また、春がくる | ナノ

オレは今、人生最大の混乱に見舞われていた。

北海道でのCMロケ。一週間にも及ぶ撮影のため、この業界に入ってから初めてと言っても良い長期休暇をもらっていた。撮影の前後一週間ずつという計二週間のオフだった。撮影も含めれば三週間の滞在となる。がむしゃらに働いてきた四年間。突然休みをもらっても、その休みをどんな風に使えば良いかわからない、というのが本音だった。ここにはかつてのチームメイトも、キセキと呼ばれた仲間もいない。どうしようかと悩んで、自然いっぱいの北海道なのだから森林浴でリフレッシュでもしようと思い足を運んだとある郊外の自然公園。今にも頭を抱えてうんうん呻りたい衝動が体の奥底でも頭の中でもぐるぐる渦巻いている。

北海道は梅と桜が同時に咲くらしい。五月は花盛りの季節のようだった。咲き誇る梅が満開を迎えている。思わず時を忘れてしまいそうな見惚れる景色の中、その薄紅に初恋のあの人を思い出していた。柄にもなく、懐古と寂寞という感傷に浸るままに思わず呟いてしまった彼女の名前。無意識のうちに口からこぼれ出た名前。それは単なる独り言のはずだった。多分、そこまでは良かったのだと思う。では、何が悪かったのだろうか。

この状況は一体何なのか。そして目の前の子供は果たして。様々な疑問が脳内を駆け巡るが一つとして答えは出ない。どれもこれも、混乱の種は目の前のこの幼児であることは間違いないが、それがわかっているところで何の解決策にもならなかった。どうしようもないのである。お花見をするでもなく、湿地で木漏れ日を楽しむでもなく、生い茂る白樺の中で野鳥のさえずりに耳を澄ませるでもなく。何をしているかといえば、両足の脛に大きな衝撃を受けてしゃがみこみ、その痛みに悶絶していた。イケメン俳優キセリョ、一生の不覚。商売道具である甘いマスクは、とてもじゃないがお茶の間に流されてはいけない表情をしているに違いない。おそらく目の前に立っている小学生にもなっていないだろう小さな男の子に両の弁慶の泣き所は蹴飛ばされたらしい。蹴飛ばされた瞬間は見ていないので推測にすぎないが、他に脛に衝撃を受ける所以はなかった。そして腕を組み、さながら王様のように仁王立ちしているオレの両脛を蹴飛ばしてくれたのであろう小さな幼児は、そんな無様なオレの姿を見下ろしていた。この見下ろす、というのは、単にオレと男の子の構図的な立ち位置のみを示しているわけではない。人間としての階級、立場の意味も表している。そう、この子供は、俺のことを生物として格下に見ているのだということを、特に根拠はないがオレの本能と呼ばれるべき何かがそう告げていた。この子供に逆らってはいけない、と警鐘を鳴らしながら訴えていると言っても過言ではない。それを証拠づけるかのように、脛を蹴られて情けない声を出してしまったオレに対してこの男の子は「頭が高い」などという何処かで聞いたことのある台詞を宣ってくれた。やはり完全に見下されている。身長百九十センチ以上という平均身長を優に超えた長身の部類に入る成人男性が、就学前と思わしき小さな子供に見下されているというこの光景は、何処の誰が見たとしても奇異に映るに違いない。ライオンと猫。猫とネズミ。マングースとヘビ。ヘビに睨まれたカエル。そんな感じだろうか。何時ぞやの試合で、ライオンとチワワと称された二人もいたものだった。そういえば初恋のあの人には、よく犬扱いされたなあ、と思い出す。


「きせさんですよね?」
「へ?」
「しつもんにこたえてください。あなたはきせさんですか?とぼくはきいているのです」
「え?!はいッ!そうッス!今を時めくイケメン実力派俳優、黄瀬涼太ッス!」
「……」


丁寧な言葉遣いの割に威圧するオーラが半端じゃないところに懐かしい既視感を覚えた。懐かしくてもちっとも嬉しくないが。恐らく十以上歳が離れているにも関わらず、背筋がぞわりと冷たくなる程の圧倒的な存在感で大人を竦み上がらせるなんてどんな子供だ、と一人心の中で思う。返答を急かされたため、慌ててテレビでよく使っている自己紹介も添えて幼児の質問を肯定すれば、明らかに軽蔑の眼差しを向けてきた。その視線の冷たいこと冷たいこと。調子に乗りすぎただろうか。そういえばマネージャーにもお前の冗談は冗談に聞こえないんだよ、と咎められたことがあったのを思い出す。いや、冗談のつもりなんてないんだけど。頭の中でいろいろな考えが一人でに回っているうちに、虫けらでも見るような蔑みの視線(そんな目で見ないでほしいッス!)は形を変え、必死に何かを考えているような神妙な顔つきへと変化していった。

猫のような丸い目の上にある、幼いながらに整った柳眉を八の字にして口を噤む小さな子供。その表情は困っているというよりも、考えあぐねている、迷っている、そんな様子だ。何を迷っているのだろうか。どうしたの、と問いかければ良いだけなのだが、大人のような言葉遣いの、明らかに自尊心の高さが見て取れるこの子供にそんな風に語り掛けては素直に話してくれない気がして、無駄に口を開かずに、相手が話し出すのを待ってみる。口を開きかけては閉じる、を幾度も繰り返す小さな口元を見つめること数秒。その仕種も止んで、少しの間ののちにルビーとトパーズが軽く伏せられた。


「あなたは、ははの……ぼくの、」


きゅるるるるる

幼い彼が、意を決して口を開いた瞬間、その音は聞こえた。きょとんとして音の発生源を見遣れば、強気な表情を宿していた紅玉と琥珀にかち合う。一度視線が交わると、大きなアーモンドアイは潤み、そして眉は毛を逆なでた子猫のしっぽのようにぴんと釣り上がる。幼児は小さな手でお腹を押さえて俯いてしまった。先ほどの子供に似つかわしくない不遜な態度は何処に行ったのか、顔は勿論、首から耳まで真っ赤にしていて顔を上げようとしない。


