神様は死んでしまったよ | ナノ

何十回とと繰り返されたリープ。大学時代まで遡っていたそれが何度か繰り返されると、次は一足飛びに中学時代――帝光中学在学時代にへと戻っていた。桜舞う入学式の朝へと戻っていたものだから、リープという事象自体に半分慣れていたと言えど流石にこれには驚かざるを得ない。
一回りも二回りも小さい身長に、まだ成長過程である幼い身体と未成熟な筋肉。中学当時は百六十センチもなかったかもしれない。入学時点で既に百七十以上あったデカブツ達にまた囲まれてバスケをするのかと思うと、不思議な気持ちにもなった。
これから俺はどこまで時を進めることができるだろう。いつリープするかというのはわからない。リープのきっかけはわかっていても、それが俺の感情という不確定なものだから、未然に防ぎようもないのだ。何処に俺の絶望の種が転がっているかなんてタイミングを図れるのであればこんなにもリープをし続けることはなかっただろう。

当時もさして緊張することのなかった新入生代表挨拶の原稿を手に取り、家を出る。確か入学式は送迎付きで学校へ行ったものだから悪目立ちしたなと思い出した。それでも、心臓が早鐘を打っている。早くテツヤに会いたかった。
テツヤと出会ったのは一年時の秋口に入ったばかりの頃。それまで待つことのできなかった俺はさっさと彼に接触してしまおうと思った。大輝よりも早くテツヤを見つけたい。そんな子供じみた願望すらある。
大輝とテツヤが出会ったという三軍の練習に使われる第四体育館へ視察として何度も足を運んだが、俺はテツヤを見つけることができなかった。ありえないと思いつつ一軍、二軍の練習もよく目をこらしたが、テツヤの存在は見つけられない。自動ドアにすら反応してもらえないことがあるという彼を一目で見つけた時、存在を認識できる俺に酷く驚いたテツヤ。あの反応をまた見られると少なからず楽しみにすらしていたというのに、彼を見つけることができない。
過去へと戻りすぎて、己の眼の力が衰えるという弊害が起きたのかとも思ったが、眼自体は至って正常で何処もおかしいところなど一つもない。まさかと思ってバスケ部員の名簿を確認すれば、そこに彼の名前――黒子テツヤという五つの文字はどこにもなかった。
食事よりもバスケ。勉強よりもバスケ。超の付くバスケ馬鹿のテツヤが何故バスケ部にいないのか。己の限界に気付きながらも監督に退部を勧められるまで直向きに自主練していたという事実を知っている。

リープの起点は、俺だ。俺だけがリープ以前の記憶を有している。俺が過去の行動から意思を持って違う行動を起こさなければ変わらないはずの過去が何故か変わっている。今回リープしてから俺は一切の過去の改竄を行っていない。テツヤが部活に入らない要素を作り出した覚えはなかった。一体どういうことなのか。

クラス割を入学式の時に確認しているがテツヤのクラスは過去と変わっていない。バスケ部にいないのであれば彼は何処にいるのだろうかという問いの答えは簡単だった。クラスは三年間一度も同じになったことがないし、委員会も同様だった。テツヤは三年間図書委員を務めていたはずだった。テツヤの趣味はバスケと読書。バスケをしていないのであれば、本に傾倒しているに違いない。調べるまでもなく彼はやはり図書委員に在籍していて、それは俺の知っている過去と変わりないようだった。
水面下で色々と調べた。殆ど図書室に入り浸っていること。勤勉に委員を務めている為、先生に認識してもらえるようになり貴重な資料が詰まっている地下集密庫の鍵を手に入れたらしいこと。図書室の幽霊の噂は相変わらずテツヤが正体だった。テツヤと接触するには図書室に行くしかない。そう思って段取りを綿密かつ緻密に練っている時だった。

