いつだったかキミは、真っ白な雪を見て、ボクに似ていると言ったことがある。
それはとても寒い日で、数年に一度の寒波だとそこらかしこのニュースで専らの話題だった。
稀に見る大雪、ボクはその寒さにいつもよりも早く目が覚めて、ろくに手袋もはめずに支度をして家を出てしまった。
きっと朝練に来たチームメイト達は東京では珍しく15cmも積もったその雪で遊び始めるに違いない、と想像して自然と口角が自然と上がる。
歩道に積もった雪は、朝にしても早すぎる時間帯故に誰かが歩いた形跡もなく、真新しい雪をぎゅっと踏みしめ る感覚は不思議と何処となく気分が良い。
予想の範疇を超えた積雪に対応したブーツがあるはずもないボクは濡れる足もとも気にせず、ローファーで一歩一歩噛みしめるように歩いた。
いつもより長い時間をかけた登校時間となったが、それもたかが知れたもので、学校に着くと、朝練の為に体育館に向うより先にボクは冷えたつま先を忘れたかのように駈け出していた。
一息吸う度、刺すように冷たい空気が肺いっぱいに充満して 胸の辺りが少しばかり痛かったけれど、白い吐息が弾むのと同じように鉄仮面と呼ばれる硬い表情の下で、ボクの心も弾んでいるようだった。
きっとボクは、ほぼ初めて見る視界いっぱいの雪景色に少なからず興奮していたのだろう。
ボクの在籍している帝光バスケットボール部は全国に名を轟かせている強豪チームで、バスケに関わっている人なら知らない 人はいないと言われる程の知名度だ。
しかし帝光中学が誇るのは何もバスケ部だけではない。陸上、サッカー、テニス、バドミントン、剣道、水泳、野球・・・ありとあらゆる運動部が全国大会常連であり勉学、スポーツ共に力を入れている文武両道を謳う学校なのである。
故に体育館などの運動施設はかなり強化されており、体育館も運動場も共に第四まで用意されていた。
そんな運動部の中でも輝かしいばかりの成績を誇るバスケ部は二つの体育館を利用していて、主にレギュラー陣の拠点となっている第一体育館の横道を100m程歩けば四つある運動場のうち一番の広さを誇る第一運動場があった。
第一体育館から外の水飲み場まで行けるように作られた体育館の入り口に、半ば乱暴に鞄を下して中道を走る。
マネージャーで、そして女子という性別であるのに、特異なバスケスタイルを身につけたことが幸いして、ボクは帝光バスケ部のレギュラーと共に練習することもある。
バスケをこよなく愛するボクにとって、全国トップクラスのチームのレギュラーと練習できるということは、例え公式試合には出られなくとも涙を流してもいいくらい幸福な出来事だった。
そして当分のボクの課題は、いつだって体力のなさで。
しかし何事も平均並みを自負しているボクの100m走のタイムは20秒を切るくらいで、短い中道は息を切らすことなく走りきれるだろう。
ほんの数十秒経てば、その広い運動場の入り口だった。
「・・・!」
一望した目前の景色は、言葉にならない。
広い広い運動場は 一面の銀世界。
積雪量の多い地域の人たちからし てみれば大したことがないと鼻で笑われるかもしれないけれど、それでも雪に馴染みのない生まれも育ちも東京の自分からしてみれば絶景に違いなかった。
新雪には一つも足跡などなく、真っ白な世界だけが目前に広がっている。
普段は茶色の土と木々の緑という至って普通の景色が、雪が積もっただけでここまで印象が変わるのか、と思う。
土を覆い隠す白は、フェンス沿いに植えてある針葉樹にも降り積もりクリスマスの絵本に出てくるモミの木のようにもこもこと雪を携えていた。
ぱらぱらと、ゆっくりとした速度で粉雪が再び降り始める。
腕時計を見れば午前6時と少し。
早起きしてしまったからと、急いて自宅を出てしまったがこの真冬ではまだ陽も登らぬ時間だ。
運動部の朝練は基本的に8時から行われる為、人の気配は一つも感じられない。
ボク以外に誰もいないこの広くて白い空間にいると、まるで異次元に迷い込んでしまったかのような錯覚を覚える。
静まり返り、研ぎ澄まされた刃のような冷たい空気は、ぴん、と音が鳴りそうな気さえするようだ。
「・・・長いトンネルを抜けると雪国であった。ですか」
「夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。」
後方右側から突然声が聞こえて、びくりとして振り返る。
雪国だね、と続けたその人物――赤司征十郎は白い息を吐き出しながらボクの後ろに立っていた。
声で誰だかすぐにわかるのだが、誰もいないと認識している(或いは思い込んでいる)ところに、突然話しかけられるということはこんなにも人を驚かせる行為なのかと、普段の自分の行動について思い返す。
しかしボクのそれは故意に起こしている行動ではなくてあまりにも影が薄いという自分のどうしようもない生まれながらの性質のせいなので不可抗力だと思いたい。
彼、赤司君はボクのように存在感が薄いわけではない。
寧ろこの帝光中学の中で一番の存在感を誇ると言っても過言ではなく、そういう意味でボクと対極にいる存在だろう。
人間観察が趣味なボクは、人の気配には敏い方だ。
そして赤司君はそんなボクよりもとても人の気配に敏感で、他人は皆、家族ですら、気をつけてもどんなに探してもボクを見つけるという行為自体が困難な筈のボクを、初対面の時その紅い瞳で、ボクの気配を、表情を、正確に映しだした稀有な人物だった。
「おはよう。随分早いな」