「ねえ、」
「っ!なんですか!」


恥ずかしそうに、しかし悔しそうな表情を浮かべながら、必死にその姿を見られまいとする姿は誰かの面影を彷彿とさせる。ついさっきまで感じた、子供にあるまじき恐ろしささえ覚えるような威圧感は既にない。そこには腹を空かして、羞恥に悶える幼子しかいなかった。そのギャップが生み出す微笑ましさに思わず笑ってしまいそうになったが、ここで笑ってはきっとオレにさっきの話の続きは聞かせてくれることはないだろう、となんとか踏みとどまる。直感、というより野性のカンに近かった。頭の良いであろうこの子供が、たくさん考えて振り絞って出した言葉の続きを聞いてみたい。いや、聞かなければならない。そんな気がするのだ。

人指し指を口元に当て、とびっきりの笑顔でオレは言った。


「ちょっと待ってて」

*****

「くろこせいや、五さい、しょくぎょうはありません」
「黄瀬涼太、もうすぐ二十三歳ッス、職業は芸能人ッス…」


満開の梅に囲まれた公園に備え付けられたガーデンテーブルを挟み、ふわふわとした水色の髪の毛と柘榴色とはちみつい色がきらめく瞳を併せ持つ小さな子供と向かい合ってソフトクリームを食べている。梅が売りの公園なのでソフトクリームの味は、ずばり梅味。梅の酸味がきついこともなく、微かな梅の香りが爽やかで口当たりの良い甘さが絶品だ。人工的でない淡い桃色であることも視覚的に楽しませる。ポイズンクッキングと名高いジンギ○カンキャラメルなどという世紀末の食物兵器を生み出した土地であるが、例の可哀想なキャラメルと違って大変美味しい。この地に罪がないのは重々承知。悪いのはジン○スカンキャラメルだということは心得ている。
この梅ソフトの美味しさを保障するが如く、目の前の五歳児――――もとい「くろこせいや」くんは、もくもくとソフトクリームを食べている。どうやら気難しい性格をしている彼もお気に召したようだった。


「あなたがげいのうじんだということは、みればわかります。しょっちゅうテレビでみていますから」
「そ、そうッスか」


オレの両脛を蹴飛ばし、あまつさえ頭が高いと宣った上に、およそ未就学児とは思えない不遜で非常に大人びた態度と言葉遣いをする子供は、「くろこせいや」という名前らしい。
誰に聞かれることもなかったはずの地面に落ちてゆくだけの呟きに、初恋のあの人そっくりの声で返事をしたのは、紛れもなくこの幼児だ。彼女の特徴の一つである透けるような空と同じ色の髪の毛に、よく似た少しアルトに近いソプラノ。そして彼女の十八番に近い台詞である「くろこはぼくです」という言葉。名乗り方も声質も彼女そっくりだったので、もしかしたら彼女に一目会いたいという願望が叶ったのかと思ったが、声の主は小さな子供だった。しかしよくその声音を思い返せば、彼女にしては少し幼く、舌っ足らずで、女性にしては少し棘があるように思う。些か彼女だと断定するには性急すぎたと気づいて、そんなにも彼女に会いたいという願望があったんだなあと自嘲気味になる。
小さな幼児が彼女の特徴や口癖を兼ね備えている時点で天地がひっくり返るほど驚き、視界にその水縹色を捉えた瞬間歓喜の声を上げたが、それ以上に特筆して驚きの対象となったのはその双眸だった。釣り目がちな幼子の、両の瞳は互い違いの色――オッドアイだったのである。柘榴色とはちみつ色。その二色の瞳から想像する人物はたった一人しかない。小造りで幼児特有の丸みが目立つ面貌は、帝光バスケットボール部時代のキャプテン、赤司征十郎のミニチュアそのものだった。子供時代に時間を巻き戻したらこんな感じだろうと、誰もが思うに違いない程にそっくりだ。左右違いの瞳やその色も、少し切れ長な猫のようなアーモンドアイも、すっと通った鼻梁も。全てが赤司を彷彿とさせる。彼と違うのはただ一つ。その髪色だけだった。珍しいアクアマリンの絹糸と、太陽の光のような紅と琥珀を持つ子供を見て至った考えはたった一つだけ。元々広いキャパは持ち合わせていない。旧友であり、昔のチームメイトである医学生の緑色の彼や、今まさに俺の頭を悩ませる存在と見事にそっくりな(この際どちらがどちらに似ているのかという点は置いておく)大学在学中に起業し、今や東証一部上場企業にまで育て上げた手腕を持つ赤い彼に比べれば言うまでもなくお頭は弱い方だと自覚している。しかし、いくら頭が決して良い方ではないオレでも、こんな方程式くらい簡単に解くことができた。

それでも。意味がわからなかった。わけがわからなかった。何が起こっているのか、目の前の小さな存在とか、一体オレはどうすればいいのか、全てにおいてパニックを引き起こしていた。聞きたいことはたくさんあるのだが、信じがたいことばかりの目の前の現実にどう向き合えばいいのかすらさっぱりわからない。大体、職業がはありませんってなんなんだ。確かに履歴書に職業の欄は必須である。厳密にいえば職業ではなさそうだが、未就職の場合に学生と書くことも多々あるが、職業はありませんとはこれいかに。子供なんだから職業なんてなくて当たり前だ。その自己紹介では自宅警備員みたいではないか。職業はありません、なんて自己紹介、前代未聞である。普通の子供の自己紹介は、好きな食べ物とか遊びとかそういうことを言うのではないのか。

オレはただ、予期せぬ初恋の人とそのかつての恋人の面影を残した幼児の登場に、ただ戸惑い混乱するばかりだ。


傍若無人の片鱗すら見せる目の前の存在は、確かに一般の幼児と比べて大人びた思考回路を持っていて、それ故に言葉遣いも不遜なのだろう。慇懃無礼。その言葉がよく似合う。しかし、幼児は幼児である。子供は子供なのだ。かつて魔王様だなんだと言わしめられた彼によく似た容姿で、性格や頭脳も彼の男に通ずるものがあるのだろうが、魔王ジュニアも空腹には勝てなかったらしい。年上を年上とも思わない発言をした幼子に、何故オレはソフトクリームを買い与えているのかといえば、突然消えた初恋の彼女に関連していそうだからという至極簡単な理由の他にも、もう一つ理由があった。子供がオレに話そうとして詰まってしまったその先を、聞かなければならないという何処からか湧いてくる義務感があったからだ。
元々子供は好きな方だ。年上に生意気でしかない態度を取っていたところに腹が鳴ってしまった為か、羞恥に俯き涙を溜めた幼児に、庇護欲や加護欲がくすぐられたのである。それが、初恋のあの人に似ているとくれば尚更だ。決してショタコン、ロリコン、ペドフィリアの類ではないことは明言しておく。

