神様は死んでしまったよ | ナノ

はじまりはあまりに突然。キミが死の淵にいる時だった。ボクがキミに駆け寄らなければとか、会う約束なんてしていなければとか、そもそも親しくしていなければとか。無数のIFが次々と思い浮かんでは、しても仕方のない後悔がボクを襲った。みっともなく、年甲斐もなくぼろぼろと涙を流すボクに「すきだよ」キミはたった一言。既に声帯を使う体力もなかったらしく、パクパクと口を震わせるだけだったけれど、口の動きだけで伝わったそれは、ボクの心の中をぐちゃぐちゃにかき乱すのには十分な一言。
気付かなくてもしあわせはそこにあった。なんでもないようなことが、キミがボクに向けてくれる笑顔が、しあわせだった。
失くしてから気づくなんて、なんて愚かしいのだろう。自分だったら絶対にそんな馬鹿なことは絶対にしない。一度、大切なバスケを手放しかけたことがあるからこそ、フィクションの中で過ぎ去った幸福を嘆く登場人物を見ては、いつもボクはそう思っていた。どうしてそんな根拠も何もない自信が沸いてきたのだろう。そんなあの頃の自分を殴ってやりたい。例に漏れず、ボクも愚かな人間のひとりでしかなかったのだ。

やめて。ボクからこの人を取り上げてしまわないで。もう一度目を開けて。またボクにその笑顔を向けて。ボクの返事を聞いて。

心電図の途切れる音を聞いて、ボクの視界は真っ白になった。



****



「よお」
「…は?」

まばゆい光に包まれたと思ったボクは、いつの間にか真っ白な空間にいた。白い病院独特の消毒液の匂いのするベッドの上に横たわる彼が、髪や瞳の色と同じ色で染められていたのを目の前で見たあとだっただけに、一面に白しかないその空間はボクの瞳にはいささか刺激的すぎる。そして信じがたいことに、目の前には一人の人間が何もないただ白いだけの宙に浮いていた。
それはボクのプレイスタイルを模倣し、完全にコピーしたプレイヤー。いつか、ボクを暗闇のどん底から掬いあげたあの人が、キセキを、ボクを、倒す為に作り上げ手ほどきした存在。そしてボクのプレイスタイルを完全に模倣することはできても、不完全な影だった人。

「黛、先輩…?」
「へえ、コイツの名前ってそんな名前なんだな」
そう言って黛先輩と思しき人物は、自身の全身をざっと見まわした。

――黛千尋。それは彼の名前だ。高校一年時のウインターカップで、赤司くんから「新型」と称された、洛山高校の六人目(シックスマン)。

旧型だの何だのと試合中にボクを散々馬鹿にしたことは事実だが、彼が部活を引退してから、ボクたちはそれなりの友好関係を築いていた。
きっかけは、たまたま東京の大型の本屋で遭遇したのことだった。しかも同じ本に同時に手を伸ばすという偶然付きだ。買おうとしたのはライトノベルだった。新刊を毎回チェックしているお気に入りの作家さんが初めて出すというライトノベルは、大いにボクの興味を引いた。迷わず発売日当日に買いに来た大型書店で黛先輩に会うとは露とも思わず。
そこで、ボクは先輩がライトノベルが好きだということを初めて知る。ウェブで先行公開されていた試し読み版が大層お気に召したのだと言う。小説が好きだと自分のことを話せば、先輩は「赤司から聞いてる」と言った。「ラノベなんてイメージじゃねえな」と彼は言ったが、ボクはジャンル問わず読む所謂雑食タイプの人間である。面白ければどんな類の本でも選り好みせずに手に取ってしまうのだ。だからボクの部屋には本棚に収まらない書籍やら雑誌やらが床に積まれ、沢山のタワーが出来ている。近代文学から恋愛もの、ミステリーにSF、ホラーだってライトノベルだって読むことを説明し、今しがた買おうとしていたライトノベルが最近SF界を賑わせている人のものだということもつい興奮気味に告げてしまった。その情報に彼は大層興味を示した、と思う。どうやらウェブ公開のお試し版が随分と好感触だったらしい。先輩はライトノベルの方が好きだというが、本好きのセンサーは誤魔化せない。少しそわそわしている様子の彼は、きっと本来の先輩の姿なのだろう。試合中のあの一時の先輩しか知らないが、きっと彼はボク同様影が薄くとも、ボクほど普段から感情の見えにくいタイプというわけでもなさそうだった。
気付かれない程度にボクは黛先輩をじっと見つめる。趣味であり特技である人間観察だった。多分、素直なタイプの人間ではないだろう。旧友である緑間くんに似て、非なるタイプといったところだろうか。おは朝占いの信者である彼は、普段非常にそっけなく棘々しい態度を取るくせに、数回に一度は妙に友好的な態度で接してくる人間だ。あれはたまたま彼の前で転んで怪我をした時だったと思う。人事を尽くさないからそういうことになるのだよ、とかどんくさい、だとかいちいち言わなくてもいいことまでぐちぐちと言って、追い討ちをかけるようにちくちく非難してくるその癖、最終的には少し顔を赤らめて、たまたま持っていたから使うのだよ…!と絆創膏を渡してきたのだ。テンプレートに当て嵌まりすぎたツンデレ属性だとあれ程に思える人間は中々いないのではないかと思う。緑間くんがツンデレなら、この黛先輩と言う人はツンツンと言ったところだろうか。何十回に一度、或いは何百回に一度しかデレは拝めなさそうである。たとえば、親切や厚意に対する感謝を述べれば、ついでだとかお前のためじゃないと言って頑なに譲らず、表情すら変えないタイプなのではなかろうか。重要なのは、無表情というところである。ここで顔を赤らめたりしたらただのツンデレでしかない。ボクは、ぼんやりと、優しさもそっけない人間なんだろうなと思った。つらつらとそんなことを考えているうちに、あまりに観察に集中しすぎたようだった。あまりにじっと見つめていたせいか、「なんだよ」と先輩は訝しげな顔でこちらを見ている。

