幸福は一夜おくれてやってくる | ナノ

「椿の花を見れば、僕は、きっと思い出します」

 年老いてなお、凛と冴えわたる怜悧さを滲ませる精緻な見目を備えたその人は、何かとつけてこう言う。
 椿の花が咲く頃には彼女の笑顔を、首から地面に落ちた花の終わりを見ては水化粧をしなくても抜けるように白かった棺の中の横顔を思い出すでしょう――と。

***

 差した深緋の紅は、白粉を塗らずともすべらかな白皙によく映えた。黒檀色の棺の中で、赤い花に彩られ唇に紅が色づく一方で眩暈のするほど浮き出る白い肌が、瞳を閉じた彼女の姿をより人形のように見せかけていた。
 妹の死に化粧を施したのは、他でもない僕だ。彼女が憧れだと言っていた貝紅を一つ買ってきて、小さな筆に取って優しく唇の輪郭をなぞった瞬間を、僕は死ぬまで一生忘れないだろう。薄桃色だった彼女のぴったりと閉じる花弁はすっかり色味を喪って、薄紫色と言うよりは青白く透けるようだった。やんやと勝手に僕が手入れをしていたというのに、生気をなくした唇は枯れたようにかさついていて、指先に感じたものが生命の終わりだったのだろう。
 年頃の若い娘だったというのに、いつも白い布団の上にいたせいか、彼女は殆ど化粧をしたことがない。かくいう僕も然して必要性を感じたことがなかったから、薄く白粉をはたいてみたりみなかったりといった加減だったけれど、基礎的な知識は持っている。きっと、そんな知識なんてなくとも、彼女に似合う色合いも、どの程度化粧を施せば彼女の控えめな可愛らしさの咲く顔(かんばせ)が引き立つのかも、誰よりも分かっているのは僕だろう。
 死に化粧、と言うが、僕は彼女に水化粧を施した。陶磁器のような滑らかな肌には白塗りは不要だったが、僕は彼女を嫁に出すつもりで唇に紅を添え、頬には薔薇色を咲かせた。白無垢は、死と再生の儀式だと聞いたことがある。ならば、死に逝く時に水化粧をしたって構わないだろうと思ったのだ。彼女が何処に嫁ぐかなんて、そんなことは僕だけが知っていれば良い。
 彼女は自身のことを卑下してばかりだったけれど、僕にとっては唯一無二の何ものにも代え難いうつくしいひとだった。水縹色は聡明な空の色で、瞳は天の黄玉を嵌め込んだような透いた色。柔らかく、梳けばさらりと流れる淡い色合いの長い御髪。あまりの存在感の希薄さに彼女に気付く者は殆どいなかったが、ひとたびその存在を認知してしまえば儚げな見かけによらない意志の強い瞳や、向けられる花の綻ぶような笑顔に釘づけになる。
 彼女は僕をお人形のように美しいと、自身の自慢の姉だと頬を染めて自慢げにしていたが、彼女ほどに深窓の令嬢という言葉が似合う少女はいなかっただろう。
 佳人薄命とはよく言ったものだが、見た目に反して頑なで負けず嫌いな性格とは裏腹に、彼女はとても身体が弱かった。彼女の病弱さは、見た目を裏切らなかったと言うのが正しいかもしれない。
 僕の妹――黒子テツナは十九という若さでその短い生涯を閉じた。死因は、何てことはない流行病だ。完治しないような病ではなかったが、決して健康でたくましいとは言えない彼女を蝕んだ病は、気付いた時にはとっくに手遅れだった。彼女は生まれつき肺が弱かったし、免疫力も人一倍低かった。
 帝都の喧騒と薄汚れた空気から遠く離れて、父と僕と妹の三人きりとなってしまった家庭は、海の見える静かな町で五年余りを過ごした。貴族議員をしている父が、妹の療養の為に棲まいを移したのは、僕にはとても意外に見えた。
 二階に上がれば、孤独の海が見えるその家を、僕も妹も一目見て気入った。父は帝都にいた頃のように庭師を呼ぶこともなく、広い庭をほったらかしにしていたので、庭の世話は専ら妹のするところとなった。その様相は日本庭というよりは、子どもの宝物箱のようで、春には菖蒲が、夏には朝顔と向日葵、桔梗が、秋には色とりどりの菊と芳しい薫りの金木犀が咲き、柘榴が実を割る。そしてめったに雪の降らないこの地で、彼女は一等、椿を愛した。彼女が雑多に育てた花でがらんとしていた庭は彩りに溢れており、気まぐれに生ける花のお陰で、家の中はいつでも芳しい薫りに満ちていた。
 僕が結婚したのは、妹が息を引き取って一年後のこと。中々どうして、引く手は数多だった。今までも途切れ途切れに見合いの話はあったが、妹の看病でそれどころじゃないと断っていたし、何より、妹を無碍にする男や、色目を使おうとする男は地獄より恐ろしい目に遭うのだと都市伝説さながらに噂になっているのは知っていた。魔女でもあるまいし、いくら赤司の人間と言えど、僕一人で人間をどうこう出来る力もあるはずもない。寝耳に水の噂だったが特に訂正する必要もなかった為、抑止力として野放しにしていたが、妹亡き今、その効力も無に帰した。
 まるで妹の死を待っていたかのようにやってくる縁談に、打算しか感じられないことから吐き気を覚え、鬱陶しさと浅ましさを覚える毎日。妹がいなくなってから、僕はてんで駄目な女性に為り下がった。どんなに謙遜しても、僕は出来の悪い人間ではなかったし、それははりぼてでもないつもりだったけれど、それでも僕は妹がいなければ何にもなれないちっぽけな生き物だった。何処か僕の大事な何かを蟲に食われてしまったように、喉はいつでもからからに乾いて、彼女が好きだと触れたいと言って梳いては好きなように遊ばせていた髪の毛もいつの間にか艶をなくした。
 そんな、半ば自暴自棄になっていた頃。結婚相手に選んだのは、まるで父のような、或いは自分のような男だった。それもそうだろう。彼は僕の一族の宗家の嫡男だった。
『君は貞淑で美しい夫人でいてくれさえすれば良い』
 夫となった男は開口一番にそう言った。暗にお人形でいてくれさえすれば良いのだと言われているのは直ぐ理解り、僕を愚弄する気かと頭に血が上りかけたが鎮火するのも早かった。
『美しくて気高い人だったね』
 それは妹に対する賛辞だったのだろう。僕はその一言で、夫との結婚を決めた。
 彼には書生の男が一人いて、その男を大層気にかけていた。可愛がっていた、特別目をかけていた、というよりは、寵愛していた、というのが事実だろう。書生の名は、些事に過ぎないので割愛することにする。
 書生の男が、何処か薄らと僕の妹に似ていると思ったのは気のせいではない。薄い水色の柔らかそうな頭髪に、凪いだ水晶の瞳。表情はあまりなかったが、そんなところも妹との共通点だろう。穏やかで、平凡で影の薄い男だったが、書生は、夫の隣に立っている時、いつでもしあわせを噛みしめている顔をしていた。
 夫婦となった僕たちは似た者同士だったのだろう。夫は彼を愛していたし、僕は妹を愛していた。夫とは寝室を別にしていて、妻らしい勤めを果たしたことと言えば定期的にある晩餐会に同伴する時くらいだけ。
 歪な夫婦だったかもしれないが、不幸ではなかった。
 時世柄仕方がない、それがあるべき姿なのだとわかっていても、好きでもない人間に身体を明け渡すくらいなら喉を掻き切って自害した方がましだと思うような物騒な性格をしていたから、夫のまるで仕事をする仲間のような扱いは僕にとって随分と好都合が良く、女だからといって僕を下に見ることも意見も突っぱねることもないない姿勢は、好印象に映った。僕たちは、夫婦と言うにはあまりに愛情関係が希薄で、同胞と言うに相応しかったのではないかと思う。