買ってきたソフトクリームを差し出せば、「しらないひとからものはもらえません」と突っぱねられた。オレの名前を知っていたんだから知らない人じゃないんじゃない?なんて要らぬことも思ったが、屁理屈だなんだと言われることは何となく想像がつく。それに、曲がりなりにも芸能人だ。サングラスをかけているので大っぴらには騒がれていないが、シャララのキセリョ?と道行く女性にちらちら見られることもしばしば。「黄瀬涼太」という個人ではなく「キセリョ」という芸能人としてのオレを知っているだけかもしれない。(シャララのキセリョとは謎のCDデビューによってついた不本意なあだ名である。)

ソフトクリームを食べながら、学生時代は青い野生児が昼前の授業になる度に腹が減っただの戦はできないだのなんだのと言って騒いで早弁したりしなかったりしていたのを思い出していた。一度感じてしまえば、飢えというのはなかなか忘れられないものなのだ。それもそうである。生理現象に勝てる人間がいてたまるか。食欲は人間の三大欲求にして生きるために不可欠なものなのだから。生理現象となれば魔王ジュニアといえどもどうすることもできないだろう。元祖魔王は常勝、勝利は正義、勝つことが全て、らしいので、もしかしたら勝てるのかもしれないが、そんなことはどうでも良かった。この子は魔王に似ていて、かつ魔王ジュニアかもしれないが、彼と同じ存在ではない。勝利は基礎代謝だなんてまだ言い出す歳でもないだろう。こんな年齢で厨二病は勘弁してほしいものである。(頭が高いと言った時点でその兆候が見え始めてはいるが目をつぶることにした。)

いつまた腹が鳴ってしまうかもわからないため、おなかを未だ押さえているのだから空腹はやはり根強いらしい。意地を張っているのは一目瞭然だった。そんな様子すら、先程の表情を思い出せば可愛いものに見えてくる。要するに、きっと感情表現と人づきあいが苦手なのだ。きっとさっきオレに対して何か言いかけていたところからして、いきなり脛を蹴飛ばしたのも、話しかけたくても話しかけられなかったからではないだろうかと勝手に考えていた。幼い体に見合わない大人びた精神とプライドが邪魔するのだろう。怜悧な頭脳と回転の早い思考、何をするわけでもないのに人を圧倒する威圧感と、高慢ではない尊厳に満ち溢れたその存在感。生まれながらにして人の上に立つことを迷いもしない、カリスマ性のようなものを持っていたとしても、この子供にとってはコミュニケーションは不得手なものだったようだ。泰然自若とした椿色の彼は、人を掌中で転がすのも上手かったし、コミュニケーション能力、ひいては交渉能力にも長けた人だった。そんなもの、五歳のこの子供が身に着けていたら末恐ろしすぎるが。素直になれない子供に対し、一人じゃ二つも食べきれないッス…と悲しげな素振りを見せればそんなに言うなら食べてあげてもいいです、などと悪態に近い言葉を吐き捨てる彼。しかしその声色は打って変わって冷たさが感じられない。むくれたような、照れたような表情を浮かべてソフトクリームに手を伸ばした幼子は、齢五歳にして完璧なツンデレをマスターしていた。ツンデレは緑間っちの専売特許ッスよ!緑間っちのアイデンティティ奪われちゃうッスよ!と叫んだのは心の中でのことである。


「ドラマのさつえいですか?」
「今回はドラマじゃなくてCMッスよ」
「そうですか」


どうやらオレが芸能界に身を置いていることは知っていて、普通なら北海道にいるはずがないことも理解しているらしい。『せいや』くんはオレに話しかけたかと思えば、また口を一文字にして黙り込む。気まずいような、そうでないような、不思議な沈黙。ごく稀にあった彼女と二人きりの時間もこんな感じだった。好きな女の子と共に過ごす緊張感と、彼女特有の静かで落ち着いた空気と、それが綯い交ぜになった短いひと時。古く懐かしい記憶を思い起こせば自然と表情も緩み、口角も上がる。やわらかな時間は決して多くはなかったけれど、オレにとってのたまのご褒美みたいなもので、ちょっとした癒しの時間だった。


「かんがえているのは、ははのことですか?」
「え?」
「…きせさんはみみがわるいんでしょうか」
「えええええなんでそうなるんッスか?!ちょっと驚いたというかあっけにとられたというか…!」


要領の得ない返答をすれば、子供はすぐさま眉根を寄せる。幼い顔立ちだけど、その相好の変化はやはり彼を彷彿とさせるものがある。ああ、どうしようもないくらいに似ている。


「ははも、むかしのことをおもいだしているとき、さっきのきせさんみたいなかおをします」


皺を寄せた眉と眉の間が和らいで、さっきまで合っていた視線が不意に逸れる。遠くを見つめる眼差しは喜怒哀楽、どの感情ともつかない何かを湛えて揺れている。たとえば、故郷を偲ぶセンチメンタルのような、卒業を控えた哀愁のような。子供にしては複雑な色を携えた視線が、自然公園の満開の梅へと向けられていて、それはどうしてだろう。自然と絵になる光景だった。

この子の言う「母」は、きっと彼女だ。名乗った全国でも珍しい苗字と、彼女と同じ水色がそれを強く表している。そしてこの子は、芸能人の「キセリョ」ではなく、「黄瀬涼太」という個の人間を少なからず知っているのだろう。出会って間もない人間に、自己紹介もそこそこで母親がどんな人間なのか説明もすることなく、漠然と「母」について話しているのだ。それは、まるでこの子の母親が誰なのか、どんな人物なのか知っているかのような口ぶりに聞こえる。

