神様は死んでしまったよ | ナノ

最初は死の淵だった。
お前の顔を見て、やってしまった、と思った。バスケのこと以外で泣こうとしなかったお前が顔を歪めて泣いている。抱きしめたいのに、もう腕は動かなくて、自分の無力さを呪った。彼の表情に胸が締め付けられる以上に、呼吸がし辛かった。
肺が潰れてしまったかのように荒い呼吸。ああ、死ぬんだな。そう、漠然と思う。不思議なもので、死に対する恐怖は全くと言って良いほどなかった。彼にもたらされた敗北以外に、負けなんて知らなかったのに、こんなにも人間は呆気なく死ぬのだと改めて思う。自分なりに大切にしていた母が、眠るように死んだ時にそんなことはわかっていたはずだったのに。
未練も後悔もない、と言い切りたいところだが、一つだけ。馬鹿みたいに泣いて、鼻水と涙でぐちゃぐちゃのお前に、ちゃんと自分の気持ちを伝えておくべきだったなと思う。見返りが欲しいと思ったことはなかった。お前がいつも見ているのは、自分とは似ても似つかないような誰かだったし、自分のことを憧憬や敬慕交じりの瞳で見ていることは知っていた。嫌われてはいないと思う。でなきゃこんなにも泣いたりしないだろう
絶望を希望に、敗北の意味を逆方向に。自分の中の価値観を百八十度方向転換させた彼と和解してから積極的に交流していたから、寧ろ親しい友人の部類に入っているはずだ。それでも、自分の感情と重なり合わないのだろうと、勝手に思っていた。

伝えるだけ伝えたいというのは、わがままだろう。なりふり構わず泣いているお前は色んな液体でぐしゃぐしゃでお世辞にも綺麗だとは言えない状態なのに、それでも心から湧き上がるあたたかな感情になんと名前をつけよう。そんなことを考えて笑いそうになったが、ぎりぎりのところで命を繋いでいるらしい身体は、生憎表情筋を動かすことすらできない。普段仕事をしていないお前の表情はありありと動いているのになんとも皮肉なものだと思う。

伝えたかった。好きだ、とたった三文字。アジュールブルーの眸が濡れている。彼が何か言っているのに、それもうまく聞き取れない。あかしくん、と自分の名を呼んでいるのだけは、口元の動きでわかった。

「行かないでください…!」

はっきりと聞こえたその言葉に、ゆっくりと噛みしめるように、好きだよ、と返した。声帯の震えなしに動かした口唇の意味は、お前に伝わっただろうか。壊れた蛇口みたいに涙を流し続けていた彼の双眸が見開かれる。ビー玉のような輝きを持つ美しい双玉だと思う。もっと、できるならずっと見ていたいと思ったけれど叶わないことはよくわかっていた。
ピーという音が聞こえて、意識はゆったりと遼遠の彼方に消えていった。



暗転



ぱちりと目が覚めた時、そこは自宅のベッドだった。天国も地獄も信じていていなかったが、なるほど冥界というのは生前の世界と対して変わらない作りなのだろうか、と淡白に思う。もしかしたら現世に魂が残ってしまったのだろうか、それならば自分は地縛霊ということになるのだろうか。そんなこともつらつら考えた。
死んだことは自覚している。それにも関わらず、意識があるというのは自分が幽霊になってしまったと考える他ない。非科学的なものを信じる気など毛頭なかったが、自分の身に起こっていることなのだからそれを否定することもできなかった。フィクションの世界のように身体が宙に浮くこともなければ、足だってちゃんとついている。
どうしたものか、と首を捻って、生前と同じように行動してみようと思いついたのはごく自然な思考だと思う。死んでしまったのだから、きっと誰の目に留まることもないだろうし、好き勝手してもいいだろう。
そんな風に思ったところで違和感に気付く。感触があるのだ。普段使っていたシルクのシーツの触感も、低反発の枕も肌触りも匂いも感じることができる。幽霊だと思っていた自分に質量があるというのはどういうことなのだろうか。