 ――そう、僕と夫はまるで罪を犯す共犯者だった。
 夫と僕と、書生の暮らす古き佳きを体現した武家造りの邸宅には梅と桜の木が植えてあった。書生は、見晴らしが良く西日の入るあたたかい縁側で文学に耽っていることが多い。時折、太陽のやさしいひかりが齎すぬるい微睡に落ちた彼は、柱に背を預けたまま柔らかな水縹が下瞼に影を作っていることもよくあることだった。
 彼は、庭の桜も梅も好きだったように思う。そんなところも妹に似ていた。彼も僕も多弁な方ではなかったが、年に一度しか咲かず、こぼれて散ってゆく紅白の花弁を眩しいものでも見るように色を変える瞳のそのわけを知ることなど容易い。彼も、夫も、互いをそっと見遣る時はそんな風に瞳を細めており、いつだって視線を交えずに焦がれるように背中を見つめていた。触れることを憚られるようにそっと視線を揺らがせるだけの二人を、僕は遠くから俯瞰しているだけだった。
 ある天気の良い昼下がり、僕は書生を探していた。然して込み入った用ではなく、着物を選んでもらおうと思ったのだ。本来なら夫に聞くべきところなのかもしれないが、この家の中で夫と夫婦らしい会話をしたことはないように思える。朝や就寝、帰宅の挨拶、夕餉の内容、月に一度定例となっている家の食事会のこと。夫は僕を女性として見ているというより仕事上一番身近な人物のように扱っていたから、それが居心地が良く、その関係を自分から崩すようなことはしたくはなかった。
 一方で、妹に似ていると思った書生とは二言三言、他愛もない話をすることがあった。きっかけは彼の些細な行動だったが、僕にとっては人生に於いて二つとない出来事だったように思う。
 ある、何でもない日。夫に頼まれた使いを終えて帰宅した書生に「奥さま」と呼ばれたのはその日が初めてのこと。通常運転が無表情の彼が何処か言いにくそうに、しかし努めて笑顔で「良かったら」と差し出したのは、お使いの袋とは別の古い匂いのする封筒だった。切り絵の施してある小奇麗な封筒の中には、見覚えのある花模様の栞が入っていた。
 妹が元気だった頃に使っていた、花模様の施してある螺鈿の帯留め。彼女が死んでから、馬鹿の一つ覚えのように肌身離さず使っていたその帯留めの模様と、その栞に描かれている花は良く似ていた。何の返事もせずただ立ち尽くす僕に、機嫌を損ねたのかと勘違いした書生の「気に入らなかったら捨てて下さい」という言葉もよく聞かず、僕はぼろりと大粒の涙をこぼした。「ボクがいなくなったら、これ、使って下さいね」と幼い頃に母から贈られた揃いの帯留めの片方を僕に握らせた妹の笑顔に、書生の笑顔が重なって、妹が浮き世を去ってから初めて泣いた。母を亡くした時も流れなかった、既に枯れたと思われた涙が滂沱として頬を滑り落ちる。書生は、僕の涙を拭おうと一瞬手を伸ばし、宙で取りやめると彷徨ったまま白い指先を下ろした。「旦那さまにはお休みになったとお伝えしておきますね」と、かけられた声は赤子をあやすような温度で。噛み殺した嗚咽に阻まれて返事をすることは叶わなかったが、栞を握ったまましゃがみこむ僕が小さく頷いたのが分かったらしい。彼は音を立てぬように襖を閉めて、さめざめと暗涙に咽ぶ僕をそっと置き去りにした。
 それからだった。僕は気まぐれに彼に話しかけることが増えた。晩餐会の着物選び。どうしても分からない小説の表現。書生と話していると夫はひっそりと不機嫌になるのを知っていたから、夫が仕事でいない時に、二・三日に一度、ぽつりぽつりと話す程度の仲。雨が降りそうだから傘を持って行って下さいね、とかけられた声はどこかこそばゆくて、僕は友人ができたような気がしていた。夫は書生と僕が会話するのを阻む為か、僕の着物を選んだり、これを着なさいと高い着物を沢山買ってくることもあった。妻を書生に取られない為ではない。僕に書生を取られたくないからだった。
 夫は、不器用な人間だった。書生を肌身離さず手元に置き、人目につかぬよう、余計な虫が湧かぬよう、また夫の元から飛んで行ってしまわぬよう、鳥籠に囲うようにして目に見えぬ枷をつけて拘束している癖に、彼を扱う態度はあくまで事務的でまるで奴隷か何かに命令するようだった。その様子は、宝物を大切にし過ぎるあまり、壊してしまう子どものようで。赤司家が始まって以来の鬼才と呼ばれ、神の申し子だ寵児だと畏れ崇められ、何の障害もなく赤司家当主に就いた男の、唯一どうすることもできない、どう接して良いかわからない、或いは、生涯勝つことのできない存在が、かの書生だったのだろう。
 夫の隣に立つ時どんな着物を纏えば調和を保つことができるのか熟知しているのは、書生だった。夫も、僕も、遠縁とはいえ血が繋がっている。二人とも紛れもない赤司の人間だから仕方ないといえばそうなのだが、血の濃さが違うというのに実の妹よりもよっぽど僕と夫は性格も外見も似通っていた。同属嫌悪という言葉があるように、本能はつがいに遠い遺伝子を選ぶようにできているし、性質の近い、または同じくしたものは相反するように出来ている。
 自画自賛ではないが、自身の外見は、当代きっての美丈夫と言われた夫の隣に並ぼうとも遜色ないものだと把握している。思い上がりでも驕心でも自惚れでもなく、客観的な意見だ。しかし、薔薇と百合が隣同士で並んでも馴染むことはない。同じ極の磁石が弾き合うことのないよう、簪や着物で引き算をしなくてはならない。自分で選んだとしても親族にちぐはぐな印象を与えたり、浮いた夫婦に映るようなヘマをするつもりは毛頭なかったが、気まぐれに僕は書生に着物を選んでもらうことが多かった。
 桔梗色に大輪の白菊模様か、藍色に映える牡丹模様か、二つの着物を持って縁側に出てみれば目当ての水色が見つかる。飛び込んできた薄く淡い色に声をかけようとして、やめた。
 いつものように特等席の柱に背を預け、先日買って来たばかりの読みかけの詩集を手にしたまま眠りこける書生。その風景は然程珍しいものではなかったが、喉まで出かかった呼び声を止めるに至らせた理由は、傍らに胡坐をかいて座っている夫の存在だった。
 夫は、何をするわけでもなくまんじりともせずに庭に咲いた梅を見上げていた。書生の背は柱に、寝ぐせのつきやすい柔らかな絹糸は夫の右肩に凭れかかっている。後ろからではどんな寝顔をしているのか判別はつかなかったが、きっといつかこの世を去った妹と同じような安らかな顔をしているのだろう。
 今更だったが音を立てぬようにして、畳の上に足袋を滑らせようとして目を瞠る。ぶわりと吹いた花信風。そよぐような、春の芽吹きが、梅の花弁を舞い上がらせる。一点の曇りもない青空に、紅梅色が大きな雪のように降り注いだ。はらはらと舞い落ちる花弁は、そのまま春風に揺られて障子を開け放した室内にも入り込んで来る。縁側で並ぶ二人にも当然花吹雪は降り散り、燃える蘇芳と朧に淡い白藍に生命の彩りを与えた。

