《冒頭》

 ジリリリ、朝を告げる買ったばかりの目覚まし時計が甲高い音を立てて震え始める。普段手を伸ばせば届く距離にあるはずのそれは、一般男性より比較的長い俺の腕を目一杯伸ばしても固い感触を得ることはできなかった。
 朝起きたばかりだということもあり、多少苛立ちながら気怠い仕種で上半身を起こす。途端に冬の冷たい外気がスウェットから覗く肌を容赦なく刺激する。置き時計に届かなかったのも無理はない。寝る直前には頭元に置かれていた時計は、180度回転して足元に転がっていた。
 生憎、公共物の破損によって膨れ上がり続ける借金の相手で精一杯の俺が、暖房などという高級品を買う余裕があるわけもない。毛布、と呼ぶのも躊躇う程の薄っぺらい布地を羽織ることが唯一の暖を取る方法だった。
 蓑虫状態の俺は、ズルズルと毛布を引きずりながら朝食を作る為キッチンへと向かう。一人暮らし用に最適と言われ契約したワンルーム型のこじんまりとした内装は、以前の契約主が施したのか何故かキッチンの下に収納スペースがある。実家から越す前は一人暮らしの生活に浮かれ、ありとあらゆる調理器具を買い揃えたものだが、いかんせん俺には調理の技術がない。今や専ら、使わなくなった調理器具達の墓場と化している状態であった。
 俺とは違う世界へ旅立ち、数年後立派な売れっ子俳優となった弟が、何故かファンから卵を山程貰ったらしく、一人じゃ食べ切れないから俺にも貰って欲しいとアパートまで持ってきたのは昨日のこと。
 最近すっかりご無沙汰となっていたフライパンに卵を割り入れ、鍋蓋で蓋をし目玉焼きを作る。
 ベーコンを敷いてベーコンエッグにしたいところだが、残念ながら今冷蔵庫には仕事終わりの楽しみであるビールの箱と、そのつまみとして買い置きしているスルメイカが鎮座しているのみ。
 棚に綺麗に並べられた洒落っ気のある皿は全て弟が選んだ物だ。服にしろ何にしろブランド金額関係なく気に入る物に全くと言っていいほどこだわりのない弟の選んだ食器類は、俺でも分かる一つ何万もするブランド物と近所の百円均一で買った物が隣合わせで置かれていることがしばしばである。しかもそれぞれ、色合い、柄、デザインとバラバラなのだから我が弟ながらよく分からない男だ。 そんな棚を眺めながら真っ白のまだ使ったことのなかった皿を一枚取り出して、フライパン返しでこびりついた目玉焼きを剥がし皿の上に盛りつける。
 次いで炊飯器の中を覗き込んで、肩を落とした。
 米がない。実家から月に一度何か送ってくれるのは嬉しいが、よりによって今月は野菜尽くしだったことを思い出した。冬のこの時期助かることには助かる。が、何せ野菜を使って何かを生み出すことができない。
 彼女でもいれば別なのだろうけれど。
 仕方なしに常備しているカップ麺を一つ取り出し、かやくの袋を破ってポットから湯を注ぐ。


 ジリリリ…、忘れかけていた目覚ましの音がまたけたたましく響いた。10分経てば自動的に鳴るように設定していたのがあだになったようだ。ここで止めておかなければ10分経ちまた止めに戻らないといけないと、目玉焼きとカップ麺を持ってちゃぶ台に向かう。
 視界の端に写ったのは、起きたときのまま放置されたデジタル式の目覚まし時計だ。まだ今の仕事が決まる前に、遅刻しないようにとこれまた弟が買ってきた物だ。
 それまでは携帯で目覚ましの設定をしていたのだが、基本的に携帯を触る習慣がない俺は、充電を切れさせて起きれないことが多かった。
 目覚まし時計を定位置に戻し、改めて俺の力でも壊れなかったことに感動。さすがにその辺の雑貨屋で売っている物とは格が違うようだ。
 ちゃぶ台の前に胡坐を組み目玉焼きを突く。
朝から随分と貧相な朝食だ。
 リモコンを手に取りテレビの電源をつけ、ニュースキャスターのお姉さんを何の感慨もなく呆然と眺める。ブラウン管はもうマズイだろう、とエコポイントが減る前に給料をはたいて買った液晶テレビは、案外画面が広くて目が疲れる。
 仕事の時間に遅れないようにと携帯を開き確認して、思わず声を上げた。



