ハニーシロップシュガーマジック | ナノ

青葉繁る五月。萌える緑が麗らかな朝に、ふあ、と欠伸をしながらそっと教室に入る。類い稀な程影の薄い彼女にとって、生徒に気づかれないように教室に入ることなど造作もないことだった。そろそろと歩いて音を立てないように椅子を引く。席に座りながらホームルーム中の担任の顔を見遣ると、少し顔を歪めてこちらを見ていた。クラスメイトを騙すことは出来ても付き合いの長い担任の目を掻い潜ることは難しいことは彼女も百も承知である。好きな作家の新刊が二冊同時発売だった為、嬉しくなって張り切って読んでしまったのが悪かったようで、少々寝坊してしまった結果の遅刻だった。あとからお小言を頂戴するかもしれないな、と彼女が思っていると、校舎の鐘の音がホームルームの終わりを告げる。当日の急な時間割変更や移動教室、提出物の期日など連絡事項を丁度告げ終わったところだったので本当にタイミングが良い。速やかに次の授業の準備をするように促し、教室から出て行こうとする担任は、廊下に出る前に一人の生徒を呼び止める。黒子、と生徒の名を呼ぶと、薄水色の頭を揺らしながら呼ばれた生徒――黒子テツナは、はい、と返事をした。何処にいたのか、というかそこにいたのか、と彼女の周囲にいた生徒はその存在に驚いて声を上げる。存在感が普通の人間より薄い彼女はこうして何かの拍子にその所在に気づかれると吃驚されることが多かった。びっくりしたー、そこにいたのかよ、黒子さんおはよう。存在に気付いた生徒たちは彼女に声をかける。その声に軽く会釈しながら、黒子テツナは彼女を呼び止めた担任教師、緑間真太郎に近寄った。


「おはようございます先生」
「おはようなのだよ」
「何かご用でしょうか?」


テツナの身長は日本女子の平均身長より若干低めで、そんな彼女が日本男子の平均身長を遥かに超えている緑間と話すには、人と話す時は相手の目を見て、といういくつかある彼女の信条に従うと、自然と見上げる形となる。呼ばれたからには何か用があるのだろうと、彼女は単刀直入に彼に要件を尋ねた。しかし彼から呼び止めたにも関わらず、彼女の問いに一向に答える気配もなく、あーそのだな、と言い澱む姿は珍しい。てっきり遅刻のお咎だと思っていた彼女は拍子抜けする。彼の受け持つ科目である化学の授業で行う実験によって指が痛まないように、と施されたテーピングを弄るのは、緑間が何か困っている時にする癖の一つだった。そんな緑間の様子にテツナはこてんと首を傾げる。わざわざ彼女の名を呼んだからには用事があるであろうことは間違いないのだが、遅刻に対するお怒りでなければ、一体なんの用なのだろうか。テツナは思考を巡らせるが、緑間はまだまごついていて本題に入る様子はない。

彼が話し始めるのを待ちたいところだったが、ホームルーム後の休み時間は短く。現に次の授業は実験の為移動教室であり、この教室から移動しなくてはならなかった。


「次、生物なんですが…」

暗に移動しなくてはならない旨を告げると、はっと我に返ったように緑間は、そうだったな、と零す。


「…話があるから、放課後化学準備室に来るのだよ」


眼鏡のブリッジを上げながらそう言う彼は、白衣を翻して足早に教室を出て行った。ここでは出来ない内容の話だったのか、それとも長引く話だったのか。いつも神経質な印象を受ける緑間ではあるが、どことなく深刻そうな顔をしていた彼の表情に、何か理由があるのだろうか、とテツナは思案した。
担任としてだけではなく、実は従兄妹という血縁関係があり、付き合いの長い彼が言う「話」とは一体何なのか、ぼんやりと考えていると一講目の開始を告げる鐘が鳴る。遅刻になってしまう為、彼女特有の影の薄さを利用したミスディレクションを発動させながら移動教室に入室しなければならない、と思いながら、そうして彼女も教室を後にした。

心なしか駆け足で廊下を歩き、ミスディレクションを活用させながら教室に入ると、生物の教科担任はまだ教室にやってきていないようだった。ほっと胸をなで下ろし、自分の席に着く。先生が来ていないことを良いことに生徒はみなお喋りに興じていた。先生が来るまでの短い間、遅刻の原因となった読み掛けの小説でも読んでいようと思い、テツナは教科書やノートと一緒に持って来ていた文庫本に手を伸ばす。表紙を捲り、栞の挟んであるページを開いたその時だった。彼女にとって耳を疑うような話し声が鼓膜を震わせた。