ベクトルは違うかもしれないが、テツヤ並み、或いはそれ以上のバスケ馬鹿である大輝は一人でよく練習している。練習と言うよりは、ボールと戯れているだけのようだが、テツヤのいない第四体育館にいる姿をよく見かけている。嫉妬したり、独占欲を沸かせたりするにも関わらず、大輝がテツヤの自主練に付き合っていない風景というのは何か物足りない気すらする。
そんな一にバスケ、二にバスケ、三にバスケでたまに気に入っているグラビアアイドル、なんていう大輝が、率先して片づけをして颯爽と着替えていた。文句ひとつ言わず自分からボールを仕舞い、普段は嫌がるモップ掛けを颯爽と行う大輝の姿は、天変地異が起こると思われても仕方がない。霙か霰か雹かそれとも槍が降るのかと皆が首を傾げ驚いている。ある意味一番素直で裏表のない敦が、口を開いた。

「峰ちん今日は第四寄らないんだー?」
「またいかがわしい本の発売日か?」
「ちっげーよ。つーかマイちゃんはイカガワシクねエし」

大輝は明らかにいかがわしいを片言で言って見せた。面白いヤツ見つけたんだよ、と白い歯を見せるその笑顔が、過去の大輝とダブる。

「何の動物?美味しいの?」
「面白い奴というからには人間だろう。紫原は少し食べ物から頭を離すのだよ」
「超面白いぜ。超ヘタなのに、超バスケ好きなヤツ」

逸る鼓動。渦巻く衝動。身体の中で、狂喜という感情が暴れている。三人に話を任せていれば、どんどん話が脱線して、大輝の言葉の続きが聞けないだろう。早く答え合わせがしたかった。

「へえ、バスケをするのか。どんなプレイをするんだ?」

あくまでもバスケット選手としての関心があるのだという体を装う。多分ここにいる他の誰も俺の些細な感情の変化を読むことなどできないだろう。見破れるとしたらきっと、ここにはいないテツヤだけなんじゃないかと思う。喉から零れそうになる喜びの声を抑え込んで、静かに、いつも通りの声に聞こえるよう努めた。


「へったくそなんだけどよ、変なパスすんだよ。ぎゅいんって感じで曲がるやつ。お前らにも見せてやりてーわ」


確信と、歓喜と。運命の音が聞こえた。

大輝の言う面白い奴とは、俺の直観通りテツヤのことだった。大輝よりも先に見つけられなかったことは残念だったが、結果としてテツヤの存在を見つけることができたのだ。子供じみた嫉妬には蓋をした。大輝は、テツヤをストバスのコートで見つけたらしい。彼から聞いたところによると、テツヤは俺のヒントで導き出したミスディレクションや高校に入ってから編み出したシュートを既に身に付けているらしい。本来ならあり得ない過去に首をかしげるところだが、テツヤと中学のバスケ部で出会えなかったこと自体がイレギュラーなことだったから、特別気にする必要もないかと深く追及することをやめる。
何度もストバスの約束をして親交を深めている大輝に、そんなにお前が入れ込む人間なら一度見てみたいと言えば、大輝は拒むこともなく大事な宝物を見せびらかすみたいに二つ返事で約束を取り付けた。バスケが好きなヤツに悪いやつはいねーかんな。赤司も気に入ると思うぜ、と曇りのない笑顔の大輝。テツヤは俺が頼んだ約束を拒否しなかったが、しかしながらその約束は果たされることはなかった。大輝の元に「調子が悪いので残念ですがまたの機会に。ご友人にもよろしくお伝えください」とテツヤらしいシンプルな連絡が入ったからだ。
彼は俺のことを知らない。中学時代、テツヤは俺を赤司くんと呼んでいたはずだ。画面越しのただの文字でしかない「ご友人」という言葉が、今のテツヤと俺の距離を目と鼻の先に突き合せてくるみたいで沈む心。
そして彼は、俺にだけ会うことがないまま、いつの間にかキセキの面々と仲良くなっていた。
敦は相変わらずバスケに関しては合わないようだが新作のコンビニスイーツの品評ができる相手ができたと喜んでいたし、青峰っちがスゲースゲーっていうからどんなヤツかと思って教室まで見に行ったんスけど超ショボイ感満載のフツーのヤツだったんスよーなんて去勢したくなるほどにテツヤを小馬鹿にしていた涼太も、一度大輝と二人でコートを駆ける姿を見て一瞬で陥落した。以前と変わらない、主人に懐く犬さながらといった様子である。真太郎は図書室を通じて親交があったらしい。見た目がテンプレ通りの文学少年であるテツヤを青峰の言う面白い奴とイコールで結びつけられなかったらしい。黒子の紹介する本にはハズレがないのだよ、と言って有難いんだか有難くないんだかお礼におは朝のラッキーアイテムをたまに渡しているらしかった。さつきはどの時とも同じように目にハート。なんでも先生に押しつけられた図書館への返却資料を運ぶのを手伝ってくれた上に労いの飴玉をくれたとか。テツヤのフェミニストっぷりは健在だった。
俺だけが彼に会うことができない。図書館に行けば会えるにも関わらず、それができないのは、躊躇われるのはどうしてだろう。
テツヤに出会うことができないのであれば、彼を手に入れることすらできないのに。