「……世の中は恋繁しゑやかくしあらば梅の花にもならましものを」
 ふと、夫の手が書生へと伸びる。一度逡巡したあと、ゆっくり、壊れ物に触れるように勿忘草色を梳いた。それはいつか僕が妹の絹糸に櫛を通した時のようで、夫は慎重に、まるで儀式か何かのようにそっと触れる。ぽとりと、萼を崩さない花を保ったままの梅が強めの風に煽られて縁側までやってきた。彼はそれを一瞥すると書生の耳の辺りに挿し込んでやった。
 夫はやはり、不器用で素直ではない人間だった。そんなことは、彼が起きている時に言ってやれば良いのに、彼は言葉でも態度でも何をも示そうとしない。喪ってからでは遅いのだと、どれほど喉の先まで出かかったことだろう。それでも、僕はそれを口に出すことはしなかった。夫と、彼の世界は、二人で完結している。そこに僕が口を挟む権利も、意味も、何処にもありやしない。
 書生は、夫の指先がくすぐったかったのか、ゆっくりときらびやかな宝珠を嵌め込んだ眼窩を開く。いつも無表情に見える書生は、夫に接する時だけ頬がほんの少し色づいて見えた。妙齢の二人の男性がしている仕種は、秘密を語らう少女のようでもあったにも関わらず、それを気持ち悪いとは、一度(ひとたび)たりも思わなかった。
 夫の、仮面を被ったかのような能面の笑顔と、いっそ腹立たしいくらい完璧な頭脳が生み出す口上が崩れるのは、書生が垣間見せる笑みの一瞬だけ。書生の織りなす綻びは、男ながら花と言って差し支えないだろう。
 二人の寄り添う寂寞の時間を、僕はシネマのエンドロールか何かのようにぼんやりと見つめていた。







