神様は死んでしまったよ | ナノ

もう間違えたりしない。そう思った。
“あの日”と同じようにデジタル時計を確認する。数字が示すのは俺がいつか交通事故で死んだ日。
また時間が巻き戻っていた。地獄で見ている夢ではなさそうだった。時間の遡及―タイムリープという事象が起きているとして間違いなさそうだった。以前同じ体験をしているのだから確定である。タイムトラベルではなくタイムリープだと確信したのは、過去に自分以外の「赤司征十郎」が存在しなかったからだ。一般的にタイムトラベルやタイムスリップと言われるものには肉体の移動が伴う。現在から過去や未来へ肉体ごと移動するため、その移動先にはその時代の自分がいるはずなのだ。ということはもう一人の自分に遭遇する可能性がある。しかし、タイムリープやタイムループと呼ばれるものは肉体ではなく意識のみの移動が行われる。(これには俺が採用している説が全てではなく諸説あるようだ。しかし俺の中で両者の違いはこの説を採用することで上手く説明できるのでこの説に基づいて物事を考えることにしていた。何事も一つの基本方針があってこそ思案することができるし行動に移せる。)
タイムリープが起こったと結論付ける根拠は、過去の「赤司征十郎」に会わなかったということが大きい。タイムスリップして身近な人間と接触していれば、その時代の俺と会うのが普通である。それが、一切なかった。何より今の俺の肉体は自殺した「赤司征十郎」ではないことは明白だった。鏡に映る風貌が、未来の――自殺した時の俺の姿とは異なっているのである。
テツヤと付き合う前の姿をだったのだ。あの時、テツヤと付き合って二年経っていた。「キミは全然老けませんね」と言われていたが、多少の外見の変化はある。テツヤと別れて自暴自棄になっていたあの頃。身なりに気を遣う余裕もなくて、髪が伸び放題だったはずが、鏡の中の俺はこざっぱりとしている。高校一年の時のように、前髪が短かった。そういえば初めて死んだあの日の前日、テツヤに会うから、と何処ぞの乙女のように髪を切ったのだったと思い出した。

大体のことの起こりのきっかけは予想がついている。どちらの時も俺は、強く希ったのだ。そしてその希いはある意味絶望ですらある。
テツヤと一緒にいたいという希い。そして同時に生まれる、テツヤと一緒にいられない薄暗いどうしようもない闇。

一度目は時間をかけすぎた。ゆっくりと距離を詰めて、彼に一番近く、親しい間柄になったまでは良かったが、一瞬で命を落としては元の木阿弥でしかない。二度目は蔑ろにしていた「家」が邪魔をした。下地はあったのだから、と行動を起こし、やっとの思いでテツヤを手に入れたのに。

前回のリープで己の行動で変わるのは自分の人生だけであって、それが間接的に周囲の人に変化をもたらしたとしても世界的な改変が起こらないのはとっくに判明している。ならば、また、変えてしまえばいい。テツヤの不安要素を、彼を心痛ませた言葉を、なかったことにしてしまえば良いのだ。

前回と同じようにテツヤを丸め込んで車で迎えに行き、映画の試写会に行ったが、彼に思いを告げることはしなかった。帰り際、彼が名残惜しそうにしていたのは気のせいだっただろうか。テツヤの小指の赤と水色の糸は健在だ。やっぱり触れることのできないそれは今では二本ずつに増えていた。