テツヤがいないまま遂げた全中優勝は何かが欠けているようにしか思えなかった。そんな感情を抱いているのは俺だけで、他の誰もが純粋に優勝を喜び、欠けた存在に誰ひとりとして疑問を抱かない。それはテツヤがバスケ部にいないことが当たり前のチームメイトからすればなんら普通のこと。でも、その彼らにとって普通の光景も、それを普通として受け入れる彼らも、俺にとっては異質だったなものでしかない。
そんな様子でテツヤに会えることのないままあっという間に一年が過ぎ、迎えたのは彼のいない二年目の全中。大輝は才能の開花を迎えていたが、彼が練習から姿を消すことはなかった。時に敦、時に俺が大輝の相手をしていたし、そんな中で敦も覚醒すれば、大輝の相手がいないわけではない。練習を投げ出そうとすれば、適切な距離を保って全力で彼を止める。スターティングメンバーの変更やゲームメイクの仕方さえ変えれば、中学から高校までのプレイスタイルを知っていて彼らよりも精神的には倍も生きている経験が物を言う。大輝がバスケに失望するのを阻止することは容易ではなかったが難しいことでもなかった。相変わらず公式試合では敵なしだったが、オレに勝てるのはオレだけなんて理論は出すことが無かっただけましだろう。それには俺の努力だけでなく、ストバスで仲良くしていたテツヤの存在も大きかったようだ。大輝は多くは語らなかったが、彼に一発お見舞いされて完膚なきまでに捻曲がりかけた根性を叩き直されたのだとポツリとこぼしていた。そんな風に、テツヤから叱咤激励される大輝を、単純にうらやましいと思ったものだ。

全中二年目の結果は言うまでもなく圧勝。テツヤは得点に直接繋がる選手ではない。現に一度目の世界での一年生の時の全中も勝利に終わっている。しかし、テツヤが一度(ひとたび)投入されることでゲーム運びががらりと変わるのを知っている。変幻自在。摩訶不思議。トリッキー。テツヤという存在は試合の中でビックリ箱のような存在だ。そんなゲームメイクの味を知ってしまっている俺は、全中二連覇という輝かしい勝利を手にしながらも何処か足りない気持ちだけが渦巻いている。当時の俺や、高校の時じゃ知っていながらも直視できなかったその感情。バスケは勝利さえすればいいものではないと教えてくれたテツヤは何処にもいない。

勝利の余韻に浸りきれず視線を宙に彷徨わせるような、何処か上の空な俺は奇異に映ったのだろう。そういうことによく気づく真太郎だけでなく単細胞の代名詞の大輝にまで心配されてしまった。
祝賀会がすぐに行われる予定だったが、どうしても家に戻らなければいけない用事ができたと言ってめでたい席を辞し、会場を後にする。こういう時ばかりは今まで邪険にして目の上のたんこぶでしかなかった家と言うしがらみは便利なものだ。ちょっと家の事情で、と言えば、赤司の家を知る者は一つとして文句を言わない。便利な言い訳だった。
家に戻らずやってきたのは帝光中学校舎。広い敷地を足早に歩いてテツヤといつか出会った第四体育館を目指す。