 歪つでふしあわせではない生活。三人で暮らした不格好で中途半端なしあわせの生活は、五年と保たず崩壊を辿ることとなった。
 夫が、自殺を図ったからだった。
 心中したのだと僕に伝えたのは、夫が気に入らないと入れ替わり立ち替わり変えてばかりのために新しくやって来たばかりだった、結婚してから数えて十五人目の家政婦の一人。血相を変えて慌てふためくばかりの彼女を他所に、僕は何処か他人事のように、夫と書生がよく一緒に並んでいた縁側を見つめるだけだった。
 夫と僕が結婚した時ですら各新聞社は『赤司家当主の結婚』と、連日報道をしていたけれど、心中となればその比ではない。皆の好奇心を煽り、また挙って確かめようとしたのは、勿論心中の相手に違いなかった。娼婦か情婦かと皆がまことしやかに噂したが、結局『赤司』という家が事実を隠蔽し、どんな真実も大衆の元へ晒されず仕舞い。
 しかし、僕は知っていた。誰に教えられずとも、知っていた。当然だろう。形だけと言えど、僕は夫の妻であり、良き理解者で、共犯者であったのだから。彼が入水自殺を図ったのだと知らせが入った時、僕は驚くわけでも騒ぎ立てるわけでも涙を流すわけでもなく、ただ「ああ、その時が来たのか」と冷静に納得してしまった。そして、告げられるべくもなく誰と共に入水したのか、僕には理解っていた。
 二人は一命を取り留めたが、一族の恥晒しとして赤司家から絶縁されることは想像に難くなかったし事実そうなった。分からなかったのは、夫であった人が何処へ行ったかくらいなものだった。
 当然、共犯者として過ごした夫婦の契約も白紙となり、僕は離縁して家に戻ることに他なかった。
 父と、妹と、三人で過ごしたあの海の見える家は、妹がいないというだけであまりに殺風景過ぎる。それもそのはずだった。妹が世話をしていた花は死に絶え、いつか溢れていた花の薫りなど微塵も感じられない荒れた様の部屋。妹の身体に障らぬようにと埃一つなく磨かれていた床もなにもかもが夢か幻のようだった。
 出戻り。そう言われて仕方がない、と決意して漸く戻ってきた家に父はいた。純日本家屋この家の、そこだけぽつりと浮くように居間に置かれたソファへうなだれるようにして座っていた父は随分と老け込んでやつれた様に見える。古しい臙脂色をした鞣し皮で出来ているソファは、今は亡き妹が珍しく我が儘を言って購入したものだ。縁は所々縄模様の金が施されているが、長い間磨かれることもなかったそこは鈍い色になっており、あの子がいなくなって随分経ったのだと改めて思い知る。
 どう声をかけるべきか迷い、思案していると、閉じていた瞳が開かれて僕の存在を見つける。ゆったりと父は瞠目して、そうしてとうとう父の方から口を開くことはなかった。
「戻って、参りました」
「……そうか」
 父には、何の感慨もなかったように思う。結婚に失敗したのだと責められるでもなく、嘲笑われるわけでもなく、そうか、と。ただ一言。それしか言わなかった。
「お前も、私も、結局ひとりになってしまった」
 あの子のようにすれば良かったのだろうか、と誰に問うわけでもない疑問を、父は外を見遣りながら溢す。あの子とは誰なのか、僕は聞かなかった。
 父と妹は似ても似つかないと思っていたけれど、窓から見える凪いだ海を見つめる視線の柔らかさから、初めて父から妹の面影を見つけていた。父があの時何を思っていたのか、僕は知らない。