あれだけあの試合で非道い言われようをしたのだから意地悪をしても良かったが、読書好きに悪い人間はいないというのが持論である。(決してどこぞの色黒の誰かの真似ではない。断じて。)折れてあげてもいいかな、と思って、読み終わったら感想を話し合う人が欲しいのでアドレス交換しませんか、とボクから切り出した。軽く瞠目し、一呼吸置いた後、「お前ってお人よしなの?」と呆れた目線を向けられたが、そんな言われようをする筋合いはない。この作者のデビュー作の絶版本持っているんですが…とあくまで淡々と言えば彼はすぐさまスマートフォンを取りだしたから、ついているのかついていないのか分からない表情筋が珍しく活発に動いたのをよく覚えていた。そんな風に笑ってしまったものだから、黛先輩に嫌な顔をされたのは言うまでもない。

そんないきさつで、黛先輩が好みそうなライトノベル以外の小説を勧めたり、逆に先輩お勧めのライトノベルを教えてもらったりといったやり取りをしたおかげで、ボクは大学を卒業した今でも時折連絡を取り合う程度の仲は続いている。
見た目も、声も、話し方もすべてそっくりそのまま黛先輩なのに、何処か覚える違和感はなんだろう。必死に頭を落ち着かせて冷静に考えるよう努めても、状況は依然と把握しきれないままだ。
多分最大の違和感は、彼のその服装だろう。黛先輩に見えるその人は、ボクの二つ年上であったはずなのに、何故か彼がかつて在籍していた洛山高校の制服を着ていた。

「オレはお前の知っている黛という人間じゃない」

黛先輩の声で、姿で、目の前の存在は話し続ける。

「この身姿は仮のものだ。お前が本能で、よりイメージに近いと思ったものの姿を借りているだけにすぎない」
「・・・何を仰っているのか、良く分かりませんが、あなたが人間じゃないという解釈で宜しいでしょうか」
「簡単に言えばそういうことになるな」

何を言っているのか、さっぱり理解できない。ただ一つ解るのは、彼が黛さんの形をした、人間ではない何かだということだけだ。本人が人間ではないことを認めたのだから間違いないだろう。彼はボクの言葉を肯定しながら、ゆっくりと宙からボクが足をつけている地面に降り立つ。そんな芸当ができるのは、人間ではないという何よりの証拠だった。よしんば人間だったところで普通じゃない。超能力者かなんなのかさっぱり検討がつかないが、彼がボクの知る「黛千尋」という人間ではないことだけは理解できた。