過去をまた改変する。そう決まってしまえば、行動に移すのは早い。俺のモットーは迅速果断だ。
大学在学中に起業して以来絶縁していた「家」というより、父に歩み寄ることにした。丁度その年は母の十三回忌。縁を切ってからは法事に出ることもままならなかった。その事実に、母に対する申し訳ない思いがただ募ってゆくばかりだったが、墓参りだけは毎年欠かしていなかったので、優しい母のことだから許してくれるに違いないと思う。
俺が墓に足を運ぶと、いつも水打ちされ、線香をあげられたあと。毎回大輪の赤い菊の花が添えられていた。誰がやっていることなのかは知っている。
親族と別れてから、父が一人ひっそりと墓参りに来ているのだ。献花も、父のもののはず。
厳しい人だった。そして本当に素直じゃない人だった。俺は外見こそ母に似たが、そういうところは父に似たのかもしれない。
自分が墓参りに行くのは決まって夕方だったから、恐らく父が来ているのは法事が終わった午後だろう。時間に見当をつけて敢えて会いやすそうな時間を選んでいけば、いとも簡単に遭遇する。
「お久しぶりです」と背後から突然声をかけた俺を見ると、驚きに目を見開いて見せたが、父は嫌な顔も無視も立ち去ることもしなかった。
言葉少なに話をした。全く蟠りがなくなったとは言い難いが、やっと父の本音を聞けたような気がする。縁を切った以上大っぴらに援助はできないだろうが何かあったら連絡しろと、言う父の表情は思い出の中の父より随分とやわらかい。そして、穏やかな顔で「好きに生きなさい」と言われた。俺を厳しく育てたことには一切謝罪も言及もなかったが、それで良かったのだと思う。
苦しい時もあった。しかし、恨んではいなかったし、謝られるようなことをされたわけでもなかった。

次は誕生日でしょうか、と、暗に父の誕生日に会う約束を遠まわしに匂わせると父は面食らったような顔をしていた。「変わったな」と言う父に、そうでしょうか、と淡泊に返せば「良い顔つきになった」と父は独り言じみてぽつりと零す。
もし、俺が変わったのだとしたら、それはテツヤのお陰だ。たまには顔を見せなさい、と残され俺たちは別れた。それは父なりの精一杯の譲歩だろう。

多分、テツヤとのことがなければ父と二度と話すことなんてなかったはずだ。彼はそういう意味でも俺に大きな影響を与えていた。
俺を負かした唯一の存在。初めての初恋。テツヤはいつだって俺の中心に根を張っている。


次にテツヤと会うのはキセキとの飲み会の場だった。
これでテツヤとの付き合いに障害がなくなったと思っていた俺は浮かれていたようで、真太郎に「そんなに上機嫌でどうしたのだよ。明日は槍が降るのか?」と恐ろしいものでも見るような顔つきで言われてしまった。大輝や涼太が「おいやめろ」とか「ズガタカッスよ!」なんて言って真太郎を止めるのも気にしないくらいには浮かれていた。

「父と数年ぶりに話してきたんだ」

そう言えば皆がこちらを見てぴたりと止まる。
「アララ〜赤ちんどういう風の吹き回し?」なんて言う敦を「そういう時は心境の変化というんですよ」とテツヤが窘める。言葉を正しく使おうとする姿勢は、テツヤの好きなところの一つでもあった。

「母の十三回忌でね」

墓に赤い菊を添えている父と偶然会ったんだよ。その言葉に対して大輝は「普通菊って白とか黄色じゃねーの」と言う。成程確かに仏花としてはそちらのイメージの方がメジャーかもしれない。葬式に寄せられる仏花は白や黄色が多い。「赤もあるッスよー青峰っちってばかッスね〜」などという涼太の不用意な発言で二人は口喧嘩に発展してしまったから、父もあれで素直じゃないからな、という俺の声は騒がしさの中に消えていった。
敦は一人黙々とスイーツを食べていて、大輝と涼太は喧嘩の延長線で呑み比べをしている。真太郎は今にも眠ってしまいそうなテツヤを心配してしきりに話しかけていた。

「大丈夫かテツヤ」
「赤司」
「あかしくん…」

炭酸が苦手なテツヤはビールよりも果実酒やカクテルを好んで飲む。日本酒もそれなりに好きだと言っていた。バニラシェイクが好きなだけあって、カルーアミルクやマリブミルクなんていう甘いお酒も好きだ。
酔っぱらった大輝に「テツって女みてーな酒が好きだよな」と言われたのが癪だったようでそこからは日本酒ばかりだったから潰れたのだろう。第一にカクテルは見た目や味とは裏腹にアルコール度数が高い。既にほろ酔いったったところに日本酒など飲めば、さして酒の強くないテツヤが潰れるのは道理だった。慎重に少しずつ味わうように酒を飲むテツヤにしては珍しい飲み方だった。
真太郎は明日も学校に行かなければならないらしく、「黒子は任せたのだよ」と言って、お代を置き三人に挨拶して帰って行く。医学部にストレートで合格した真太郎だが、医学生は他の四年制大学とカリキュラムが違う。社会人とは違う忙しさを抱えているにも関わらず、集まりがあればどんなに時間が少なかろうが必ず顔を出すところは彼らしいと思った。
真太郎の後ろ姿を見送っていると、「よかったですね」とテツヤが言う。