***


『あふれて こぼれて ぽとりとおちる きみのはきだす しろいいき』
 もう長くないでしょう。百日もつかどうか。そんな医者の言葉が頭の中で何度も何度も響いていた。手の施しようがないのだと言われてそれでも医者なのかと詰りたくなったが、それはお門違いな怒りなのだということくらいは弁えている。力なくおろした拳がどんなに無力だったことか、思い出しても意味がない。
 百日が経っても、彼女は冥府への切符は手にしなかった。もしかして医者の言葉は誤診で彼女は寿命を全うするのではないか、と抱いた思いは、期待というよりはただの淡い甘い妄想に過ぎないだろう。握った手首の細さに、昨年一緒に手を引いて歩いた野山の新緑や紅葉を思い出して、泣きたくなった。眩しい緑も、鮮やかな椛の絨毯も、何も要らない。水色以外の色が、目をちかちかと刺すように痛みを植え付けるようで、目を閉じて暗い所に閉じ籠っていたかった。
「赤司君はお嫁に行かないんですか」
 僕は有耶無耶な笑みを浮かべて、歌うような声の問いに答えない。
 笑ったり歌ったりしながらも、手を握り返す力が日増しに弱くなってゆく寝たきりのこの子を置いて、一体何処へ嫁入りするというのか。ハチドリのように囁き歌ったり、到底考えも及ばない冗談を言ったり、わかりにくい様子で僕に甘えたり、これがあと幾ばくかの日々に死に絶えるのだと思えば、叫んで頭を掻き毟って、裸足で砂利の中を走って何も分からない知らない場所へ迷い込んでしまいたかった。
 ドォン、ドォン、と。答えあぐねる僕に耐えかねたように外からけたたましい音がする。命を奪う音だった。無情な鈍く重たい恐ろしい音を聞いて、あまり身長は変わらないのに少しだけ小さく白い指先が、僕の着物の袂を握る。棒きれのようにか細い指は、細雪のように小さく震えていた。低い温度のそれに体温を分け与えるように、此処に僕がいるのだと伝える為に、一回りも二回りも小さくなったてのひらを両手で包んだ。
「不吉な、地獄の太鼓の音です」
 響いて揺れて、轟くような鈍い振動を不吉な音だと、彼女は揃いの宝石を閉じてそう言った。
「地の底から、幽かに、それでも大きな振れ幅で響くおどろおどろしい音を、地獄からの音以外に何と形容しましょう」
 彼女は諦めが悪い。裏を返せばそれは、一つの物事に対して真摯に取り組み、どんなに挫けそうになっても負けずに立ち向かうことができる粘り強さでもある。しかし彼女にしては珍しく、何もかもを放り出すような諦念を滲ませて言葉を紡いだ。
「……こんな時代でなければ、ボクも恋の一つや二つ、成就させることができたでしょうか」
 続きを聞き逃さないように、じ、と彼女を見ていたが、とうとう先の言葉は聞くことはできなかった。勿忘草のように儚げな見た目からは想像できないほどに、頑固で、逸る激情をも持ちえる彼女だが、憎々しげな声が発せられることは稀有なことだった。

 恋。

 彼女も身を焦がすような熱を浴びながら、誰かに愛を囁きたかったのだろうか。はしたなくても良いから、いとしいとしと愛と伝えてみたかったものです、と。感情の籠らぬ平坦な調子の彼女の声を、何処か遠い眼差しをしながら、聞いていた。
「赤司君、」
 彼女は僕のことを赤司君と呼ぶ。正真正銘彼女と僕は双子の姉妹で、僕が彼女の姉であることは変えることのできない事実だ。何かと付けて、彼女は僕のことを自慢の姉だと言って見せたが、その割には僕の存在を血肉を分けた姉だと認めることに苦慮していたように思う。
 彼女は僕の実妹にも関わらず、苗字が違った。僕は赤司で、彼女は黒子。だから、女学校に通っていた頃の出席番号も、僕と彼女の数字は連なることは一度もなかった。