――1月28日。


誕生日だ。





 シックな雰囲気が店内に充満している。
 クラシック音楽にはあまり興味も学もない俺でも不思議と心地よさを感じるのは、鎮静作用でもあるのだろうかと人知れず考えたものだ。

 カウンター席を一人占領する女は、淡いステンドグラスに目を奪われるようにして指先で形の統一された氷をくるりと回した。洗練され磨きあげられた陶磁器のような仕種で、女はグラスを口の高さまで持って行くと、カウンターに立つ俺に向かって微笑む。
 「確か、今日だろう。静雄の誕生日」
 「覚えてくれてたのか」
 友達なんだから当然だろう、とその美しい外見には少々似つかわしくない言葉遣いで彼女はそう言った。
 嬉しくないわけがない。昔からいろいろと問題を抱えてきた俺は、出来のいい弟と優しい両親だけが俺の支えだった。友人と呼べる存在なんて一生できないと思っていたほどだ。
 しかし、力を理由にして逃げていたのは自分の方だと後に気付いたのは、彼女と彼女の恋人である腐れ縁が構わず土足で踏み込んできた他に違いはない。小学生の頃、それこそまだ自分の力をコントロールするに至れず、力を使っては筋肉を酷使し骨折で入退院を繰り返していた俺にふざけた嘆願をしてきたのは、当時から全く変わらない変人もとい同級生だった岸谷新羅だ。
 俺は丁重に、とは言えないまでも二度とその台詞を使えないように痛めつけてやったつもりだったが、そいつは何故か翌日からしつこく付き纏うようになった。

 最初は鬱陶しいだけの存在だった新羅はやがて隣にいるのが当たり前となり、世間一般で言う友人に格上げされることとなる。その新羅の同居人、セルティ・ストゥルルソンもまた、俺の数少ない友人の一人だ。
 「マンションで静雄の誕生日パーティーをしようと新羅と話していたところなんだが、どうだ?」
 「おいおい、いい年した大人が誕生日パーティーかよ」
 言いながら、それでも俺は今、満更でもない表情をしているのだろうということはセルティの穏やかな笑顔からすぐに予想はついた。
 年末年始には引っ張りだこ、テレビで見ない日はないと言っても過言ではない忙しさにやっと解放され、禄に寝ていないであろう弟も毎年俺の誕生日には律儀にプレゼントと祝いの言葉を持ってきてくれるのだから、これ以上贅沢なことはないと考えていた矢先の提案だった。
 しかし素直に頷きたいのは山々だが、どうしてももう一人の友人の顔が脳裏にちらつく。
 あいつがわざわざ、しかもいきなり誕生日パーティーをしたいだなんて、何か企んでいるとしか思えない。
 基本的にセルティ以外眼中にもないあいつは、セルティの誕生日ならともかくただの友人の為にそこまでするような善意を持っている奴じゃない。尤も、セルティに誕生日なるものが存在するのかは知る由もないが。

 グラスを拭く手を止めず、セルティの長い睫毛がふるりと伏せられる様を眺めて、俺は何と答えるか考える。
カラン、と綺麗な音を立てて僅かに溶けた氷がグラスの奥へと滑る。俺とセルティしかいないこの空間は、世界から隔離されたどこか遠い異界のような気がして、小さく身震いをした。
 「いいのか?」
 「勿論だ。静雄がいなくちゃ始まらない」
 嬉しそうに頬を綻ばせたセルティに、俺も同じく微笑んだ。






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