「お父さんと和解できたって」
「ああ」

テツヤは酷くぼんやりとした熱っぽい顔をしている。酒のせいだとわかっているのに、赤くなった首筋から頬と、潤んだ瞳が扇情的だ。

「お母さんの法事に出られないこと、気に病んでいたでしょう」

「家」と関係を絶ってから、母の法事にすら出席できないのは、絶縁した際の唯一の悩みだったと思う。そのことは一度だけテツヤにぼやいたことがある。そんな風に些細なことでも俺の話したことを憶えてくれているという事実に胸が躍った。

「丁度良かったんだ。いつまでも子供みたいに意地を張っていても仕方がないからね」

テツヤは笑って「キミも意地っ張りで頑固ですから。親子は似るものです」なんて言うから、一番頑固なお前に言われたくないよ、と形の良い額を弾いてやる。痛いです、と恨めし気にこちらを見遣るが、その視線はいつもの茫洋とした感情の読めない色に変わった。

「しかし、情熱的ですね」
「ああ、テツヤは気づいたか」
多分緑間くんも気づいていたと思いますよ、とテツヤは言う。
「愛情、真実の愛、それから」
「あなたを愛しています」
「ッ!耳元で無駄にいい声で言わないでください!!」

心臓に悪いです!と顔を真っ赤にして仰け反るから、酒に酔ったテツヤの身体は簡単にバランスを崩す。愛情、真実の愛、あなたを愛しています。全て赤い菊の花言葉だった。柔らかなソファから落ちそうになった薄い身体を捕まえて抱き寄せると抵抗なく胸元に収まった。ぽすりとテツヤの額が肩口に寄せられる。首筋に当たる彼の猫っ毛はやわらかくてくすぐったい。恐る恐る、形の良い丸い頭を撫でても抵抗はなかった。

「いつか俺の墓にも、赤い菊を持ってきてよ」
「それ、口説いているつもりですか?」
「そのつもりだけど」
「…ふざけんな、ですよ」

半分冗談で、半分本気。死んでも手放さないでくれ。お前から手放したりしないでくれ。懇願にも似た俺の願望を込めた言葉を口にすれば、テツヤは身を捩って俺の顔をまっすぐに見る。射抜く視線は、やはり強い意志がゆらゆらとけぶっていた。

ボクよりも先に死ぬなんて、許しません。


「毎日薔薇を贈るくらいの甲斐性と根性見せてください」


口を尖らせて怒った口調のくせに、それが少し嬉しそうで、今にも泣きそうな色が混じっているものだから、胸の奥からあの時の幸福が押し寄せてくる。だからその尖った口唇にうんと優しくキスしてやった。


俺たちが付き合うようになって一年後、大輝とさつきが結婚した。お互いに「こんなのと付き合えるのは自分しかいない」と口を揃えて言うものだから本当に似た者同士だと思う。いつもブスだのなんだのと言っていた癖に、さつきのウエディングドレス姿を見て、新婦の父親さながら涙ぐんだ大輝は、今でもキセキの間では語り草だ。
結婚式は、二周目の自分のせいであまり良い印象がなかったが、二人の幸せそうな笑顔を見ればそんな気持ちも吹っ飛ぶものだ。さつきに、おめでとうと祝福の言葉を口にする。彼女には中学時代、テツヤ並みの、或いはそれ以上の苦行を強いていた自覚があった。
誰よりも大輝に近く、誰よりも大輝から遠い場所にいたさつき。一番最初に才能の開花を見せたのは大輝だ。そこから坂を転がり落ちるかのようにキセキが崩壊するのを、キセキの外から誰よりも近いところで見ていたのはさつきなのだ。
男の子だったら良かったのに、とこぼしていたのを一度だけ聞いたことがある。それは彼女の心からの叫びだったのだろう。