気がおかしくなりそうだった。テツヤがいないリープは初めてだった。たったの一度。繰り返された膨大な時間に比べればなんてことはない短い時間。しかしテツヤのいない毎日は俺にとって受け入れ難く異常なものでしかなかった。ほんの取るに足らないような時間かもしれない。それなのに、テツヤがいつか俺の隣にいたことや笑ったこと、好きだと伝えあったこと全てが、自分の妄想で今までのリープも過去も全部夢か幻だったのではないか。そんな風に思えば頭がおかしくなって気が狂ってしまうのではないかとまで思えてくる。
怖い夢。醒めない恐怖。
それはどうしようもない絶望だった。お前は確かに存在していたのに、存在しているのに、それが夢なのかもしれない、自分の妄想なのかもしれないと思わせられる恐ろしい孤独にも似た感情。
既に俺にとってテツヤが全てで、あの日敗北を知った時から絶対はテツヤだったのだ。どうにかしてテツヤの存在を確かめたくて思い出を忘れたくなくて足を運んだ第四体育館。それはテツヤと出逢った場所だ。
記憶の中にしかいないテツヤをどうにかして確かなものにしたかった。

帝光の敷地は一般人からすると想像を絶する程の広さを誇るが、足早に歩くと第四体育館までは特別時間がかかるわけではない。運動部の早歩きならそれは顕著で、程なくして第四体育館の入り口は見えてくる。

(…電気がついている?)

全中決勝戦だった今日、やむを得ない事情が無い限りバスケ部の部員は全員応援に行っている。出欠を確認した限りでは今回は全員出席しているはずだった。更に祝賀会に出ずに帰ってきたのは自分だけ。よしんば祝賀会を欠席する者がいたとして疲れた身体を引きずって校舎に戻ることなどせず、まっすぐに帰宅するだろう。
帝光中学の怪談の一つである第四体育館の幽霊はテツヤだった。そのテツヤも今はバスケ部にはない。それなのにほぼバスケ部専用と化している第四体育館に明かりがついているのはどうしてだろうか。

訝しげに思って歩く速度を早めて体育館に近寄れば、ボールが跳ねる音と、バッシュが床を擦る音がする。
下手くそな、不規則さを感じさせる音。それが止んだと思えばゴールリングが揺れた為に起こったと思われる鈍い衝突音。シュートしたが決まらなかったのだろう。軽やかにネットが揺れる音は聞こえなかった。

予感と、胸騒ぎは、悪くない高揚感をもたらした。もしかして、いやまさか、でも。ドアのほんの小さな隙間から、体育館の明かりが漏れている。
はやる鼓動に、焦るなと言い聞かせるように大きく深呼吸した。期待は、すればするほど、裏切られた時のショックが大きい。上手くいかないリープは二つ目の人格を作り出してしまった昔に比べ数段強くなった俺の精神をじわりじわりと侵食していたけれど、この時ばかりは大丈夫だ、と何の根拠もない自信があった。
また、ドリブルが再開される音。コーンに対して波状に動いているようだ。多分ハンドリングも切り替えしも上手くいっていないようで、所々リズムが悪いと感じさせるその音にこれ程懐かしさを覚えるとは自分でも思っていなかった。

ガラリと、少し立てつけの悪いドアに意を決して手をかけると、勢いよく左右に引く。

「、テツ、ヤ」

丁度レイアップシュートの瞬間だった。
いつか、毎日のように見ていたお世辞にも綺麗とは言えないフォーム。ボールはギリギリのところでリングを通らず、赤い円の淵をするりと回ると、変なタイミングで落ちてきた。多分テンポは然程悪くなかっただろう。しかし、俺が思わず声をあげてしまった瞬間、ピクリと記憶より遥かに薄いその身体は確かに揺れたような気がする。
二年近く見ていなかった水色。白い肌は運動によって上気し、日焼け一つない頬を滝が流れ落ちるかのようにだらだらと滑ってゆる汗。
ゴールポストに上手く入らず、タン、タン、と音を立てて転がるボールに、テツヤは手を伸ばすことなく、俺に背を向けたまま。
落下したボールが動かなくなる。思わず口からこぼれ落ちた名前。はっと気づいたのは、俺が彼を「テツヤ」と下の名前で呼ぶような間柄ではないこと。確実に彼はこちらに気づいている筈なのに、肩を上下させて息を乱した背は動くことはない。