恐らく正しいのであろう、未だ推測の範疇にある考えを確定させるのは容易い。たった一言。一言、彼に話しかければ良い。
「君のお母さんの名前は?」
そう、一つ質問すれば良いだけなのに、その言葉を口にするのは躊躇われる。どうしてなんだろう。知りたいのに知りたくない。聞きたいのに聞きたくない。はっきりさせたいのにはっきりさせたくない。相反する欲求のせめぎ合いのせいで、俺は目の前の子供に問いかけることができないでいる。確かめないといけない気がした。しかし確かめてオレはどうするのだろう。何でオレたちの前から姿を消したの?この君と彼にそっくりな子供はどうしたの?今、何をしてるの?今までどうしてたの?元気なの?言いたいことも聞きたいこともたくさんある。たくさんの彼女への思いは溢れて留まることを知らない。もし一目、遠くからでも彼女の元気な姿を見られるなら、と思ったけれど、彼女の姿をその目に焼き付けて、それから?彼女に会うのか。会ってどうするのか。
百パーセントの感情で、彼女に会いたいと思えないのはどうしてだろう。
初恋の人。オレの人生を変えた人。
自問自答しても、答えはさっぱり出てこなかった。



「あ、」



落ちたゆったりとした沈黙を破ったのは『せいや』くんの声。何かを見つけたみたいなその鈴の音の後、オレの後方からぱたぱたと忙しない足音が聞こえる。誰の足音なのか、どこか確信めいた決定事項。どうしよう。まだ心の準備ができていないなんて思ったが、もう遅い。多分この子に脛を蹴られ声をかけられた時点で、今日のオレの運命は決まってしまっていたのだ。頭の何処かで、人事を尽くさないからこうなるのだよ、という声が聞こえた気がしたが、人事を尽くしたとしても歯車は回ってしまっただろう。或いは、人事を尽くした結果がこれなのかもしれない。

座っていた木製の椅子から降りて、子供は大きな足音を立てるその人を待ち構える。幼児特有の小さくて、細くて、それでいてふっくらしている白い足。


「せいやくん…!」


風が起こる。

その風は人が横切ったために起こったもので、オレの真横を天色(あまいろ)の存在がわき目も振らずに通り過ぎて行った。コートを懸命に駆けていたあの頃を思い出す。同じコートで笑いあった尊い一時。彼女を思い出すと思い浮かぶのは、志を同じくし、チームメイトとして同じコートで汗を流したあの頃の笑顔だ。
サングラスをかけていたって、芸能人の「キセリョ」だと気付かれるオレのことなんて一切眼中になく、存在にすら気づいていていないのがわかる。見えているのは、快晴と夕暮れの色を持つ小さなあの子だけなのだろう。あの頃と何ら変わらないメゾソプラノが幼子の名前を呼べば、かあさん、とよく似た少し舌足らずの声が応える。透けてしまいそうな白い肌、柔らかそうに揺れる空色の髪、折れてしまいそうなほど華奢で細い四肢に、茫洋として見えるが本当は意志の強い炎が燃えるアクアマリンの瞳。通り過ぎる横顔がスローモーションで見えた。変わったのは肩口で切り揃えられていた髪が、腰までたっぷりと伸びたことくらいだろうか。白いワンピースに彼女の髪の色と同じ淡色のカーディガンを羽織った姿は記憶のままの彼女らしい姿だ。現れたあの子の言う「母」が、当時の面影を存分に残し殆ど変らずにいたことに、思わず目の奥が熱くなる。

確かめきれなかった推測が確固たる事実に変わってしまったことに『ああ、やっぱり』と思う。走ってきた女性は、彼女を待って立ち続ける子供に息を乱しながら駆け寄ると、膝をついて抱きしめる。大切な宝物を見つけ、もう二度と離さないとでもいうように、抱きしめる腕に力が籠っているのがここからでもわかった。


「勝手に何処かに行かないでください…心配するでしょう…」
「…ごめんなさい」
「本当に無事で良かったです。せいなさんが待っています。もうとっくにお昼は過ぎましたよ」


お腹が空いたでしょう?と語りかける声は、酷く優しい。無表情だと言われがちだった彼女の表情筋は今盛大に動いているのかもしれないし、やはりあまり変わらないままかもしれない。しかし、叱っているその声音には焦りと不安と、探していた存在を見つけた故の安堵に、そして子を慈しむ優しさが溢れんばかりい満ちている。心配だったのだ、とその声が雄弁に語るのだ。


「かあさん、あのね、」
「はい、なんですか?あら、ソフトクリームなんてどうし、て、」


抱きしめ、話しかける母に潰されないように持ったソフトクリーム。しがみついた幼児の片手が自分に回らないことに違和感を覚えた彼女は、ついに幼児の左手にあるソフトクリームに気が付いたようだった。子供は、困ったような顔をして、彼女の肩口からオレを見ていた。まるで悪いことをしてしまった時に叱られるのをわかっていて待っているようなそんな顔。自分が自由に使える小遣いを持つような年齢でもない子供が一人でソフトクリームを食べている理由なんて一つしかない。誰かに買ってもらったのだ。愛しいわが子が何かを見ている。何か伝えたげな顔をしているのに、母を呼んだだけでその先の言葉は、ない。伝えてもいいのか、伝えても母は傷つかないか、逡巡しているようでもあった。続きを急かすわけでもなく、子供のの視線の先へ顔を動かせば、彼女はそれ以上言葉を続けることができなかった。


「お久しぶりッス」


オレはいつもの笑顔をしていただろうか。

*****

時が止まったみたいだと思った。目が合った彼女に久しぶり、と告げても何の反応もない。驚きと戸惑いによって見開かれた二つの大きなアクアマリンにはこぼれ落ちてしまうんじゃないかなんて感想を抱いた。そして、そのベビーブルーは次第に一つの感情でいっぱいになっていく。「どうして、」と言っているように見えた。どの位そうしていただろうか。お互い何も話すことができずに見つめ合っていたが、そこにロマンチックは欠片もない。再会の懐旧も、親しみも、ない。動かない口。逸らせない瞳。