俺からの祝福の言葉に、さつきは脈絡もなく、テツヤへの恋は憧れだったのだと振り返る。そう言った純白のウエディングドレスを着た彼女の笑顔はとてもきれいだった。


「テツくんのこと、あんなに好きだと思ったのに、結婚するのは大ちゃんだなんて全然真逆の人なんだから笑っちゃうよね」
「そうか?俺はお似合いだと思うが」
「赤司くんそれって嫌味?」
「特にけなしてもいないし、褒めてもいないな。俺の目から見たありのままの事実を言ったまでだ」
「そう。じゃあありがとうって言うべきなのかな?」

カラン、とルイボスティーがグラスの中で氷に溶ける音がする。お茶は彼女が持参したもので、俺たちへのお土産でもある。今カフェイン摂れないから、これ淹れてもらっても良いかな?と気恥ずかしげに笑う彼女の表情は母性を滲ませていて、聖母マリアもこんな表情をしたのだろうかと思った。

「赤司くん」
「なんだ」
「テツくんのこと幸せにしないと許さないからね」
「当たり前だ。そんなこと」

さつきからブーケをもらったんだからな、付け加えれば彼女は満足げにえへへ、と言う。みんな、しあわせだね、と。至極嬉しそうに笑うからつられて口角があがった。
ガチャリとドアの開く音がする。響いた音の方向を見遣れば、あっちこっちに飛び跳ねる髪をそのままにしたテツヤがのそのそと寝室から出てくるところだった。瞳はまだ寝ぼけ眼で半覚醒状態なのが目に見えてわかる。

「テツくんおはよ!」
「おはようござい…ももいさん?」
「話したいことがあったから来ちゃった!お疲れなのにごめんね?」
「さつきがお土産にオーガニックのルイボスティーを持ってきてくれたよ」
「せいじゅうろうくんいれてください…かおあらってきます…」

ゆったりとした上下黒のスウェットをずるずると引きずりながら洗面所へ消える。パジャマを全て洗濯してしまったといって、昨日は俺の寝巻兼部屋着を勝手に着ていたから丈が余っているのだ。キミは手足が長すぎです。腹が立ちます。と悪態をついていたテツヤの表情が浮かび、軽く思い出し笑いをする。そんな様子を見てさつきが口を開いた。

「テツくんって結構甘えた?」
「朝が弱いんだ。あと紅茶は俺が淹れた方が美味しいと言って頑なに自分では淹れようとしないな」
「あ〜もうのろけられちゃった!おなかいっぱいだね?」

まだふくらみの目立たない腹に語り掛けるさつきの姿は、もう立派な母のそれだった。


二人の子供は予定日を大きく過ぎてさつきの腹に居座った。四千グラム越えの大きな赤ん坊は、元気な男の子。瞳は濃いサファイア。目つきも顔つきも大輝そっくりで、あとから分かったことだが柔らかいがこしのある桃色の髪だけが彼女に似ていた。
母親が大好きで大輝に抱っこされると泣いてしまうので大輝が拗ねていたのは記憶に新しい。寝ている時にてのひらに指を差し込むと強く握り返すのは父親たる大輝に対してだけということを彼はその時、まだ知らなかった。
大きくなったらセミ取りザリガニ釣りに連れていくと今から息巻く大輝は大きな子供そのもの。さつきは子供が二人に二人に増えたみたい、と呆れた様子で言っていたがしあわせいっぱいだという感情を惜しげもなく露わにして笑っていた。
俺は特に子供が好きだった覚えはない。性質上仕方がないとはいえ、すぐに泣いたりわがままを言ったりすることの多い生き物は正直苦手だったし煩わしささえ覚えた。しかし、かつての仲間の子供は例外に該当するらしく、素直に可愛いものだと思った。

もし。もしもテツヤとの間に子供が生まれたら。そんなありえない妄想を抱くほどには、大輝とさつきの子供は可愛らしかった。子供がほしいわけではない。「テツヤと俺の」子供ならほしいと思ったのだ。