「それで一体ボクになんの御用で」
「へえ、驚かないんだな」
「…驚いていますよ。ただ、それよりも大事なことがあるだけです」

冷たい返答になっているのには自覚があった。しかし、決して意図的なわけではないし致し方ないと思ってしまう自分がいる。
驚きがないわけではないのだ。正直、予測不能の事態で一向に自ら置かれた状況を理解し切れいていないのが現状だ。
しかしそんなことよりも早く、このわけのわからない空間から、あるべき場所へ戻りたかった。きっともう、彼は息をしていない。この世に留まる為に必要な心音が、途切れる音をはっきりとこの耳で聞いたのだから間違いないだろう。それでも、ボクは彼に会いたかった。返事が無くたって、自己満足だって何でもいい。最期の力を振り絞った彼の言葉に、自分の精一杯の気持ちを返したかったのだ。

「そんなに急ぐな。オレはお前に呼ばれたんだぜ」
「…ボクに呼ばれた?」

ボクが、いつこの人を呼んだというのだろう。ボクは此処に望んでやってきたわけではないし、此処が何処なのかすらわからない。その上知らないうちに連れてこられた異空間だ。突然現れた目の前の人の名前を呼んだ覚えもないし、この人はボクの知っている黛先輩とは姿形は似ていても全く違う存在だと自分で言っているくせに、どうやってこの人をボクが呼んだというのか。本来の意味で言えば、彼の名前すら知らない。疑問しかなかった。

「まあ、そんな何言ってるんだコイツ、みたいな顔すんなよ」
「…そう言われましても、ボクはあなたの本当の名前すら知りませんし、」
「希っただろう」

淡々と述べられる言葉は事務的だが、何処までもお見通しだとでもいうような色を含んでいる。希い。彼のその言葉に、ボクは瞳を見開いた。希った。何を?どうしてこの人がそれを知っている?

「オレはお前の希いに引き寄せられたってわけだ」

そうだ。ボクは希った。何よりも強く、何よりも深く、希った。あの一瞬何を犠牲にしてもいいと思うほどに、世界中の誰を敵にしたって良いと思うほどに、希ったのだ。
誰が希わずにいられただろう。自分を庇ったせいで、終焉の淵へと死に逝く、最愛の人が目の前にしてそれ以上の希いはないはずだった。もし、何も希わずにいたれる人間がいるのならば、誰か教えてほしい。好きだと、最期の力を振り絞って伝えたその直後、彼はボクの返事も待たずに、聞かずに、逝ってしまった

「・・・ボクの希いがなんだかわかっているという口ぶりですね」
「勿論承知の上だ。じゃなきゃ姿を現したりしない」
「あなたが人間ではないことはなんとなくわかりました。でもボクの希いを叶えてもらう所以もありません。あなたにメリットがあるとも思えない」
「それが、残念ながらあるんだよ。お前の希いと、オレの望むものは十分条件ってところだ」
「・・・叶えてくれるという保障と、それに付随する代償は」

本当は、代償なんて、どうでもいい。保障だってなくたっていい。一縷の望みにかけることも厭わないし、途方もない賭けに出たって良かった。それほどに形振り構わず自分の望みを叶えたいという欲求があった。この希いが叶うのなら、ボクはどうなったって構わない。そう思えるほどに、ボクは今生の中で一番強い希いを抱いていたのだと思う。

「オレは、お前に一つの力を貸してやるだけ。それの使い方はお前次第。希いを叶えてやるというよりも、希いを叶える一つの選択肢を与えてやるにすぎない」
「力、というのは?」
「神様の力」

そうとでも言えば良いか、と彼は続ける。彼の言葉は答えのようで、答えではないと思う。どうもはっきりとしない返事だ。抽象的で、具体性に欠けていた。随分回りくどい言い方をするものだ。続きを急かせば、まあ焦らないで聞けよ。時間はたっぷりあるんだから、と彼はボクの焦燥もさして意に介さないようだった。
この人は本当にボクの希いを叶えてくれる気があるのだろうか。そもそもボクが強く望んだことを、一言たりとも話してもいないのにボクの希いがなんだかわかってる前提で話が進んでいるというのもおかしいはず。それなのにどうしてそこにボクは疑念を抱くことがないのだろうか、と不思議ですらあった。