記憶に違いがなければ、「赤司征十郎」は死んだはずだ。トラックに突っ込まれて重傷を負い、搬送先の病院で息を引き取ったのだと思う。心電図の途切れる音だって聞いたし、何トンもあるトラックに跳ね飛ばされた時の言葉にならない痛みだって思い出したくはないが脳髄に刻み込まれている。質量を持つ幽霊なんて聞いたことがない。
果たしてこの不可思議な状況は何なのだろうか。取り敢えず現状を把握できなければどうしようもない。この状況を打破するべく、今が何月何日何曜日で、俺の身体は一体どうなってしまったのか確かめる必要があった。コールドスリープなんてSFの世界の単語を思い出す。もしかして俺は助かって何年も眠っていたのかもしれない。
そんな空想じみた可能性を自分らしくもなく真面目に思い描いていたから、ベッドサイドに置いてあるデジタル時計の指し示す日付と時間は驚きの事実でしかなかった。死んだあの日の朝。時計が示しているのはその時刻だったのである。トラブルに見舞われた際、無暗やたらに動き回らない方が良い時とそうでない時がある。今回は後者だと思った。ここは世界一安全だと言っても過言ではない日本だ。この身に何が起こっているのか確かめるには、自ら動くしかない。
あの日の朝俺は何をしていただろうかと思い返す。いつものようにロードワークに出た後シャワーを浴び、簡単に朝食を摂って、身の回りの雑事を済ませた後は昼から友人と待ち合わせ。待ち合わせ場所に辿りつくよりも早く偶然相手に会ってしまい、そして自分を見つけた友人が俺に駆け寄ってきて、それから、

(俺は死んだ)

己の眼を、天帝の眼を以てすれば避けることができた、というより起こりえなかったであろう事故。どうしてそんなものに巻き込まれたのかといえば駆け寄ってきた友人――黒子テツヤを庇うためだった。いくら普段から鍛えていたとしても、鉄の塊に時速百キロで突っ込まれてはどうしようもない。どう考えてもあの車両はスピード違反をしていたと思う。彼を突き飛ばした俺はトラックに撥ねられて、身体が宙に舞って、救急車で病院に運ばれて、それからはさっき考えた通りの結末だったはず。
つけたテレビニュースは死ぬ前に見たものと同じだし、新聞の見出しも一緒。ちなみになんとはなしに入れたおは朝占いは射手座と水瓶座が同率最下位という謎の結果だった。真太郎ならきっと「前代未聞なのだよ」とでも言うのではなかろうか。
単純に考えて俺はあの日の朝に戻ってきたらしい。所謂タイムトラベルやタイムスリップと呼ばれるものなのか、或いはタイムリープというものなのか、それともあの世で見ている夢ただの夢なのか、全く見当がつかない。携帯を確認すれば、約束の時間を確かめるメールが届いていたし、俺が目を覚ます前の時間はあの日と全く同じように流れているようだった。
時間が、若しくは自分が、何らかの作用であの日に戻ったのだとすれば、あの日の行動を同じように続行することで間違いなく俺は死ぬのだろう。予測でしかないが、少ない身の回りの材料で考えると妥当な答えだと思う。ならば、わかっている結果通り大人しく死ぬ必要もない。死に急いでいるわけではないし、自ら望んで死んだわけでもないのだ。
結末を変えるためにはあの日行ったであろう行動を一部変えてしまえば良いことは容易に予想がつく。しかし既に行われた今日という日を、あまりに逸脱した行動で塗り替えてしまうのも躊躇われた。不必要に過去(と言っていいのかわからない。今の時点では自分が死ぬということは未来になるが、俺は何せ経験していることだから過去になる。便宜的に、あの日のことを俺は過去と呼ぶことにした。)を改竄するのはあまり良いことではないだろう。
ともすれば、ある程度過去をなぞって事故にさえ遭わなければ良い。小説や漫画の中で過去や未来へといった場合、誰かを助けた代わりに誰かが死ぬ、命の数は決まっている、なんて描写が数多くあるのは承知していたが、致し方のないことだと思った。自分の代わりに死ぬかもしれない見ず知らずの誰かには申し訳ないと思う。しかし、このままむざむざと死ぬわけにもいかなかった。

だってあの瞬間、俺は唯一にして最大の未練を残してしまったのだから。

記憶を頼りにほぼ忠実にあの日を再現する。十四時に駅前通りで待ち合わせ。テツヤが好きな作家の作品が実写映画となって、たまたま試写会のチケットを手に入れたからという名目で二人で出かける約束をしていた。本当は偶然なんかじゃなくて、知り合いの伝手を使って手に入れたものだったけれど、彼には内緒にしていた。
大学を卒業して一年。俺は赤司本家との縁を切って、大学在学中に起業した会社でCEOとして働いている。テツヤは念願の保育士となっていた。忙しいながらも楽しい毎日だと言いながら浮かべた彼の笑顔を脳裏に描く。
中学最後の全中。キセキの才能の開花によって俺たちの繋がりは綻んでいたし、あの決勝が瓦解のきっかけになったことは言うまでもない。止めを刺したのは他でもない“僕”だ。間接的に涼太が関わっていると彼自身が後悔してテツヤに謝罪していたが、涼太の最低な提案を止めもせず、彼が一番嫌がる、やめてくれと懇願された方法で勝利をもぎ取る決定を下したのは俺以外に、いない。くだらなくて楽しかった日々と、最低な別れを経た俺たちが、「帝光のキセキ」という呪縛から解き放たれて、初めて新しい関係を築き始めることができたのは、他でもない黒子テツヤのおかげだった。バスケによってばらばらになったキセキを、もう一度繋ぎ合わせたのは、俺たちが否定した彼のバスケだったのである。
そんないきさつで一度は決別したテツヤと最も親しくしているのは、多分俺だと思う。高校一年のウインターカップで蟠りもとけて和解して以来、現在一番親交が深いと言える間柄になっていた。最初こそ頻繁でなかったものの、休みの日には高確率で一緒に出掛けるし、互いの家にもよく泊まる。そんな関係。他の元チームメイトを差し置いてそんなポジションを獲得したのは、偏に俺の努力の賜物だった。彼と出会って早十年以上。かけた時間は片手では足りない年数。少しずつ距離を詰めて漸く得た彼に一番近い隣という位置。