思えばこの頃からテツヤの様子がおかしかったように思う。曇りがちになったその表情に、俺はこの上ない程動揺した。テツヤの沈んだ表情が、いつか彼に別れを告げられた時――二周目のあの時の表情に酷似していたからだ。今回は完璧なはずだった。間違えていないはず。事故は未然に防いだし、父親との関係も良好。関係が良好というのはテツヤとの付き合いも含めてのことである。
和解してから二年以上が経った頃、二十五を過ぎた俺にそれとなく結婚しないのか、と父が聞くから、その内大切な人を紹介するとだけ伝えていた。定期的に食事をする仲にまで関係は修復されていて、俺は父にテツヤのことを少しずつ話していた。そんなに親しくして世話になっているのなら一度連れてこいと言われる程度には父の中の彼の好感度は上がっていたと思う。でも、テツヤは俺との関係を父に打ち明けるのに否定的で、ギリギリまで渋っていた。不安に揺れる双玉に心が痛まないわけではなかったが、父にカミングアウトすることで周囲の親族にも釘を刺してくれるだろうと踏んでいたため、早めに行動に移したかったというのが本音だ。
父は、テツヤのことを憶えていた。名前を知らなかったために、黒子テツヤという名前と彼が結びつかなかったらしいが、俺を唯一負かした人物として脳内にインプットされていたらしい。テツヤを紹介する時、前もって父に伝えたのは次の食事にテツヤを連れていきたいということだけだった。恋人や大切な人を紹介するとは一言も言っていない。
しかし、父は「征十郎を宜しく頼む」と、いつになく優しい顔で言ったものだから、今度は俺が面食らう番だった。おまけに日本が無理なら海外で結婚してしまえば良い。イギリスなんてどうだ、と茶化すものだから、自分の父親というものが分からなくなってしまったほど。
父は存外テツヤのことを気に入ったようで、職業や趣味、好きな食べ物など次々と彼を質問責めにする。一つ一つ丁寧に答える彼は、父の目により一層好ましく映ったようだった。結婚できないのならうちの養子に入れば良いのではないかとまで言い出した時にはテツヤは顔を真っ赤にしておろおろしていた。林檎のように顔を赤らめるテツヤは可愛いが、それが俺の手によるものではないのは正直面白くない。これ以上言うと征十郎がお冠だからやめておこうか、と悪びれもせずに言うものだから、テツヤは俺ものですから、と思わず言ってしまってテツヤにボクはモノじゃありません!と怒られた。

幸せだった。母を亡くしてからますますわからなくなった父親と、やっと本当の家族になれた気がした。そしてテツヤは、俺の恋人で、もう家族の枠組みにすら入っていると認識しても良い程だったのである。

俺の初恋。俺の宝物。幸福のありかはここだと、そんな風にまた思った。二周目のあの時、テツヤは俺にしあわせになってほしいと言ったのを思い出す。テツヤと柔らかな日々を過ごす以上のしあわせを、俺は見つけることができないのだと改めて思った。


ネックになっていた「赤司」という家の問題が解決しているというのに、どうしてテツヤは不安な顔をするのだろう。何処に因子があるのか考えても、それとなく聞いても答えは一向に出なかった。


大輝とさつきの子供が一歳を迎えて、キセキやその他高校時代の親しいメンバーが集まり、盛大な誕生日会をした帰り道。普段は外で手を繋ぐと怒るくせに、夜ということもあってか俺の行動に文句をつけることなく、彼のてのひらは大人しく俺の手の中に納まっていた。
月明かりのきれいな夜だった。

「征十郎くんは、子供好きですか?」
「そうだね、今は可愛いと思うよ」

俺がそう言うとテツヤは握った手に込める力をきゅ、と強める。テツヤは無論、子供が好きだ。無類の子供好きである。一般論として子供が好きでなければ保育士なんて仕事やっていられないだろう。

「別れましょうか」

突然だった。握っていた手がするりと逃げる。
テツヤは顔を伏せていて、白い肌もまろい頬も彼の顔のパーツで一番好いていると言っても過言ではないアクアマリンすらも見えない。

