後頭部がガンガンと固い物に当たる痛みで、高尾は飛び起きた。ふらふらと揺れる視界に顔を上げると、何故か緑の髪の男が自転車を漕いでいる。高尾にそんな奇抜な髪の色をした知り合いは一人しかいない。しかし、普段と位置が真逆になっている光景に、高尾は目を細めて考える。これは夢だろうか。試しに頬を引っ張るかと手を伸ばした高尾は、その前にズキンと一際痛むこめかみに頭を押さえてうずくまった。
 部活から起こっていた頭痛が、ここに来て額と後頭部への物理的な痛みに伴い悪化してしまったらしい。

「なにをしているのだよ」

 呆れたような声音に思わず肩が上がる。今リアカーに揺られているということは、緑間に自身を運ばせてしまったということだ。その前の事情もありなんとも気まずい。自己嫌悪に顔を俯かせる高尾に何を思ったのか、緑間は公道の隅に自転車を止め、高尾の肩に手を掛けた。

「高尾」

「……なんだよ」

「すまなかった」

 思ってもみない緑間の謝罪に、高尾は顔を上げて目を瞬く。常に自信に満ちた切れ長の双眸は申し訳なさそうに下がり、表情もどことなく硬い。呆然と見上げる高尾に、緑間はあらぬ方向を向き眼鏡のフレームを押し上げる。必死に隠しているようだが、耳が微妙に赤い。

「……なぜ、調子が悪いことを言わなかったのだよ」

「あ、あー……言うほどのことでもなかったし。つうか、謝るのは俺の方だろ」

 緑間の赤らんだ鼻に視線をやり、ポリポリと頬をかく。あれだけの勢いで顔面に頭突きを食らわせたのだ。鼻血が出ただろうことは想像に容易い。

「なんのことだ、俺は鼻血など出していないのだよ」

「俺、なにも言ってねぇじゃん」

 カチャカチャと落ちてもいない眼鏡を押し上げる音が早くなっているのに気づき、高尾はとうとう噴き出した。

「……高尾」

「わり、……くくっ。いや違う、待ってストップ!」

 作られた握り拳に慌てて両手を上げる。今殴られてしまえば、緑間への頭突きの二の舞だ。また意識を失って倒れるだろう。緑間もそのことはきちんと理解しているようで、宙に浮かせた拳を所在なげにゆっくりと下ろした。

「悪かったよ。エース様に頭突きした挙げ句、ぶっ倒れるなんて。情けないぜ」

「まさか攻撃してくるとは思わなかったのだよ。だが、その原因を作ったのは確かに俺だ。お前が謝る必要はない」

「いや、でも」

「その話はもういい。さすがに目の前で二度も倒れられてはトラウマになるのだよ」

 どこか釈然としないながらも、高尾も好きな相手を問い詰められるはめになるのを回避し、胸を撫で下ろした。今蒸し返されると上手くごまかしきれる自信がない。
 緑間はもう一度自転車に乗り込むと危なげなく悠々と漕いでいく。夕陽に照らされる若草色は、艶やかな橙と混ざり合うことなくただ月のように朧げな光を放っている。
 高尾は眩しげに目を細めると、リアカーに映る自身の影に視線を落とし小さく息を吐いた。




 緑間真太郎はその長身もさることながら、観賞用としてもってこいの人間である。しかし、あくまでも観賞用だ。容姿、身長、運動神経、見た目そのままの優秀な成績。神様とやらは奴に二物も三物も与えたらしい。代わりに付け足されたのが、その余りある長所達がすべて霞んで見えてしまえるほどの性格だった。高尾から見れば緑間のそんなどうしようもない短所さえ長所と変換されてしまうのだから、恋は盲目とはよく言ったものだ。もっとも、バスケットプレイヤーとして相棒として友人としても、高尾はまた緑間に惚れ込んでもいるわけだが。
 高尾はそんなとりとめのないことに思考を巡らせながら、弁当をつつく。ちら、と廊下に視線をやれば、緑間と見知らぬ少女が教室を出ていくところだった。いや、見知らぬというのは嘘だ。いかにも大人しげな優等生然とした少女で、よく見れば可愛らしい部類に入るのではないだろうか。最近、何度か緑間を呼び出しているのを知っている。始めは生徒会への勧誘か、委員会関係かとも思ったが、こうもしょっちゅう声を掛けられているところを見ると、下世話な想像をしてしまう。緑間は難ある性格のせいで誤解されがちだが、本当は誰よりも優しく思慮深く努力家な男だ。彼をよく見ていれば、些細な行動一つ一つに意味がある。少女はもしかしたら緑間に気があるのではなかろうか。そう考えれば納得はいく。納得はいくが、それと高尾の中に燻る後ろ暗い感情の火種は別問題だった。

「あー……俺って本当、自分勝手」

 高尾は八つ当たり気味に緑間の弁当に残る唐揚げでも摘もうかと手を伸ばす。好きな物は後に取っとくタイプの緑間は、高尾が勝手につまみ食いしたと分かれば激怒するだろう。意外と沸点の低い男なのだ。
 高尾の名を叫びながら利き手と反対の拳を振り上げる様を想像して、プククと肩を震わせた。