もそり、と『せいや』くんが動いたのを切っ掛けに、オレはようやく口を開くことができた。


「元気そうで良かったッス」


絞り出すようにそう言うと、彼女は苦しそうに顔を歪めた。
ああ、会いたくなかったんだろうな、と彼女の表情を見て悟った。心臓の辺りが、何かに突き刺されたみたいに痛んだ。手から、足から、ゆっくりと血の気がひいて冷えていく感覚。明らかな拒絶に、心が、全身が、悲鳴を上げていた。さっきまでの相反する自問自答の答えが今ならわかる。彼女に会いたくなかった理由。
どうしようもない絶望と悲愴。ああ、オレは。


「きせさんが、ソフトクリームを、かってくれたんです…」


小さな子供は、場の空気に敏感だ。そして幼児に見合わない頭脳を持つ『せいや』くんはそれを痛いほどに感じているようだった。随分な態度を取ってくれた彼だったが、性根は優しい子供なのだろう。彼女にしがみついて、気遣わしげな視線をこちらに送っている。


「…うちの子がすみません。お代はいくらでしたか?」
「いや!大したことない額だし…!オレが勝手に・・・」
「そういうわけにはいきません。ええと確か二百八十円だったでしょうか」


目線は頑なに合わせないまま。再会の挨拶もなく。彼女は子供に買ってあげたソフトクリームのお金をオレに返そうと肩にかかっていたショルダーバッグに手を伸ばす。大した額じゃないし、子供にせがまれたわけでもなく、オレが勝手にしたことだった。代金をもらう気は毛頭なかった。要らないと言っても彼女は聞こうとしない。元々決めたことは曲げない頑固な性格だったが、そんなことよりオレの目を見ようとしないまま話し続ける彼女の行動が酷くかなしかった。彼女はいつだって人の目を見て話す、律儀な性格をしていた。まっすぐ人を見据えていたはずの瞳は、オレの顔すら見ようとしない。そんな彼女の行動が胸の辺りを抉るように突き刺さる。


「かあさん!」


パステルブルーをした彼女のカーディガンの裾を引いた『せいや』くんは、そんな母の行動を止める。焦ったような、大きな声だった。


「どうしたんですか?」
「おかねならぼくがはらいます。おうちにかえればちょきんばこがあります」
「いいんですよ。元々今日はソフトクリームを買ってあげる約束だったでしょう?」
「…ぼくが!ほしいっていったんです!」
「せいやくん?」
「ぼくがおとうさんにかってほしかったんです!!!!」
「…え?」


間抜けな声を出したのは、誰だ。オレだ。お父さん。『せいや』くんが口にした言葉が上手く呑み込めない。彼は誰のことをお父さんだと言ったのか。ソフトクリームを買ってくれた人へだ。ソフトクリームを買ってあげたのは誰だ。オレだ。お父さんとはいったい誰だ。オレ・・・なのか?いつから固有名詞になった?オレ、お父さんなんてあだ名あったっけ?若い父親の役なんてまだやったことがない。


「ごめんなさい…」
「せいやくん」
「わがままいって、かってなことをしてごめんなさい…」


恥ずかしさを感じても、空腹を感じても、迷子になったとしても、決して泣こうとしなかった瞳がみるみるうちに潤んで大粒の涙をたたえる。それは母を怒らせたかもしれないという恐怖からだろうか。悪いことをしたという罪悪感があるようで、涙を流さぬように必死に堪えているその姿は健気ですらある。
そんな『せいや』くんのこぼれ落ちる瀬戸際の涙を、彼女は赤みを帯びた眦に口づけて拭った。怒られると思ったのだろうか。『せいや』くんはぎゅうっと目をつぶっている。そのせいで、拭われたにも関わらずついに涙は頬を伝ってしまったが、滑り落ちる一筋を丁寧に白い彼女の指先が撫でる。指先が、頬から顎を伝って安心させるように触れると、愛しい我が子の名前を呼んだ。


「ボクは怒っていませんよ」
「かあさん…?」
「本当です。母さんの目を見てください」


彼に己の瞳がよく見えるように、彼女はまたふっくらとした頬に両手を添えると上を向かせた。透明な膜を張っているルビーとシトロンが恐る恐る彼女の瞳をのぞき込む。眼(まなこ)はきっと同じ色をした晴天の空のように凪いでいたのだろう。そして、ほっとした表情を浮かべたあと、彼は両手の力のあらん限りといった素振りで最愛の母に抱き付いた。


「あと、黄瀬くんはキミのお父さんではありませんよ」
「え…?」


するすると彼のまあるい頭を撫でながら言った彼女は、一度きつく目を閉じたかと思えば、オレを見据えた。それは、何か決意するようでもあったし、天に祈るようでもあった。今日初めてまっすぐオレを見たその瞳は、かつて試合に臨んだ時と同じような強い光が宿っている。目の前にいる彼女は、記憶のままと同じ、揺るぎない強い芯を持つ凛とした黒子っちだった。


「お久しぶりです。挨拶が遅れてしまって申し訳ありません」


色々聞きたいことがあるとは思いますが、場所を変えましょう。ちょっと目立ちすぎてしまったようです、と彼女は言う。は、と気づけば、遠目にこちらを見ている人がちらほらといることに気がついた。彼女は彼を抱きしめたまま、器用にショルダーバッグに手を伸ばして何かごそごそと探しているようだった。目当ての物を見つけたらしい彼女は、ショルダーバッグを閉じると、子供を抱えた腕を上げて『せいや』くんと目を合わせる。


「お父さんごっこしてもらえて良かったですね。せいやくんお礼、言えますか?」
「…ありがとうございました」
「黄瀬さん、無理に付き合っていただいてありがとうございました。ずっとファンです。これからも応援していますね」
「え!ああ!これくらいお安い御用ッスよ!」


彼女がすらすらと口にする言葉には感情がないかのような棒読み。そして普段の彼女の声にしては些か大きすぎる声だった。ただ、『ずっとファンです。これからも応援しています』という台詞にだけ本当があるように聞こえた。その言葉が過去形ではないことが本当に嬉しい。彼女が彼を抱えた反対側の右手を差し出すので、ぎゅ、と握り返す。表向きはファンサービスの握手に見えるだろうけれど、オレはそんなつもりは更々なかった。あの時と変わらない、少し低めの体温だった。