「ていうかさーこんな時期に改修工事なんて酷いよねー」
「あー、休みの期間にやってくれたらいいのに何で?って感じ」
「でもこの間一階のどっかの床抜けたらしいじゃん?」
「雨漏りしてるところもあるしPTAから苦情入ったらしいよー」
「わたしなんて実家から通える範囲だから実家に帰るんだよね」
「上京してる子だけらしいね、仮寮用意してくれるの」
「電車使わないといけないから早起きしなきゃだよサイアク」

「それは本当の話ですか?」


テツナが不意に話しかけたため、談笑していた女子生徒は一斉に驚く。


「さっきのホームルームで先生が言ってたから本当じゃないかな?」
「黒子さんいなかったっけ?」
「ボク遅刻してきたものですから」
「そうだったんだー。来週までには寮出なきゃいけないみたいだよ?」
「寮の子大変そうだね」
「……」
「黒子さん?」
「…来週ですか」
「そう。来週から来年度までかかるって。あ、黒子さんも寮だっけ?メンドウだよねー」
「あ、先生来たよ」


教科担任がやっと来たため、立っていた生徒も自分の席に戻る。遅れてごめんな、という教科担任の声の後、日直の生徒が号令をかけていた。起立、礼。いつも通りのその風景の中、テツナは眉を顰めながら号令に従う。


「…面倒なことになりました」


テツナは独り言ちながら号令に従って席に着いた。


*****


「失礼します」
「…やっと来たか」


朝、緑間に言われた通りテツナは化学準備室に来ていた。準備室は几帳面な彼らしく整然と片付いている。この帝光高校に、緑間の他にも化学教師はいるのだが、最高学府を出た風変わりな同僚は取っ付きにくいのか彼以外がこの部屋にいるところを彼女は見たことがない。馴れると面白く、何かとつけて小言を言いながらも世話を焼いてくれるその姿はツンデレとしか言いようがないのだが、そんなことを彼に言っては怒られること間違いないだろう。


「まず始めに、遅刻は良くないのだよ」
「すみません。面白い新刊が出たのでハッスルしてしまいました」
「ふん。そんなことだろうと思っていた」


呆れた視線を彼は送るが、大体のことは把握していた彼にとってそんなことは些細なことに違いなかった。伊達に従兄妹をやってはいない。無暗矢鱈に干渉はしてこないものの、お互い好きな物や嫌いなものくらいは把握している間柄である。


「全く、黒子が遅刻している間、大切な話をしていたのだよ」
「……寮の改修工事に伴う一時帰省について、でしょうか」


テツナは配られたであろうプリントの表題宛ら言葉を口にする。自分が話そうと思っていたことを先に言われたせいか、緑間は少し驚いたように眼鏡の奥の目を瞬かせた。


話をまとめると、雨漏りやら何やら老朽化の進む女子寮に対して保護者から苦情が挙がり、ついに先日一階のある部屋の床が抜けるという事態が勃発したおかげでPTAにまで問題が浮上。新学期が始まったばかりの五月という時期ながら、いつ生徒が怪我をするかわからない為早急に改修工事が取り決められた。
その改修工事は翌週から次年度の春休みまでを目途としており、その間自宅に帰れるものは帰省、遠方から上京してきた者に関してのみ仮寮を用意するということだった。


「……知っていたのか」
「クラスメイトが話していたのを小耳に挟みまして」
「そうか」
「条件を聞くにボクは一時帰省に該当するようですが」
「…あの家に帰れるのか」
「できるも何も仕方がないでしょう」


緑間は眉間に皺を寄せる。テツナは無表情に事実を淡々と述べていた。彼と彼女の付き合いは既に十年以上にも及ぶ。彼女は彼の癖を知っているが、それは彼にとっても同様のことだった。少し早口になる時、彼女は決まって何か隠していたり、我慢をしている。生い立ちがそうさせるのか、彼女は自身に関しては諦める癖がついており、加えて誰にも弱みを見せようとしない。彼女は全面的に緑間を信頼しており、時に軽口や冗談を言い合うような仲だったが、困った時に彼を頼るということは殆どしなかった。彼が彼女の些細な変化に気づいてアクションを起こさない限り、彼女はいつまでも色々な物を抱え込んで背負い込むし、その荷物を自発的に誰かに預けることをしない。しない、というよりその術を知らない、そんな人間だった。

案の定なテツナの返答に緑間は眉間の皺を更に深くする。一つ溜め息を吐いて彼女の顔を見ても無表情は崩れないまま。ポーカーフェイスはテツナの得意技の一つだ。緑間は彼女の胸中を全て知っているつもりは毛頭ないが、彼女の世間一般で言う「家」に関してどんな思いを抱いているか、それくらくらいは分かっているつもりだった。