「お前はこのアカシクンにもう一度会いたい」
「、っ!」
「死んだ人間を生き返らせるのは、結論から言うと無理だ。それは人の理に反するし、世界の普遍の真理に背くことになるからな。何にでも触れてはいけない秩序というものはある」
「…じゃあ、ボクの希いは叶わないじゃないですか」
「そうとも言い切れないんじゃねえの。よく考えてみろよ」

『アカシクン』その言葉に、ひゅ、と喉が鳴った。
黛先輩の格好をしたその人物が、何も無い空間を指さすと息を引き取ったであろう彼――赤司くんが映し出される。口元にうっすらと血が付いているにも関わらず、彼の死に顔は酷く美しかった。その傍らには微動だにしないボクもいる。赤司くんの眠るベッドの横で微動だにせず、ただ茫洋とした何の感情も宿さない瞳から、ぼろぼろと涙を流し続けているだけだった。
見たくない。やめてくれ。彼が死んだことはわかっている。もう息をしていないことだって、わかっている。でもそれをちゃんと受け入れられているかどうかは、別だ。まだ現実なんて見たくない。いつかは向き合わなくてはいけないと分かっていたって、希望も何もない真っ黒に塗りつぶされた動かぬ未来をまだ直視することなんてボクにはできないのだ。
大体、今ここにいるはずの自分が、何故あそこで泣いているのか。

「あっちはお前の抜け殻」
「…抜け殻って、」
「抜け殻っていうか入れ物だな。安心しろ。お前の身体以外の時間は全て今のところ止まってるから」

本体はお前だ、と彼は言う。何に安心しろというのか。理解が追いつかない。

「精神の部分とでも言えば良いか。お前の意識層だけが今ここにいる」
「とんでもないファンタジーですね」
「世の中認識できなかったり知らないだけで、不思議も理不尽も奇想天外なことも溢れてるってことだ。信じるも信じないもお前次第」
「…実体験している以上信じざるを得ません。夢か幻かはさておき」
「夢だったらどうするんだ」
「どうしようもないです」

どうしようもない。その言葉しかなかった。この得体の知れない誰かと話していることが、夢でも、夢じゃなくても、どっちみち彼が死んだ事実は変わらない。ボクにとって重要なのはただそれだけだった。どうしようもないのだ。もしこれが夢の中のボクの作りだした妄想だとして、夢から醒めて現実に戻ったとしても、ボクの目の前には彼の亡き骸が横たわっているだけ。壊れた人形のように涙を流し続けている、向こう側のボクに戻るだけ。
どうしようもない、ボクの絶望。
光のない暗い世界で生きていくにはどうしたらいいのだろう。いつかボクが浮かんでいた一面の常闇に再び戻るにはあたたかさを知りすぎてしまったし、ひかりの目映さに慣れてしまった。冷たい深海にもう一度沈むのなら間違いなくボクの心臓は凍りつくし、呼吸の仕方すらわからないだろう。途方に暮れて、どこにもきっと行けない。希望もひかりもあたたかさもない場所を命ある限り彷徨い続けるというのならば、未来なんて要らなかった。

「人の死は覆せないんでしょう。じゃあどうするんですか」
「負けず嫌いの割にすぐに答えを聞くんだな。意外だわ」
「時間がたっぷりあるのと、合理的に答えを求めるのは比例しません」
「仰る通りで」
「ボクにとっては一刻を争う事態ですので」
「随分と熱烈だな」

茶化すような話し方が気に食わなくて、目尻に際が立ってしまったのを特にやめるつもりはなかった。試されている、と感じる。なんでも良いから答えを出してみろ、と彼は言っているのだろう。

「…一つだけ可能性は考えました」
「へえ、聞かせてくれよ」
「空想上の産物ですが、タイムトラベルというものがあります」
「半分正解ってところだな」

その前に、と彼は宙に映し出された病室のボクたちの映像を見遣る。スクリーンが閉じられるようにゆっくりと泣き続けるだけのボクと動かない赤司くんの姿は見えなくなった。どういう原理だか知らないが、視界に入れたくなくて目を逸らし続けていたので、見えなくなったそれに少し感謝する。