「では、ありがとうございました。お仕事頑張って下さいね」


するりと手が離れる。抱きかかえていた子供をおろし、仲睦まじげに手を繋いで、オレから遠ざかる二人。子供はこちらを見て手を振ることもなく、ちらりとこちらを一瞥すると、すぐに前に向き直る。母を見上げる視線には戸惑いがありありと表れていた。彼女が差し出した手には何もなかったはずなのに、オレの手には先ほど鞄から出していた何か――名刺がある。そういえば、彼女は手品が得意だった。

*****

自然公園を後にして、オレは手にした名刺に目を滑らせた。名前と、携帯とパソコンのアドレスに、携帯番号。必要最低限の情報しか書いていない、良く言えばシンプル、悪く言えばそっけない名刺は彼女らしいと思う。高校卒業と同時に姿を消した時、彼女はそれまで使っていた携帯電話を解約しているから、彼女に連絡するなんて五年ぶりだ。彼女に会えなくなって五年経ったのだと、痛感する。メールの方が良いだろうか、電話の方が良いだろうか。しばしの間遅疑し、思い切って電話することにした。間違えないようにスマートフォンの数字を一字一字丁寧に押していく。彼女の声が耳に届くまでのコール音にこんな緊張を抱くなんて思っていなかった。それは彼女に恋をしていた時の、甘い緊張などではない。大丈夫だ、と思う。同時に何が?と思って、彼女が一つの痕跡も残さずに姿を消した時のことが刷り込みのように消えていないことを改めて思い知った。向こうが場所を変えようと言って名刺を渡してきたのだからこのまま姿をくらますなんてありえない。そんなことは、彼女の律義で誠実な性格を思えばすぐに分かることだ。それでも、どうしても震えてしまいそうな手が情けなかった。
通話口に耳を当てて、十数秒。三コール目で「はい、黒子です」というメゾソプラノが鼓膜に落ちて、安堵の息をつく。簡単に住所を告げられて、通話はすぐに切れてしまった。直ぐに会えるのだから名残惜しむ必要もないのに、どこか寂しい気がした。
言われた住所を間違えないように頭の中で何度も何度も繰り返し思い出しながら、スマートフォンのナビに打ち込む。ナビによると、彼女に指定されたのは自然公園から徒歩十五分くらいの場所にある住宅街のようだった。少し迷ったけれど、教えてもらった住所は彼女の携帯電話の番号と一緒に電話帳に登録する。もしかしたら、また繋がらなくなるかもしれないとは思った。それでも、その番号と住所は彼女とオレを繋ぐ大切な一筋の糸だった。

歩いて十数分でたどり着いたのは、簡素なアパート。名前はなんとかハイツ。そんな普通の名前のアパート。彼女の言った部屋は一階の奥から三つめ、手前から三つ目の真ん中の部屋だった。表札には黒子、と書いてある。呼び出されたのはやはり彼女の住まいだった。

深呼吸を一つ。てのひらを開いて閉じて。胸に手を当てる。今日は緊張ばかりしていると思う。そして不安を覚えることばかりだ。
意を決してインターホンと呼ぶには古めかしい呼び鈴を鳴らせば、奥から声が聞こえる。築十年以上は経っているように見えるアパートは壁が薄いようだった。


「狭いところですがどうぞ」
「…綺麗にしてるんスね」
「ありがとうございます」


迎え入れられた部屋は、一般的な1DKの部屋。玄関からすぐにダイニングキッチン。間仕切りは今、開け放されていて、畳の和室が見えた。和室の片側の壁には大きな本棚一つに小さな座卓が一つ。座卓の上にはノートパソコンが置いてある。ダイニングには四人がけのテーブルに小さめのテレビとカラーボックス一つだけ。必要最低限の家具しかないのに寂しさを覚えないのは壁にいくつか貼られた絵のせいだろうか。どの絵も三人の人間が描かれていた。不躾に部屋を見回してしまったかもしれない。は、と我に返れば下から痛いほどの視線があることに気がつく。同じ轍は踏まない、とさっき受けた冷気すら感じる威圧感を脳内でシミュレーションし恐る恐る足元を見る。そこにはまあるいわたあめが二ついた。


「分裂?!」


思わず口から出たのがその言葉だった。何とも間抜け。部屋の主は呆れたように「単細胞生物じゃないんですが…」と笑う。


「二人とも、ご挨拶できますか?」


ててて、と可愛らしい音を立てて、二人は母の足元に縋りつく。彼女が抱きついてきた二人の背を押すと、二つの水色は顔を合わせたと思えば、同時にオレのことをじっと見つめた。


「くろこせいやです」
「くろこせいなです」

二人の眼窩にあるのは埋め込んだルビーとトパーズ。ふわふわの水色の髪の毛は同じ。『せいな』ちゃんも、顔の造りはあまり彼女に似なかったようで、『せいや』くんよりもいくらか鋭さが和らいだ見事なアーモンドアイ。髪の長さが同じならきっと見分けがつかないのではないかと思われるほど、ふたりはそっくりだったが、生まれもった身体的特徴として違うところがあった。爛々と輝く月のような琥珀色の位置が、『せいや』くんは左、『せいな』ちゃんは右だったことである。恐ろしく顔の整った双子だと思う。その辺を歩いているだけで誘拐されてしまいそうだと物騒なことを考えてしまった。
そんなところで立ってないで上がって下さい、と二人が簡単な自己紹介を終えると彼女はそう言った。






「双子だったんスね」
「はい。稀な異性の一卵性のケースみたいで騒ぎになりかけました」


あの時は大変でした…と当時を思い出して、眉根を顰める彼女。確かに異性の一卵性双生児なんて聞いたことが無かったが、本当に稀にそういうことがあるらしく、世界でも数えるほどの事例らしい。


「さっきは大丈夫でしたか?」
「あー大丈夫ッス!」


さっきのあの人は誰ですか?と聞いて寄ってくる若い人もいたが、子供が昼ドラごっこにはまってたらしいッス、と笑って言えばみんな顔を赤らめて納得した。最後に握手かサインをすれば完璧だ。