「ここで何をしている」

それは「テツヤを好きな」赤司征十郎ではなく、「テツヤを愛した」赤司征十郎でもない。「帝光バスケ部主将」の赤司征十郎としての言葉だった。
やっと出逢えた。間違えたくない。失敗できない。ぐるぐるとそんな考えばかりが頭に浮かんで、下の名前を思わず呼んでしまったという失態を上手く取り繕おうとしていた。シュートに集中していた彼なら、もしかして俺の小さな呟きは耳に届いていないかもしれない。
テツヤはまだ、俺のことを知らない。彼は人間観察が得意だが、いくらなんでも初対面の人間の動揺を読み取ることはできまい、と高を括っていた。
彼の肩が一度大きく上下する。一度瞳を閉じ、心を整える為に行う深呼吸は彼の癖だった。そしてそのまま彼はこちらを振り返る。闘志を秘めろ。そう俺が言う前のテツヤの筈なのに、彼の顔には表情がなかった。

「どうして、ボクの名前を?」
「…黒子テツヤくんだろう?青峰からよくストバスしていると聞いているよ」

出逢ったばかりの頃のような少し他人行儀な口ぶりで話す。大輝を青峰、と呼ぶことに慣れてしまった二年間。それなのに、テツヤを黒子くんと呼ぶのは心理的に憚られて渋った末にフルネームで呼んだ。
何も読みとることのできない瞳が、ぴくりと揺れたのを見逃さなかった。しかしそれは一瞬のことで、アクアマリンは凪いだ海のように波一つないものに戻る。
いきなり下の名前で呼んで悪かったね、と動悸を隠しながら言えば、テツヤは顔を伏せ気味にして短く、いえ、と言うだけ。
中学時代のテツヤの前髪は短めだ。いつかのあの時のように顔が全く見えないことはない。なのに、彼の表情はどうしても読み取ることができない。

「勝手にお借りしてすみません。鍵が開いていたものですから少々気になってしまって」
「謝らないでくれ。本来なら関心することではないが施錠を怠っていたこちらにも非はある」

きちんと片づけさえしてくれるのなら気の済むまでやっていくと良い、とバスケの再開を促したが、テツヤは首を横に振った。

「いえすぐに片付けますので」
「遠慮することはないよ。青峰からバスケが好きなことは聞いている」

なんなら俺と黒子くんで1on1でもしていくか?そう冗談じみて言えば、彼はまた一瞬固まって、勝手に備品を使ってしまってすみません、と謝罪するばかり。ジグザグに配置されたコーンを片付け始めた。俺も片付けるよ、と手伝おうとすれば、いえボクが勝手なことをしたので、と頑なに受け入れようとしない。違う場所にしまわれても困る。黒子くんは部員じゃないだろう、と言えば、一呼吸置いた後にまたすみません、と言った。
ぱたぱたと汗がしたたっている。このまま放置していてはいくら茹だるような夏だとはいえテツヤのことだから風邪をひくだろう。前と違って運動らしい運動をしているようには見えない身体なのだから尚更だ。肩にかけっぱなしだったスポーツバッグから愛用の黒いタオルを引っ張り出す。予備として持っているものだからまだ洗いざらしの状態だ。黙々とコーンを片付けるテツヤに近づいてタオルを首にかけようとした。

しかし、そのタオルは彼の白く華奢な肩に乗ることなくはらりと床に落ちる。同時にぱしりと軽い痛みを伴う小さな音。伸ばした俺の手ごと、タオルは払いのけられていた。
一瞬何が起こったかわからなかった。目の前の彼は、小さく「あ、」と声をもらし、
どうして、そんな感情を浮かべている。そんなの、こっちが思っていることだ。出会ったばかりのテツヤに俺は何故拒絶されているのだろう。