「高尾ー、先輩がお前に用事だとよ」

「うん?」

 教室の入口近くで高尾を呼ぶクラスメートに首を傾げた。高尾を訪ねる先輩などバスケ部しか思い至らない。緑間の母親が作ったであろう美味しそうに光る唐揚げに伸ばしていた手を渋々引っ込め、椅子から立ち上がった。こちらを覗き込むようにしてクラスメートの後ろに隠れていたのは、昨日高尾に告白をかましてきた男子生徒だった。

「え、あれ、えと……どうしたんスか?」

 高尾はなんとも言えない気まずさに頭をかく。昨日の今日でまさか顔を合わせることになると思っていなかった高尾は、躊躇いがちに口を開いた。相変わらずのハニーフェイスが何故か青ざめているようで、ただならぬ気配に愛想笑いのまま固まった。

「もしかしたら、僕、大変なことをしてしまったかもしれない」

「は?」

「ねぇ、高尾くん。緑間くんの近辺に最近真面目そうな女の子がうろついてない?」

 心当たりはついさっき緑間と一緒に出ていった少女。高尾はそのことを彼に告げると、難しそうに眉を潜めてため息をついた。

「やっぱり。実は彼女、僕のことが好きだったみたいなんだよね」

 彼曰く、要約するとこういうことだ。
 彼の取り巻きの一人である少女は、彼を好きだった。しかし、彼が好きな人は高尾であり、少女は彼に自分の想いを告げられず仕方なく周りの取り巻きと一緒に彼の応援をしていた。彼は高尾に告白しようと何週間も前から考えていたようだが、なかなか実行に移せなかった。それは、偏に高尾の傍をキープし続ける緑間がいたから。そのことを、つい少女に愚痴混じりに零してしまったらしい。

「彼女、緑間くんさえいなきゃ僕が振られるわけないと思っちゃってるんだ」

「んな馬鹿な……」

「悪い娘じゃないんだけどね。多分昨日、僕が泣いたせいでもあると思うんだけど、今の状態じゃ何しでかすか分かったもんじゃない」

「何しでかすかって……」

 彼はぐっと声を落として高尾の耳元で囁く。

「以前、彼女に好きな人がいてね。その男、彼女と二股かけてたらしいんだけど、思い込みが激しいのか二股かけられていたもう一人の女を病院送りにした経歴があるんだ」

 ぞくり、と高尾は身を震わせる。その話が本当ならば、少女に連れ出された緑間が危ない。

「二人は、どこに」

「職員室で鍵が見つからないと聞いたから恐らく、用具倉庫じゃないかな」

 高尾は彼の言葉を聞き入れるとすぐさま廊下へと駆け出した。
 頼むから無事でいてくれよ、と願いながら。



 高尾は全速力で廊下を走っていた。鷹の目は試合でなくてもこういうときに役に立つ。昼休みということもあり人通りの多い隙間を縫うように駆ける。途中、驚いたように高尾を見る宮地と木村を視界に入れつつ走る速度は緩めない。高尾の心中を巡るのは緑間の安否だけだ。たとえ自身の四肢が折られようとも、緑間のあの陶器のような滑らかな肌に傷一つつけられることの方が高尾にとっては許されないことであった。ましてや、毎日欠かさず練習によって鍛えられたシュートを放つ左手に触れようものなら、正気ではいられないだろう。
 高尾は上履きを靴に履き変えることなく、校庭へ飛び出す。秀徳の用具倉庫は体育館の裏手にひっそりと佇んでいる。外界と遮るように木々で覆われ、校内からは丁度死角になっており確かにあらぬことをするには取っておきの場所だろう。

 緑間。緑間緑間。心中で喉が擦り切れそうなほど、高尾は叫ぶ。俺はお前が嫌いだった。でもなぁ、今は自信を持って言えるんだ。お前の毎日人事を尽くしたラッキーアイテムも、試合のときに見せる鋭い獰猛な眼差しも、たまに一緒になってふざけるときの柔らかな表情も、女子みたいに手入れの施された綺麗な左手も、透けるような指通りのいい綺麗な髪も、見とれてしまうほど長いはっきりとした睫毛も、低く重い、でもどこか安心させる声も、素直じゃないお前も、面倒臭いお前も、我が儘なお前も、変人なお前も、頑固なお前も、呆れた顔も、悲しむ顔も、怒った顔も、照れた顔も、苦しそうな顔も、真剣な顔も、笑った顔も。嬉しそうな顔も全部、全部全部。
 俺は、お前が。






「ありがとう緑間くん。私の話最後まで聞いてくれて」

「いや、礼を言うのは俺の方なのだよ。情報感謝する」

「ううん。彼のことはちょっと我慢できなくなってきたし。高尾くんの身に何かあったら私、絶対自分を許せないもの」

「そうか……」

「それに、これは私の思い過ごしだといいんだけど」

「何?」



 ――彼、相当高尾くんに執着してるみたいだから。







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