「おはようございます・・・気配を消して背後に立たないで下さい」
心臓に悪いです。そう言えば、赤司君は切れ長だが綺麗なアーモンド形をしてる目を細めて、口元に弧を浮かべて静かに笑みの形を作った。
赤司くんの得意な、少し含みのある意地悪そうな笑みだ。
「気配を殺した覚えはないんだけどね。それだけ黒子がこの景色に夢中になっていたんじゃないか?」
「・・・その可能性も捨てきれませんけど」
口で彼に勝とうとは思わない。彼の心中は、人間観察が趣味のボクでも全然読むことはできないし、目の前の物珍しい景色に夢中になっていたのも事実だったから進んで否定はしなかった。
きっと赤司くんの言ったこととボクの言ったことがフィフティフィフティで事実なのだろう。
ふと気づくと、さくりと音を立てて、雪がしんしんと降り注ぐ中、彼は一歩運動場に踏み出していた。
革靴もスラックスの裾も雪に埋もれることを気にせずに、そのまままゆっくりとしたスピードで歩を進める。
彼はいつだって王様なのである。
実しやかに「帝光の天帝」と噂されているのは知っている。
しかしここまでその言葉が似合う人物もいないのだろうと思う。
激しいバスケというスポーツの試合の最中でさえ、上気したところを見たことがないような彼の白い頬は、寒さの為か少し赤みを帯びていた。
一面に白と赤しかない世界。
その中に一人、背筋を凛と伸ばして立っている真紅の王様はいつも気高く美しい。
同い年の筈の彼は中学生とは思えない存在感と、カリスマ性と、どこか目の前にすると萎縮してしまいそうな圧倒感に、思春期に入りたての子供とは思えない落ち着き。そして彼には気品と威厳と高潔さがあった。
それは育ちの良さだとか、彼の学業や私生活に現れる優秀さだとか、幼い頃からの英才教育だとかによるものだけではなく、生まれ持った生来の彼の気質なのだろう。ボクはそう思っている。
彼の燃えるような、というより、血のように鮮やかな緋色は一面の銀世界によく映えた。
「美しいですね」
「俺も素直にそう思うよ」
「・・・赤司君にしては珍しい」
「お前は俺を何だと思っているんだ?」
ボクに背を向けていた彼は不意に振り返りボクを見る。
その顔(かんばせ)の形作る表情を見てボクの世界は息を止めたみたいにかたまった。
「今なら川端の情緒も理解る気がするよ」
おどけたようにゆったりと笑うそんな表情を、ボクは初めて見た。
まだ薄暗い午前6時過ぎ。やっとお日様が姿を見せ始めていて、彼の深紅は、微かに差し始めた柔らかな光に照らされる。
傷みのない男子にしては指通りの良さそうなさらさらとしたその髪が輝く様と、携えた酷く穏やかでゆるやかな笑みとが相俟って、ボクの目から見た彼は天からの遣いか何かのように思えてしまうほど、美しかった。
「一面の雪は」
深い慈愛のような、愛しい子供を見つめるような見たことのない表情をして、彼はひとり言のように呟く。
「まるでテツナみたいだ」
彼のやわらかなその色合いをした面持ちを、一体誰が見たことがあるだろう。
チームメイトの青峰や黄瀬から魔王だ鬼部長だと言われ、キセキをまとめるリーダーとして、生徒会長として、学年主席として振る舞う彼はボクらと笑いこそすれ、たまに中学生らしくばか騒ぎをすることもあるが、何処か義務教育中のティーンエイジャーとはかけ離れた何かがあった。
それはボクらとは一線を画した何処かに、彼の本質はあるということを示しているのだろうと、勝手にボクは思っていたのに。
ざくりざくり。先ほどとは打って変わって足早に、大きな音を立てながら彼はボクに近づいて寒ささえ忘れていたボクの両手を取る。
「冷えすぎだ」
なんで手袋もマフラーもしていないんだ、と彼は母のようにボクを咎める。
ボクの両のてのひらは彼の手の中にあって、それをそっと持ち上げた赤司くんは大きく吸い込んだ息をボクの手に吹きかける。
低血圧で体温が低そうに見える赤司君の体温はボクと比べて随分と高い。(なんでも筋肉量に比例した基礎代謝の違いだそうだ。)
急激に感じた人肌は、ボクにとっては痛い程の温度で、じわりと心臓が軋んだ気がするけど、寒さのせいにした。
「・・・眩しいですね」
「ああ、やっと日の出だな」
言葉に詰まるように必死に紡ぎ出したボクの言葉を、彼はなんと捉えたのか。
ボクが美しいと言った対象を、彼は正確に把握していたのか。
ボクには分からない。
ただこの時、ボクのちっぽけな才能を見付けて掬い上げてくれた神様みたいなにんげんに、もしかしたら手が届くかもしれないと、ほんの少しだけ思ったのだ。
(ボクが雪なら、)
「まるで赤司君みたいです」
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「おかあさん、ゆうやけです」
「きれいです」
「おや、」
窓の外を見遣ると、それはそれは真っ赤な夕焼けだった。
小さな、水色の頭が二つ駆け寄ってボクに抱きついてきたので、それを受け止めて暮れなずむ空の色を見つめる。
「征哉くんと征奈さんの色ですね」
ボクが言えば、二人の子供は、互いの顔を確かめ合うように見合わせて、そしてボクの顔を見ると無邪気に破顔した。
互い違いの位置にあるオッドアイが二揃い。
ルビーとシトロンがまっすぐにボクを見つめたあと、抱きつかれる力が一層強くなった。
あの時見た雪景色より深い深い雪を、身を焦がすような灼熱色をした太陽が照らしていた。
ボクは生涯、あの景色と表情を、忘れないだろう。
六花、冬暮れに焦がるる