黒子テツヤ。俺が見出した存在。手塩にかけて育てた子供みたいなもの。そして初めて自分自身をありのまま見つめてくれた存在でもある。「赤司」という枠組みでもなく、「帝光バスケットボール部の主将」でもなく、ただの中学生である「赤司征十郎」として接してくれた初めての存在。憧憬と景仰がなかったと言えば嘘になる。俺に対する憧れのような淡い感情は感じていた。それでも彼と俺はどこまでも対等な存在だった。彼はキセキの才能の開花による帝光バスケットボール部のあり方に疑問を感じていたし、変貌した俺に平伏することなく対立の意思をとった。秘めた闘志を瞳に燃やすその輝きは、濃い色をして強く俺を射抜いて、その感覚に“僕”(当時は“俺”は“僕”だった)はぞくぞくしたのを覚えている。無駄なことを、とは思いつつどこかでその薄水色の揺らめきに期待していたんだと思う。シナリオ通りに進む俺の未来を、決められた役割をこなすだけの「王将」という駒でしかない俺の人生をどうか揺らがせてほしい。そんなわがままで責任転嫁紛いな期待を、淡く心の隅に抱いていた。
結局、彼は俺に初めての敗北をもたらした。それは彼からのギフトだったんだと思う。ありのままの自分を受け入れろと言った彼の表情は子供を叱咤する親のようですらある。彼はぴしゃりと「逃げるな」と言って、静かに泣いていた。その透明なしずくは、俺のための涙だった。床に流れ落ちる大粒の涙は宝石のよう。拭うこともしないまま、ぼろぼろと泣く彼は、ただ一言「おかえりなさい」となんて言って泣き笑いの表情を作る。テツヤの笑顔が、言葉が、すんなりと頭のてっぺんからつま先まで流れるように落ちて行って、すとんと心の中心に収まった感覚は、今でも昨日のことのように思い出せる。その時、“俺”と“僕”はようやく一つになったのだと思う。何も言えずに立ち竦む俺に手を差し伸べた彼は、もう一度「おかえりなさい」と言った。蹂躙するように、搾取するように、彼の心と大切なものを踏み躙った俺を責めることなく無条件に受け入れるテツヤ。相変わらず筋肉の付きにくい薄い身体が、ドクドクと早く不規則なリズムで鼓動している。その心音に、包み込むかのようにやさしい腕に、どうしてか無性に安心感を覚えて、彼の声が心地よくて。母が死んでからいつの間にか凍っていた心がゆるやかに融けていくようだった。縋るように彼の背に腕をまわして泣いた。本当の意味で、「赤司征十郎」が生まれた、産声だったのかもしれない。

ヒントを与えれば直向きに努力する姿は好ましかったし、寒がりなくせに冬でも好物であるバニラシェイクを震えながら飲み続ける様子にはあどけない可愛さすら感じた。青峰とバスケをしている時の笑顔は本当に輝いていて、どこか面白くない気持ちになったことすらある。それが嫉妬という感情だとは思ってもいなくて、どうにもムカムカとした感覚が収まらないものだから救心を飲んだ程だ。一向に良くならないのを不思議に思っていた。多分初めて彼を見つけた時には、恋愛感情ではなかったと思う。しかし、特別な何か――隠された宝箱を見つけたような感覚があったのは確かだった。それがいつから恋愛感情になったのかはわからない。恋なのだと、気づくには俺の心は幼かったし、気づく前に帝光バスケットボール部のあたたかな場所は跡かたもなく壊れてしまった。気付いた時に彼はもう傍にはいなくて。そんな事実と高い自尊心と、勝利が絶対だという合理主義が幼い恋心の認知の邪魔をした。彼から敗北の新しい意味を教えてもらったことで、漸く俺は彼に抱いていた感情の名を知る。


有り体に言えば、俺は彼を好いていた。
そう。俺は彼のことが好きだった。


この声が届くのなら、奇蹟は起こせるんだろうか



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