 彼女の苗字が僕と同じものではない理由はただ一つ、彼女が養子に出されたからだった。
 古い慣習に囚われた強大な家という柵(しがらみ)によって、幼い頃に離れ離れになった僕たち。大げさぶって言ってみたが、理由は至極簡単な話で、双子は不吉だ、という古臭く何処にも根拠のないあまりに保守的で旧家らしい理由だった。生まれた時から僕に比べて身体が弱く、吹けば消えてしまいそうな小さな命は、そんな馬鹿げた理由で黒子家に養子に出された。
 外部からおかしな情報を吹き込まれぬようにと、物心付く前からお互い血を分けた姉妹がこの世に存在していることは知っていたし、黒子を養子に出すことを最後まで渋り、手放そうとしなかった母のこともあって頻繁に顔を合わせていた僕たちは、例え苗字が違えど姉妹として過ごすことに何の齟齬も違和感も抱かなかった。女学校でも一緒のクラスだったし、別の家に帰るまで同じ時を過ごすことが多かった。
 しかし、それも母が亡くなるまでの話だった。母の死と同時に、養子に出された籍はそのままに、勉学に励むには赤司の家にいた方が良いなどという取ってつけたような表向きの理由で妹は赤司家に帰って来た。
 赤司家に嫁ぎ出来の良い男児を、と望まれた母は、その無理矢理にも近い形で押し付けられた役目を果たすことは出来なかった。それは母の身体が弱かったことが理由だ。
 生まれたのは、双子の女児。
 堅苦しいあまりにも凝り固まった思考回路しか持たない有象無象の親族は、陰で母を形容しがたい下劣な言葉でぼそぼそと謗り詰った。旧く重苦しい家が忌む双子を産んだこと、女児であったこと、これ以上は子を望めるような状態ではないこと、身体が弱く夜会や会食に中々同伴することができないこと、そして身体の弱い黒子を産んだこと。
 赤司という古くあまりに保守的で強大な家に嫁いだ以上覚悟していただろう中傷には、やはり妬(ねた)みや嫉(そね)みも混じっていた。父の隣に立っていても引けをとらない大輪の花が咲き誇るような容姿、聡明で純朴な凪いだ性格。人当たりの良い柔らかな物腰に、どんな身分の家柄の者に対しても感謝とあいさつを忘れない実直さ。お琴、ピアノ、華道、茶道、ほんのちょっとした日本舞踊に書道。身体は強くはなかったが、決して運動神経も悪くなかった母はまさに文武両道・才色兼備な女性だったことだろう。
 母は、あなたはあなたのままで良いのよ、といつも寂しげに微笑んでいたが、僕は美しく優しくあたたかな母の為に、どんな良家の嫡男にも、赤司という家の重圧にも、何事にも負けぬよう、いつだって背筋を伸ばしていたかった。
 僕は、外見は母譲りでも、性格は父譲りだった。認めたくなくても、僕の性質はそっくりそのまま赤司の家を受け継いでいるだろう。それでも、心は、感情だけは、赤司という家に染まりたくなかった。
 母が、そして同じ遺伝子を持つ黒子が、赤司なんていう家の名前よりも、僕にとって何よりも誇りだった。
 彼女が苗字を違えたままこの赤司家にいる理由は、一重に父の我儘に過ぎない。母が死んで、父は黒子を赤司という家にもう一度連れて帰って来た。葬儀の後、母の亡き骸が納められた黒塗りの棺の前に正座して動かない黒子に、父は何の温度も、感慨も、抑揚もなく言った言葉を、僕ははっきりと覚えている。
『戻ってきなさい』
 その言葉は、まるで明日遊びにおいで、と自宅に招待するかのような気軽さだった。父は彼女にとっても僕にとっても重くのしかかるその言葉を簡単に言ってのけた。今更だとか、妹が今までどんな思いをしてきたのかとか、母を看取れなかった彼女の気持ちを考えたことがあるのかとか。津波か何かのように押し寄せる感情の波に囚われて思わず立ち上がってしまった僕を押し留めたのは紛れもない妹自身で。すっと立ち上がり、涙も何も浮かべず、人形のように表情のない白い顔(かんばせ)を何一つ変えることもなく。妹は承知しました、と一言だけ伝えた。
 父は、母によく似た――というより生き写しの外見を持つ僕を直視するのが辛かったのかもしれない。
「ボクのお願いを聞いてくれますか」
 閉じていた硝子玉をゆっくりと開いて、彼女は曖昧な笑みを浮かべながらこちらを見遣る。甘え下手な彼女のお願いごと。僕はどんなことをしたって彼女の望みを叶えるだろう。なあに、とするりと優しく出てきた、甘やかすような色の答えの先にあった彼女の言葉に、僕は喉を凍らせた。
「ボクが死んだら、椿の花を棺に入れて下さい」
「……そんな縁起でもないことを、」
「貯金してあったんです。君ならきっと、そんなことも全部お見通しだったんでしょうね。ね、ボクの顔が埋もれてしまうくらいに、たくさん入れて下さい。椿は首からぼとりと落ちてしまうから不吉だと言われるようですが、どうしても椿が良いんです」
「……どうして、」
「どうしてって、わからないんですか」
「聞いたことがない話を見通せるような力を持った覚えはないよ」
「……君って頭が良いのに時々鈍いですよね」
 白妙の上で、彼女は呆れたように笑う。僕にそんなことを言えるのは、きっとこの世界でこの子だけだ。
「姉さん」
 小鳥の囀りのようなソプラノが、僕を姉と呼んだ。胸の内で、焦燥が波を立てて暴れ出す。その先の言葉を聞きたくないと、僕は予感を感じ取るように警報を受け止めるが、指一つ動かすこともできず、彼女の言葉に耳を欹てることしかできなかった。
「君はなんでもできる人なのに、歌を詠むのだけは本当に下手くそでしたね」
 心臓がどくりと一つ、早鐘を打つ。
「あの、赤い紐で留められた手紙を読んだのでしょう」
「何の、ことかな」
「『あふれて こぼれて ぽとりとおちる きみのはきだす しろいいき』ふふ、これは何を詠んだ歌ですか?」
「っ、」
 妹の前では、僕は形無しだ。彼女は、何でも僕のことを見通してしまう。どんなものを持っていても、どんなに能力が秀でていても、本当の意味で、僕は彼女に勝つことができない。
「ねえ、姉さん、」
 妹の着物の衣替えをしている時に、箪笥の奥底から見つけてしまったのだ。封のされていない、誰ともわからぬ宛先のない幾通もの手紙。真っ赤な紅の紐で、封を閉じる代わりのようにきっちりと蝶結びにされていたそれ。いけないこととわかっていながら、好奇心を、穢い独占欲を、押えることができなかった。僕は、我慾に勝つことができず、大罪の一つの欲求のままに、彼女のこころを暴いた。

