇんだ」
お前だってそうだろう。
ぎらぎらと、あの時から変わらない闘志の炎が翡翠の奥で煮えたぎっている。
逃しはしないと、勝利の前で愛に餓えた男は不敵に笑う。
応援席に提げた不撓不屈の横断幕。
何度も共に戦い底の擦り切れたバッシュ。
秀徳の校名を掲げるオレンジ色のユニフォーム。
6と10。エースとキャプテン。光と影。
本日の蟹座の順位は一位。
ラッキーアイテム、バスケットボール。
補強の必要は、ない。

「愛してくれよ」
ピィー!試合開始のホイッスルが運命の幕を開けた。





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