「割れたグラスは元に戻らないし、溢れた水はグラスに戻ることもない」

覆水盆に返らず、って言うだろ。彼はそんな有名なことわざを例に挙げる。一度起こってしまったことは決して元に戻すことはできない。そういう意味だった。英語では"It's no use crying over spilt milk."と言うのだと、教えてくれたのは少し幼いいつかのあの人だった。夕暮れの朱が真っ赤にボクの教室を照らしていた黄昏時。出された課題は、指定されたイディオムや慣用句を調べて英語で書くというもので、なんとなくそういう気分だったから放課後残って終わらせていたのだ。普段なら図書室にいるボクがいないことに気づいたらしい彼はボクを探してやってきた。ことわざや慣用句を紙の辞書で調べるのは一苦労で、あと一問が中々調べ終わらない。お手上げ状態だったボクに、彼は「お前は本当に真面目だね」と少し相好を崩しながらゆっくり答えを教えてくれた。
そして彼が“僕”になった頃、一度ヒビの入った皿はどうやっても元に戻ることはない、と言っていたこともぼんやりと思い出す。苦い思い出。ボクにとっては果てのない闇の中に再び迷い込んだ耐えがたい一瞬だったそれ。それでも、彼と過ごした、輝きに満ちた万華鏡みたいな日々の一部には違いない。あの人がいたから今ボクはここに生きている。大げさでも誇張でもなく、本気でボクはそう思っている。

「でも、なかったことにしてしまうことはできる」
「どういう理屈ですかそれ」
「元に戻すんじゃないんだよ。なかったことにしてしまえばいい。時間軸をほんの少し弄るんだ」
「時間が不可逆性の元に動いているのはこの世の真理です。・・・それを変えるなんて、」
「何も歴史そのものを変えるわけじゃねーよ。今ここにいるお前の本体――精神を好きな時間に飛ばしてやる。ヒト一人の精神が何回か時間軸を超えたってそこにさして問題はないさ。たったそれだけのことだ」
「ただそれだけって…」
「実際たったそれだけのことなんだよ。問題は時間跳躍そのものじゃない。そこからお前がどう行動するかだ。お前の行動で些事なことから大事まで世界を変わっちまうからな。…一つ変えた事実が世界にどこまで影響を与えるかなんて、それに関しては未知数だ。でもそれがオレの狙いってワケだ」

その力がどんなものなのか、どんなリスクを負うのか。
タイムトラベルものでは当たり前に語られる事実を彼は説明した。

狭義的に見れば、リープ先でボクが死んだとしても影響はない。しかし長期的な面で見れば、将来子を成す予定だった人間が一人死ねば、生まれるはずだった子孫が根こそぎ消滅することになるということも考えられる。それは人類にとって大きな損失であり未来が変わってくるかもしれない。また、タイムトラベルを熱かったフィクションではお約束の、死ぬ予定だった誰かが生き残った場合代わりに誰かが死ぬなんていう、命の数は決まっているといったルールもないらしく、ボクが彼の死期をどうしようが直接的に誰かの運命を変えてしまうということはないのだそうだ。この世に存在する生き物全てに固定された運命などないのだという。ある程度軌道は決まっているらしいが、線路の先には無数の分かれ道がある。それをどう選択するもその人次第。大抵の人間は、生まれた時には一本道でしかなかった地図が死ぬまでには枝分かれし戻ったり無理矢理つなげたりと、辿ることなど到底できないくらいにぐちゃぐちゃになっている。彼はそう言った。

修復では跡が残る。よしんば跡なく元通りになったとしても壊れたという事実は消えない。では、最初からその事実がなかったとしたら?起こったという事実すらなかったことにしてしまえばどうだろう。そういう理屈だと彼は言った。時間は不可逆性を持っているのは周知の事実だ。過去から現在へ。現在から過去へ。いつも一定のベクトルで動いていてその法則を破ることはまずない。矢印の矛先が逆を向くなんてありえない。

「ただ、時間の軸を弄ると言っても、自由に歴史を改竄できるわけじゃなねーよ。そこにも一定のルールはある」
「ルールですか」
「一方通行なんだよ。お前の精神が、好きな時間軸の過去へ戻る。あくまで現在から過去への跳躍だ。一番便宜的に説明できるのはタイムリープってやつだろう」
「精神のみの移動だから親殺しのパラドックスも、タイムパラドックスも生まれないわけですね」
「ご名答。リープした先でお前がどんな行動をしようと自由だ。勿論自分の知りうる未来にならないように行動したって良い。特にリープに回数制限もないし、お前が満足するまでいくらでもリープすればいい」
「…必要条件だと仰いましたよね。ボクにはメリットしかありませんが、あなたにどんなメリットが?」
「随分疑り深いな」
「全て理解しようなんて思っていません。でも、もう後悔するのはこりごりだ」
「それは素晴らしい心意気だ」