 恋文。

 彼女は僕の知らないところで恋をしていた。完璧で美しい人だと、学もあり、美術や伝統といった教養も持ち合わせている弁の立つ人だと書いてあった手紙。幾つもの封筒の中に入っていた便箋はいつも四枚。日々の暮らしで見つけた些細な喜びや、好きなシネマのこと、やさしかった母の話、そして手紙の宛人へのちいさく慎ましい可愛らしい恋心が懇々と書き連ねてあった。切手も宛先もない手紙は、出されることもなく、丁寧に赤い紐で蝶結びにして箪笥の一番下の一目につかないところに隠すように仕舞ってあった。彼女は僕に秘密なんて作らないと思っていた。ずっと僕だけの妹なのだと、彼女は僕だけの妹の清らかな躯のまま、朽ちてゆくのだと勝手に信じて疑っていなかった
「ボクは椿の花が、好きですよ」
 全てが明るみに出てしまうことはきっとないはずだったのに。字だって、自分のものだとは悟られぬように彼女にひっそりと懸想していた数人の男の字を何度もなぞり、不自然のないように少しずつ混ぜ組み合わせたものを練習した。どこにも僕の字に似ている要素などありはしない。彼女に「赤司君の匂いが好きなんですよ」と公園の長腰かけで言われたことを思い出して、匂いが移らぬよう、便せんも封筒も新品を買ってきた。
「君が何を勘違いしたのか分かりませんが、ボクには意中の男性なんていません」
「だって、あの手紙は」
「君って人は、本当に鈍いですね」
「……お前だけだよ、僕にそんなことを言うのは」
「ボクは、心配なんです」
 君を遺していくこと、本当に心配なんです。彼女は窓を見遣りながら白い布団の上に放り出した細い手を組んでぽつりと言う。一見茫洋として見えるまあるい瞳は、何を見る時もよく観察して本質を見抜いた。よくよく見れば芯の強さと生来の頑固さが見え透ける水晶の双眸は、今は遠くの空に想いを馳せるようにじっと耐えるように一点を見つめ続ける。
「君は意地っ張りだから」
「…意固地なのはお前も同じだろう」
「もう、君は本当に頑固ですね」
 ものは言いようだった。言葉遊びをしているに過ぎない。僕には何事に於いても勝つことが出来ないと、周囲の人々も彼女自身も評価するけれど、殊、手遊(すさ)びに行われる取りとめのない言葉の応酬においては負けず劣らずだった。そもそも、本質的な意味で、僕はいつも彼女に負けっぱなしなのだ。
「本当に本当に、心配なんですよ」
 水晶のように透き通った瞳がやさしく柔らかい弧を描く。見つめる先は、空でも、白の敷妙でも、彼女の代わりに絶やさないようにしていた花でもない。困ったようにわらう彼女の視線の往く先は他の何でもなく、僕だった。
「君は、頭が良くて、誰よりも美しくて、何よりも代え難い大切な人です」
 ああ、でも、君は全然完璧な人じゃないですね。
 鈴の音がりんと鳴るように、彼女は笑った。
「君はボクがいないと何もできない困った人です」
 世間では僕のことを何でも出来る人間だと、優秀な人間だと褒め崇めるけれど、何でも出来るなんて、そんなのは幻想だ。何でも出来るなら、彼女の病気を治しただろう。黙って、彼女が一日一日、日を重ねるごとに弱っていく様子をじっと見つめ続けていることしかできないなんて、そんな人間がどうして何でも出来る人間だというのだろう。
「赤司君、泣かないで」
 やさしいソプラノが囁いて、痩せ細びた白い手が、いつの間にか流れ出した涙を拭う。代謝も基礎体温も血圧も、何もかも低い彼女の手はいつだってひやりとしていたが、頬に触れた指先はいつにもまして氷のように冷え切っていた。足音を立てて、彼女命が秒刻みに喪われているのだと分かっても、それを真正面から受け入れる強さなど、僕は持ち合わせていない。
 どうして、なんて泣くことに理由は必要だろうか。君が言ったんじゃないか。泣きたいときは泣いて良いんですよ、と僕に教えてくれたのは、君じゃないか。
「――、テツナ、いかないで」
「……やっと、名前を呼んでくれましたね」
 金魚の呼吸が水槽の泡に帰すように、ぽつりと落ちる言葉をすべて一つ残らず掬い取り逃すことのないように耳を澄ます。
 忘れたくないと思った。永遠なんて、悠久なんて信じちゃいやしないけれど、それでも刹那に願ったのは、時を止めること――いや、この時間を小さな箱に納めて取っておくことだろう。
 貝殻に耳を欹てて波の音を反芻するように、僕は滑り落ちていく砂時計の砂を、糊で固めて留めてしまいたかった。今この一瞬が、ずっと続けば良いのにと思いながら、それでは一瞬ではないのだと、僕が望むものではないのだと識っていた。
 喉まで出かかった「遺して逝くのは君だろう」という言葉は、逆流した胃液を飲み下したように、喉をつっかえさせて、つんと鼻が痛かった。
「ねえ、赤司君」
 もう、願いは叶ってしまったから、迷わず逝くことができます、と奏でたソプラノは、聞こえなかったことにした。彼女がどんな表情で言葉を紡いだのか、ぼやけ滲んだ視界では確認することができなくて本当のところは今でも分からず仕舞いだけれど、凪いだ音階で憶測することくらいは出来る。僕は誰よりも何よりも彼女を知っているつもりだから、きっと脳裏に思い描いた彼女の微笑みは寸分違わないだろう。
 紅髪が揺れる。彼女は僕に構わず、君の髪は本当に美しいですね、と言って三つ編みを作っていた。
 遠くで、幻聴のように地獄の太鼓の音が聴こえていた。