「……あそこに帰ったところで、どうする」
「どうするも何も、ボクだってもう子供じゃありません。心配しすぎです」


どこか無鉄砲な、無計画というかむこうみずというか、なるがままになってしまえば良いとでもいうような。そう。成り行きまかせなところが彼女にはある。普段はそれなりに慎重だというのに自分のこととなると自身を顧みようとしないのは、多分彼女の悪い癖なのだろう。

だからいつも彼は彼女を放っておけない。



「…一つ、提案があるのだよ」
「…?」



重々しく緑間は口を開く。口にはしていないが、どんなに嫌でも選択肢は一つしかないと頑なに思っているテツナには、彼の言う「提案」は一体何の事だか、全く見当がつかないようだった。疑問符を浮かべる彼女を他所に、彼はそのまま話を続ける。



「俺の知り合いが、お前一人、改修工事の期間、居候させても良いと言っている」
「…はあ」
「家賃や食費は一切要らないそうだ。一人暮らしに見合わないような非常に大きな家だからお前一人増えたところで支障はないらしい。家事全般もハウスキーパーを雇っているから心配しなくても良いと言っている。ヤツの家は帝光から電車で三駅目のところに構えているから歩こうと思えば歩けない距離でも、」
「ちょっと待って下さい」


矢継ぎ早の緑間の「提案」をテツナは遮った。


「意味がわかりません」
「俺はお前があの家に帰らなくても済む方法を提案しているだけなのだよ」
「それが意味がわからないと言っているんです」
「だから今説明をしているのだが」
「…いきなり見ず知らずの人の家に居候だなんて馬鹿げています。おまけにお金も必要ないなんておかしいでしょう」
「おかしくとも先方が出してきた条件だ」
「いくら先生の知り合いだからってそんなのおかしいです。そんなこともキミはわからないんですか」


いつもの無表情が崩れ険しい顔になる。従兄弟でありながら、緑間を小さな頃のように「緑間くん」と呼ばず、誰に言われるわけでもなく聞き分けの良い子のようにきちんと一線を画し、「先生」と呼ぶ彼女の呼称が変わった。おまけに鉄仮面とも言えるその表情筋が動いているのはとても珍しい光景だった。


緑間は憤っているともいえる様子のそんなテツナに続ける。


「黒子をあの家に帰すのは不適切だと思っている」
「仮に不適切だったとして、帰省するのだとしたら、ボクにはあそこしかありません」
「そんなことは俺にだって分かっているのだよ。俺が帝光の教師でなければ、うちを仮住まいにさせても良かった。それくらいにあの家はお前にとって不適切だと感じていのだよ」
「どんなにキミが不適切だと感じたってそれは先生の立場を考えれば贔屓と何ら変わりません」
「事実俺は帝光の教師で、黒子、お前の担任だ。一応「あの家」という形だけの保護者がいる以上、お前をうちに連れていくことは出来ないし、それが出来るなら学校の用意した仮寮に入れている」
「ボクだけ特別待遇は許されない筈です」
「そうだ。それに加えてお前と俺は従兄妹同士だ。それを知っている者は少ないが余計依怙贔屓と取られてもおかしくはない」
「だから元よりボクには選択肢など用意されていない筈です」
「しかし、」


無表情で影の薄い人間ではあるが、テツナは頑固な人間だった。そして聡くもある。緑間とこんな風にぽんぽん言葉を返し応酬できる人間はほんの一握りの人間しかないないに違いない。


「どんなに依怙贔屓と言われようが、俺は教師として、そして教師としてだけでなく従兄弟としても、お前を心配しているのだよ」


緑間の嘘偽りない言葉にテツナは黙り込む。彼は几帳面で生真面目で頭脳明晰なのにどこか偏屈な人間だが、その反面不器用ながらも真っ直ぐな言葉を紡ぐ。そんな彼の性質を知っているからこそ、テツナは彼の情に反抗の言葉を言うことができなかった。
彼女は人からの好意や厚意に弱い人間だった。ましてやはっきりと言葉にして心配だと言われてしまえば殊更。



「黒子、お前はあの家に帰りたいか?」



人と話す時は相手の目を見て、という信条の他に、彼女には嘘をなるべく吐かないというものもあった。嘘を吐かなければ本当のことも言わない、という狡さを身につけたのは最近のことであったが、この沈黙は緑間の質問にYESと言っているのと何ら変わりない。


「沈黙は肯定として受け取るのだよ」


畳み掛けるように敢えて緑間はテツナにだって分かっていることを口にする。

口を一文字に結んでいたテツナはようやく口を開く。


「帰りたくなんかないです」


自分の感情を露わにしたその声は小さく掠れており、祈るようにか細いものだった。
そしてこの時の言葉が、止まったままだった彼女の歯車を少しずつまわし始めていた。


       憂鬱を責めろ



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