「ごめんなさい、びっくりして、あの、ボク、触られるのにが、」

焦り、どうして、しまった、というその表情。そして後悔。テツヤの顔がそんな色を湛えている。そして俺はテツヤのその言葉を最後まで聞くことなくいつもの、最早慣れてしまった感覚に包まれる。
思わずテツヤ!と声をあげてしまった。

彼は目を見開いてこの世の終わりのような顔をした。

どうしてそんな顔をする?疑問に答えられることはない。
テツヤのそれはまさしく絶望だった。潰えた希望を目の前にした人間がする、かなしく、酷く痛みの伴う表情。そんな彼の顔は初めて見たのだ。


ふと、未来の不確実性を思う。テツヤはいつだったか、真太郎と対峙した時に、「過去からできるのは予測でしかない」と言っていたことを思い出した。一周目も二周目も三周目も、二人の気持ちは通じあったのだからと、運命なんて信じていなかったけれど、未来と言うのはある程度確定しているのではないかと思ったがどうやらそういうわけでもなかった。現に両の手では数えきれないリープを繰り返したにも関わらず、テツヤと想いを通じ合わせたのは片手で足りる回数。
よく考えてみれば一度死んだはずの俺が何度も何度もあの時の交通事故を回避して生きている時点で確定した未来なんて何処にもないのだと気づくべきだった。

過去を変えればそれに伴い未来も変わる。終わったことは変えられないのだから、過去に戻って、その時間点を現在の地点とすれば、以降の未来は変えられるのだ。上書き保存ではなく、読み取り専用ファイルをコピーして上書き保存する作業に近い。
過去を変えるというよりは、過去に戻って過ぎ去った時間をやり直すことによって現在と未来を選び直していると言えるだろう。なのにどうして彼の俺への思慕が変わってしまったのか。彼の想いの矢印の向きを変える出来事など起こしていない。そもそも俺はテツヤが俺に何らかの感情を抱く前――彼と出逢う前の過去に戻ったのは今回のリープが初めてだったはずだ。しかし、四周目のテツヤは俺への想いがなかったことにされていた。その事実そのものがまずおかしい。

なんで、どうして。気付けば特に目を向けなかった様々な矛盾点がぼろぼろと溢れだす。

どうして跳躍地点以前の彼の感情が変わったのか。
なんの起因もなく彼と出逢わない可能性が生まれた理由はなんだったのか。
どうして俺と視線を合わせようとしなかったのか。
この時間軸で初めて会ったというのに何故、テツヤはあんな顔をしたのか。
どうして俺に名前を呼ばれて、ぎこちなく固まったのか。

俺の手を拒んだの理由は。

あの表情は、身に覚えがある。幾度となく繰り返したリープのきっかけ。テツヤに拒まれたが故の、テツヤとしあわせになれないと知った時の、絶望。それは、悲観と、絶念と、悲哀にほんの少しの諦念。それは自分だけのものであったはず。

(あれじゃあまるで)

辿り着いた一つの可能性。
自分の絶望と同じタイミングに因って引き起こされる時間の遡及のせいで見落としていたこと。そして起こされる時間の遡及が始まる前に必ず見ていたものは何だったのか。

「もしかして」

彼に絡まっていたのは紅と水色の糸だ。自分と彼の色だから何の違和感も抱かずに因果が集中しているのは彼で、その根本的原因は自分なのだと疑いもしなかった。それが間違いだとしたら?そう、そこに認識の誤りがあったのだとしたら?この時間の遡行の核は、俺ではなくて、


「テツヤ、なのか……?」


「やっと気づいたのかよ」
「…は?」
「間抜け面をどうも」


ぽつりと時間遡及が行われている間の無の空間の中で零した独り言。誰もいることのないはずのこの空間で、呟かれた言葉に返事があった。真っ暗闇に落ちてゆくばかりと思われた無しかないその場所が、見る見るうちに眩しい光で明るくなり、目を開いていられないほどになる。思わず閉じた瞳を光の強さに慣らすようにゆっくりと開ける。そこにはテツヤと似ているようで最も似ていないであろう存在が立っていた。


「はじめまして赤司征十郎」
「…千尋?」





終わらないはじまりと本当の終わり



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