 ――はじめて筆をとったので、緊張している僕を君は笑うでしょうか。突然お手紙差し上げることをお許し下さい。どんな傲慢と、自己満足と理解っていても、僕は君に伝えたいことがあったのです。伝えなければいけないことがあったのです。君は僕のことを完璧でなんでもできる人間だと思っているようですが、先に謝罪致します。僕はそんな素晴らしい、全知全能の神のような人間ではありませんでした。僕は貧しく、無能な人間であります。貧しいというのは、経済のことを言っているのではありません。心が、貧しいのです。気持ち悪いと思われるかもしれませんが、僕は君のことをずっと見ていました。君のことを一日も思い出さない日は、夢に見ない日はありませんでした。それほどに、君をずっと思っていました。僕は、君をどうしてあげることもできません。なんでもできる人間なのであれば、君の御病気も、身体が弱いことも、全て取り除いてしあわせにして差し上げたかった。しかし、僕は何をすることもできない無力な人間でありました。君の不幸を全部取り除いて、花の溢れる、鳥のうららかな囀りを聞く毎日を贈って差し上げたかった。されども、僕にはそれが実行するだけの力も、何も、持ち合わせていないのです。君の不幸が大きくなればなるほど、そうして僕の愛情が深くなればなるほど、僕は君に近づきにくくなるのです。ご存じだったでしょうか。僕がずっと君を見ていたことを。君の真っ直ぐな視線が好きでした。白く抜けるような肌に、薔薇のような桃色が広がって、咲き誇る聡明な笑顔が好きでした。海を映したような空の青さを見つめる、凪いだ瞳が好きでした。君は空が海に似ていると思うでしょうか。海が空に似ていると思うでしょうか。一度、君の答えを訊いてみたかった。僕は、君の為に、完璧な人間になりたかった。しかし、それはただの利己的な感情に過ぎないでしょう。僕は少し、いや、多大に後悔しているのです。恰好つけたりせずに、君に逢いに行ってこの胸の内に在る感情を、伝えれば良かったのだと。愛には、美しい生き方が必要でしょうか。その感情に向き合うこと以上に、大切なことがありましょうか。僕は、毎日君に花を贈ります。たくさん贈ることはできませんが、毎日一輪ずつ、君の知らない花を贈りたい。きっと神様は見ていて下さるでしょう。ただ一切が上手くいくように、君が日々の生活を健やかに笑顔で過ごせるように、僕は君に花を贈ります。いつか訊いてみたいのです。君は何の花が一番好きですか、と。

 あふれて こぼれて ぽとりとおちる きみのはきだす しろいいき

 無力を呪っても仕方がないと気づきました。何一つできぬ自分を責めるよりも、僕は君の日々のしあわせに尽力したいと思いました。では、また明日。今日もきっと良い日になります。僕は君を愛しています。


【初出:2015.03.02 葉桜と魔笛のパロ】