「それにしても随分演技派になったんスね」
「ハリウッドも夢じゃないですか?」
「グラミー賞モンッスよ」


彼女とオレは向かい合って座っていた。オレの隣には『せいや』くん。『せいや』くんの向かいには『せいな』ちゃん。二人はオレたちの会話に混じることもなく黙って話を聞いている。大人が話している時に無闇やたらに会話に入ろうとしないのは躾の行きとどいている証拠だった。


「元気そうで安心しました」
「それはこっちの台詞ッスよ」
「…すみません。お仕事頑張っているんですね」


CMの撮影だってせいやくんから聞きました。そう言った時の彼女の顔は穏やかだ。鉄仮面なんて言われていた無表情にも、よく見れば喜怒哀楽がある。目は口ほどに物を言うなんていうことわざがあるが、彼女の場合それが顕著だった。彼女の目は、表情筋よりもいつも良い仕事をしていた。


「今、何か仕事してるんスか?」
「市の図書館で司書のパートと、少しだけ文筆もしています」
「すごいじゃないッスか!本読むの好きだったもんね!」
「しがない地方フリーペーパーの小さなコラムですよ」


淹れてもらった紅茶に口をつける。ダージリンだろうか、鼻孔をくすぐる芳香が上品だ。


「…聞きたいことは、たくさんあると思うんですが」
「うん」
「なんでも、聞いて下さい。答えられる範囲内で人事を尽くします」
「ぶっ」


本題に入ることができないオレを見越してか、彼女は唐突に切り出した。ここに来たのは、彼女と話をするためだ。ただの雑談を交わしにきたわけでもないが、何か具体的に話す内容が決まっているかといえばそういうわけでもなく。彼女に言いたいことも聞きたいこともたくさんあるはずなのに、喉のぎりぎりで留まって上手く言葉にならないもどかしさがある。

「あ、一つだけ。先に言わせてもらいますが、せいやくんがさっき言ったことは気にしないで下さい」

ちょっと混乱しただけというか、考えすぎただけなので。

続いた彼女の言葉を反芻する。さっきのせいやくんの言葉、と耳から脳に染みてゆく単語。今日一番オレの気を動転させた言葉。彼女の発言を受けて、隣に座る『せいや』くんが自分の母とオレの顔を交互に見ている。


「オレ、いつ子作りしぐふっ」
「子供の前でわけのわからないことを言わないでください」
「久しぶりのイグナイトはきついッス…」
「かあさん、でも、」
「でも、どうしたんですか?」


初めて『せいや』くんが、オレと彼女の会話に入った。


「きせさんのめのいろ、ぼくたちとおなじです…」
「…そういうことでしたか」


彼女はでも黄瀬くんは二人のお父さんではありませんよ、と続けたが『せいや』くんは納得いかないという目で母を見ている。そんな様子の彼に対して、困ったように眉を下げて彼女は笑った。


「キミたちの目は何色をしていますか?」
「せいなのおめめ、あかときいろです」
「せいなさんよくできました。じゃあ黄瀬くんの目は?」
「きせくんのおめめはきいろです」
「そうですね。二人と片方だけ似ていますね。じゃあお母さんのはどうでしょう」
「かあさんはみずいろです」
「はい。二人とも全問正解です。黄瀬くんの目は黄色。ボクは水色。じゃあキミたちの真っ赤な瞳はなんでしょうか?」


謎かけをするように彼女は優しく二人に問いかける。二人が納得いくように、順序立てて丁寧に。『せいや』くんは早とちりに気付いたように目をまん丸にしている。やっぱりどこか猫を彷彿とさせる表情だった。


二人の名前は、お父さんの名前から取ったんですよ、と彼女は静かに言う。二人の揃いの字は、多分、「せい」という音だろう。確かめたわけではないけれど、きっとあの字だ。正しさと、何かを従えることを思い出させるあの字。
静謐さと、慈しみと、柔らかく降り注ぐ慈雨のような優しさを含んだ彼女の表情は、神聖さすら覚えるものだった。きれいだと思う。元々パーツは整っていてきれいな方だったのだ。影の薄さと、桃色の彼女のようなきらびやかさがないだけで、彼女はそう、元々美しい人だった。その浮かべた笑みの色を見て、彼女の気持ちが今どこにあるのか、分かったような気がする。月並みにしか言葉に表すことができない自分が憎らしいほど、彼女は綺麗だ。

じゃあ黄瀬くんのお名前はなんでしょう?問いかける声は夜啼鳥のさえずりのように朗らかである。
一つ一つ優しく誤解を紐解いていく様子は、プレゼントの包装紙を丁寧に一枚ずつ剥がしていくようでもあった。


「オレの名前は黄瀬涼太ッスよ!今をときめく実力派イケメン俳優ッス!」


二人が彼女の問いかけに答えるよりも早く、オレは自分の名前を言った。さっき彼に白い目で見られる一因となった自己紹介と共に。勝手に答えるな、ぼくたちの質問だ、頭が高い、ありったけの罵りが浴びせられるかもしれないと思った。怒らないでほしいッス!と、顔を隠すもマシンガンのような罵声はさっぱり聞こえてこない。顔を覆ったままでいると、至極真面目そうな声で、黄瀬くんハウスです、と彼女に言われてしまった。叱られた犬よろしく、指の間から隣の魔王ジュニア様の様子を窺えば、彼はふ、と噴き出して笑い始める。


「きせさんは、ぼくがそうぞうしてたとおりのひとです」


そう言うと、目の前の二人も声をあげて笑う。花がほころぶようだった。いつの間にかずっと抱えていた緊張も不安も解けていた。こわばっていた表情筋がほどけていくのが分かる。どんな想像をされていたのだろうかと疑問に思いながら、オレもつられて笑いだした。