「断る」
「お願いします。別れてください」
「一応聞いてやる。理由を言え」

理由を聞いたところでこの手を放してやるつもりは毛頭ない。キミのそういうところ嫌いです、と彼は言った。既視感しかなかった。それを思い出したのは二周目の、俺の死の直前だ。また、あの頃のことを記憶の彼方にやっていた。しあわせが、身近にありすぎて。上手くいかなかった過去を思えば不安はいつでもあった。しかし、今度こそ大丈夫だと嫌な記憶に封をしながら言い聞かせていたのだ。もう、テツヤは俺を手放したりしないと信じたかったのである。


「やっぱり、子供がほしいんです」
「キミのこと嫌いになったわけじゃありません」
「でも、キミとボクの間には子供は生まれないでしょう」
「ボクは男で、キミも男です。そんな非生産的で社会的にも認められ辛い関係、続けていてもキミにメリットなんてない」
「お互い一人っ子ですし、親不孝はしたくないんです。キミのお父さんだってなんだかんだ孫の顔が見たいはずです」
「敏いキミなら知っているでしょう。最近ボクが同僚の女性と会っていること。疚しいことなんて何もしていません。最初は本当に職場の相談でした。でも最近彼女がボクのこと好、」
「黙れ」


つらつらと、よくもそんなに言葉が出てくるなと思うくらいテツヤは饒舌によく喋った。俺の目を見ようともしないで、少し伸びた前髪で顔を隠している。あんなに短くされたらたまりません、と拒まれたが、強硬してでも彼の前髪を俺の手で切っておくべきだったと思う。表情が読めないどころか見ることすらできないテツヤを引き寄せて抱きしめる。彼の頭頂部からは俺と同じシャンプーの匂いがする。しかし、俺のものとは何か違う匂いにいつもならどこか安心するはずだったが、今日はどうにもならない焦燥だけが渦巻いていた。彼から伝わる心音は驚くほど一定で、早くも遅くもない。俺の鼓動だけがいやに響いていた。


「誰に何を言われた」
「ボクの意思です」
「誰に何を吹き込まれたんだ」
「…ボクの意思です」
「ねえテツヤ、」
「はい」
「お願いだ。嘘だと言ってくれ。」


別れたくない。嫌だ。そう言った声は酷く不安定で掠れたものだ。自分にもこんな声が出せるのかとどこか現実感なく思った。


「せいじゅうろうくん」


俺より少し背の低いテツヤが額を俺の肩口に摺り寄せる。それは彼が甘える時の仕種だ。やわらかなその行動は彼の行動の中で俺が好むものであったが、この場にはどうにもそぐわない不釣り合いな印象を受けるもの。シャツに口唇が擦れるらしく、くぐもったその声は少し舌足らずに聞こえた。


「キミは、しあわせになってください」


それは俺に対する呪いだった。呪縛だ。俺を縛り付ける鎖だと言っても良い。しあわせってなんだ。幸福って何だ。今まで幾度となく考えたことだった。何度も考えて、必死に理論立ててみても、彼の言うしあわせの意味が、俺にはどうしてもわからない。探し出すことすらできない。
顔をあげたテツヤの表情は、月灯りが逆光になってどんな色をしていたのかさっぱりわからなかった。