少し、意地の悪い笑み。それはどこか馬鹿にしているような、無駄なことだと言っているようにも見えた。

「時間は不可逆性を持っていてそれは変えられない事実だとお前は言ったよな?」
「はい。紛れもない事実でしょう。その証拠に、自然界には時間の一定のベクトルの法則に逆らっている生体活動は一つも存在していないません」
「それが世界の秩序として拙いと言ったら?」
「…それはどういう」
「世の中の時間には逆の流動性が存在していない。それが問題なんだよ」
「秩序があってそれが正常に働いていることに何の問題があるっていうんですか」
「この世の中は理不尽なことばかりだ。イレギュラーだって多い。予定調和通りに進むことなんてほんの一握り。それにだって大なり小なり当初の予定と必ずズレがある。でも、時間にはそれがない」
「そんなの当たり前じゃ」
「誰にとって当たり前のことでも、預かり知らぬところで変わっていることなんてままあるだろう」
「それが、ボクの知り得ないどこかで今まで起こっていた、と?」
「時間は、あまりに正しすぎる。物事っていうのは、正しすぎても駄目だ。多少不確定要素がないと上手くいかないようにできている。あまりに正しくルールに乗っ取りすぎたらそれは窮屈で締め付けにしかならない。それはいつか、腐る」
「時間が硬直化する、ということでしょうか」
「そんなところだ。それをお前が好きにひっかき回してくれればいい。神の力を代行して」

どうだ、悪い条件じゃないだろう?と言う彼の笑顔はどこか作りものめいていて胡散臭い。満足するまで力を使っても良い。時間をひっかきまわしてくれさえすれば良い。しかしそれはあまりにもボクにとって都合が良すぎる。第一にどうしてボクにその力を預けようとしたのか。

「…どうしてボクなんですか」
「誰でも良いってわけじゃねえよ。そうだな。お前に呼ばれたって言っただろう。正確に言えばお前の希いの強さに引き寄せられたって言うのが正しいな」
「希いの、強さ」
「なんだかんだオレに質問するのは、リターンに対するリスクを考慮しているわけじゃねえだろ」
「、それは」
「力の行使でお前の希いが正確に叶えられるのか。それを吟味しているだけってトコか」
「返す言葉もありません」
「お前は希ったんだ。どんな犠牲を払っても良いってな。その想いの強さだけがお前を選んだ理由」
「…ボクは、」

心は既に決まっている。彼の言う通りで、希いが叶う確立や叶えた時にあの人に危害が加わらないか。それだけが気がかりだっただけなのだ。希いを叶えたあとの不安要素を少しでも取り除くために彼の話をおとなしく聞いて疑問を質問する。ただそれだけ。
時間の反逆に、何の戸惑いもない。もしボクに災厄が降りかかったとしてもボクにとってそんなことは些事にしか過ぎなかった。重要なのはボクの希いが正確に叶えられるかどうか。その力の行使で、地獄に落ちたって、人じゃなくなったって、誰かに後ろ指さされたって良い。どんな犠牲だって払える。世界中を的に回したって良かった。
キミの幸福が希めるのなら。

「…強いて言うなら、その力を行使する間はお前は人間の理から外れる。人間の身体を持った、人間じゃない存在になる」
「人にして、人非ざる存在になるというわけですね。あなたのような」
「そういうこった」
「それって一番大事なことなんじゃないんですか?」
「お前にとって大した問題じゃないだろ」
「…違いありません」
「朝起きて飯を食って呼吸をして、生命活動は滞りなく行われるし、結婚だって仕事だってできる。でもいつか何らかの形で、それはお前を苦しめるだろうな」
「時限式の首吊りってところでしょうか」
「そこまで惨いモンでもねーよ。いつかは訪れる死みたいなモンだ」

永遠なんて、悠久なんて、最初からそんなものは存在していないことを知っている。望んでも、欲しくもない。ただ、ボクが求めるものは、そんなものじゃない。

赤司くんの笑顔がもう一度見られるなら、何でもいい。ボクは世界の理に背いたって構わない。

「それでもお前は」
「ください。その力を、下さい」



ボクは、キミを救うためなら何にだってなれる。



I’m not afraid of anything anymore.



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