折角ですから、と。彼女の夕飯も食べて行ってほしいという言葉に甘えて、オレは夜まで彼女たちの家に居座った。最初は断ったものの、変な誤解をさせてしまいましたし、外でも危うくおかしなスキャンダルになりかけましたから、と言われてしまえばそれ以上無碍にもできまい。変な誤解なんて、本当は端からしていなかったけれどそれを口には出さなかった。
『せいや』くんの言葉に一瞬驚いてはしまったのは本当だし、思いがけない爆弾発言は至上最大級だと言っても大げさではないだろう。しかし、驚いたのは、オレですら二人の父親が誰なのか一目見た瞬間から分かっていたのに『せいや』くんは自分の父親が誰なのかわかっていなかったからというのが大きい。二人の父親がオレだと一ミリたりとも思うことなんてできるはずもなかった。それはイグナイトをかまされてしまった子作りが云々という下世話な事実も理由の一つだが、瞳の色が黄色だったところでオレが父親であるなんてありえないのである。彼女が言ったように、二人の紅玉は、オレの持ちえない色だったし、月のような琥珀は鮮やかな向日葵のようだと言われるオレの瞳とは似ているようで全く異なる輝きを放っているのだから。

彼女が用意してくれた夕飯は湯豆腐、ほうれん草のごまあえ、わかめのお味噌汁に、鮭の塩焼き。ご飯は白米ではなく十五穀米だった。さっきと同じように座って食卓を囲み、礼儀正しく両手を合わせていただきますと言う。舌っ足らずないただきます、という言葉に無条件に頬が緩んだ。得意料理は茹で玉子です、なんてドヤ顔していたあの頃が嘘のような腕前で、オレは図々しいことに二回もおかわりした。彼女はたくさん食べて下さいと言って微笑んでいたし、小さな彼は母の料理が美味しいのなんて当然だ、と偉そうにしていた。小さなお姫様はそれに賛同してそうです絶対です!と豪語する。幼い二人は、子供にしては珍しく洋食よりも和食の方が好きなのだという。好物は湯豆腐にシェイクとわかめらしい。母はシェイクに関してバニラが至高だと宣言しているが、イチゴシェイクが好きなんだと、楽しそうに小さな二人は話してくれた。どこまでも似ているんスね、と零せば、彼女は少し揺れたような表情で笑みの形を作ると、でもわかめは大好きなんですよ、と言った。後から聞けば、紅生姜は誰かと同じように苦手らしい。


夕飯を食べながら子供向けのアニメを見て、二本立て続けに放送されるそれを見終わる時間になると、五歳の二人はすっかり眠たい様子で目をごしごしと擦っている。水色と赤のお揃いのパジャマに着替えると、おやすみなさいという挨拶と共に、間仕切りを閉めて夢の世界に旅立っていった。すよすよという穏やかな寝息が聞こえるのでぐっすり寝入ったことがわかった。

彼女は無意味に流れるテレビの電源を切ると、お茶でも淹れますね、とキッチンに立つ。やかんにお湯を入れながら、ぽつりと呟いた。


「何も聞かないんですね」
「…色々聞いたじゃないッスか」


二人の好きな食べ物のこと。最近花に興味があってベランダでひまわりを育て始めたこと。、ひまわりの種は食べられることを知って『せいや』くんが驚いたこと。今夢中になっているのは、バスケでどうやらバスケ馬鹿は遺伝したらしいこと。NBAの野性児と大食いリスが出ている試合は全部録画しているとか、二人でお手伝いをしてお駄賃を貰いバスケットボールを買おうとしているとか。オレの出ているドラマやバラエティ番組を見ては、真似して遊ぶことがあること。彼女は有名なパティシエとなったまいう棒の妖精の料理番組を見て日々料理を研究していること。おは朝占いを見るのが日課で、たまに鬼畜なラッキーアイテムを欲しがられて困ったりすること。三人から、毎日をどんなふうに過ごしているのかたくさん聞いた。そこにあの彼のことがほんのひと匙も出てこないことが、心の中に鉛のように落ちて行ったが気付かないふりをした。
この三人に、穏やかで、優しくて、あたたかな時間が流れていることにどれほど安心したのか分からない。


「そういうことじゃなくて、」


蛇口を捻って水を止める。


「二人の父親が、誰なのか、とか」


聞かなくてもそんなのわかるッスよ、とは言わなかった。
言えなかった。
オレが気づいていることくらい、彼女だって分かっているはずだ。どこまでも彼女の性格は馬鹿正直で、まっすぐで、真面目すぎると思う。一目見ただけでわかるくらい、誰かさんに似ていること。そんなことは、彼女が一番よくわかっているだろう。だからこそ、だと思う。芯の強い、いつだって揺るぎない炎を瞳に湛えていた彼女の後ろ姿は、今、頼りなげに見える。あんなに、会えないかもしれない、でも会いたい、なんて葛藤していたのが嘘のようで。


「二人は、素敵な字をもらったんスね」


征哉と征奈。そう書くのだと教えてもらった。本心だった。オレの言葉に、彼女は肩を揺らすと少しだけ身を竦めるようにして固まっただけ。何となく、彼女が泣いているように見えた。泣いているわけがないのに、どうしてかそんな風に思ってしまった。

いつまでこちらにいらっしゃるんですか、と脈絡もなく聞かれる。さっきのオレの言葉に返事なんてなくて、でも、それで正解だったんだと思う。あと三週間ないくらいだとありのままの事実を伝えれば、ちょうど彼女がキッチンから出てくるところだった。


「…良かったら、時間があれば、」


また来て、あの子たちと遊んであげて下さい。少し震えた彼女の声。そうしてあの自問自答の意味がようやく分かる。
オレは、あの時、ただ彼女に拒絶されるのが怖かっただけだったのだ。

蒸らし終わったらしい紅茶をお盆に乗せて持ってくる彼女の顔は少し緊張している。瞳も不安でちらちらと揺れているのがわかってしまった。ばかだなあ、と思う。彼女は無条件に他人のことを信頼してくるくせに、自分のことは全力で信じきることができないことがあった。オレたちのせいでかなしい、身を切るような決別を経験して、高校に進学して、キセキとは違う仲間を見つけた時に克服したように見えたそれは、時たまひょっこり顔を出すらしい。時たま、自分に自信がないというか、劣等感があるというか。そんな、彼女の悪い癖。


「もちろんッスよ!」


間髪入れずにそう答えたことで、彼女がほっとした顔をする。オレが彼女のそんなささやかな願いを突っぱねるはずがないというのに。続けざまにオレは言った。


「黒子っちにだって会いに来るッスからね!」


優しい匂いのするミルクティーをオレに渡して、黒子っちはやっぱり泣きそうな顔をして笑った。



淡雪のような薄紅に思うこと




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