テツヤのいなくなったベッドで夜毎魘される。彼がいなくなったということが現実だと嫌というほど分かっているのに、夢ですらその事実を突きつけられる毎日に、俺は既に壊れた人形のようだった。
どうにでもなれと思って無理をした。無理はしても無茶はしないでくださいね、と言っていた彼の言葉を思い出してやけくそになって無茶をした。テツヤがいない毎日なんてどうでもよかった。世界がモノクロに見えて、全てが色褪せている。人間が人間じゃないように見えて、自分もそのうち人間じゃないんだろうとまで思った。自分がどんな風に生活して、どんな人生を歩んで、どんな人間だったのか、テツヤがいなくなった今、それすら思い出せない。
仕事に行けば部下が怯えたような視線を送ってくるか、腫物に触るかのように接してくる。なんだか凶暴な気持ちになって部下にも無茶ぶりばかりして困らせた。復縁した父にも、キセキの面々にも、かつてのチームメイトにも心配されたがそれすら疎ましい。
そんな生活を二か月も繰り返しているとろくに食事も摂っていなかった身体はガタが来て、仕事の最中に倒れた。既に内科医としてい働いていた真太郎が駆けつけて、入院を余儀なくさせられたが、それも抜け出した。
いつか大輝のことを大きな子供だと言ったが、俺も大して変わらない有様だと心から思う。わがままを言う子供。それが通らなくて駄々を捏ねる子供。
無理をして出社すればいつの間にか勝手に有給を取らされていて職場を追い出された。それは父の仕業で、玄関から出てきたところで父に捕まり、少し頭を冷やせと言われて京都行の新幹線のチケットを握らされた俺はただホームに立ち尽くす。
着の身着のまま、着替えも何もなしにホームに放り込まれていた。京都にある赤司本邸に行けということなのだろう。父は仕事の都合で京都の本邸から東京の別邸に住まいを移していた。今は誰も生活していない本邸だが、母と三人で過ごした家でもある。使用人によって定期的に手入れが入っているのだから、最悪財布だけあればどうとでもなるのはよくわかっていた。

エスカレーターの横にあるガラスに映った自分の顔は酷くやつれている。自分の顔じゃないようだった。目元は隈ができて、もともと鋭かった視線は人を殺さんばかりの獰猛さすら感じるほど。

テツヤ、お前の言うしあわせって何なんだい。俺はこれからお前なしでしあわせになれるというのかい。しあわせになれっていうのかい。それは酷すぎやしないか。

届かない疑問だけが身体の奥底に一つ二つと沈んでいった。

ぼんやりと京都行のホームに立つ。前回のように自ら死ぬことはできないと思った。死ぬ直前に見た、テツヤの顔が、どうしても忘れられない。
彼にそんな顔をさせたくて死を選んだわけではなかった。生きていても死んでいても変わらないと思ったから選択した死だったが、彼がそんな顔をするならもう二度と死を選ぶことはできなかった。

今日も空は晴れている。
どうしてこういう日は、いつも晴れているのだろうか。雲一つない、雲量から見ても快晴と呼ばれるべき曇りない澄んだ空はどうしても彼を思い出してしまう。
嫌いになれないその空の色が、酷く恨めしいのだ。

空に見遣った視線を下げると、向かいのホームに、見知った空色があった。――テツヤだった。
一つホームを挟んでいるのに、彼の姿かたちが隣にいるかのようによく見える。少し痩せたような気がする。
きっと彼のことだから食事を疎かにしているに違いない。繊細そうな形をしている癖に彼は意外と大雑把だし、食事に関しては適当どころの騒ぎではなかった。顔色も少し悪いような気がした。

じっと、見つめていると、強い視線に気づいたのか、彼は俺の方を見た。
ビー玉の瞳を見開いて、俺を見つめ返すその色は、後悔、だと思う。
どうしてお前がそんな顔をするんだ。お前が俺を手放したんだろう。そうしたらこの有様だ。お前が言っていたしあわせはこの先にあるんだろう。テツヤがしあわせになれと突き放したから、彼がそれを望むのならと、身を焼き切られる思いで彼の手をやっと手放したというのに、結局俺はお前にそんな顔をさせてしまうらしい。
じゃあ、俺は一体どうすれば良かったんだろう。何が正解だったんだろう。どこで間違えたんだろう。何度考えても、何度思い出してもわからなかった。
どうして、と悲しそうな顔をするテツヤから目を逸らせずにいた。テツヤも同じようで、俺から目を逸らすことはなかったから、数十秒か数分か見つめあっていたと思う。そんな時間も、やってきた京都行の新幹線に遮られてあっという間に終わる。どうしてかその電車に乗ることもできず、乗車口が開いて閉じるのをただ突っ立って見送った。

新幹線が過ぎ去ってホームの向こう側をもう一度見たが、そこにもうテツヤはいなかった。


どこでまちがえた



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