last summer | ナノ

【もうあの夏はやってこない】

 夜が明ける瞬間の、不思議な感覚のこと。日の光に瞼を射され、覚醒を促される時は上手く言い表すことのできない感情が溢れだす。朝は、きっと清らかな美しさに溢れているのだろう。睡眠を通して、きっと人間はほんの少し生まれ変わる。昼間受けた濁ったものや、自己の中で生み出した醜いものや薄暗い上澄み、そんなものを太陽から受ける日差しが浄化してくれるのではないだろうか。
 しかし、赤司の朝はいつからか憂鬱で厭世的だった。いつからか、といった曖昧な表現は相応しくないだろう。的確に時期を告げるなら、初めての敗北を知った日。あの日から後悔と言えば良いのか、懺悔と言えば良いのか。決してプラスになり得ない感情が朝から噴き出して留まることを知らない。赤司は、自分が世界で一番醜い生き物で不要な存在なのだと思っていた。誰も彼もを傷つけたし、敗者など取るに足らないものとして踏み越えて、寧ろ蹂躙するかのごとくその屍の上に立って来た。敗北は死だと、生命活動の終わりなのだと信じて疑わなかった。それが赤司にとっての自明の理であることは間違いないはずだと思っていた。しかしながら、敗北を受けて赤司が死ぬことはなかったし、黒子も、もう一人の赤司さえももう一人の赤司が彼岸の向こうに渡ることを良しとはしなかった。鬱金色の瞳を持つ彼には、そのことが不思議でならなかったのだ。勝利の為だけに生まれてきた赤司にとって、敗北を知った以上もう不要な存在であるはず自分が生かされていることが、全く理解できなかった。“赤司征十郎”の人生に黒星をつけた彼自身が、平然と生を享受することは、罪だとすら思っていた。

 あの後事切れたように眠りに落ちた赤司は、揺蕩うような浮遊感を味わい眠りの端に足を引っ掛けたまま布団の中で覚醒する。黒子に抱きしめられたままの体勢で目が覚めて、彼の細いが少し筋肉のついている腕の中からそっと抜け出した。締め切った障子から薄明かりが漏れている。
朝。こんな風に穏やかな気持ちで起きる朝は約一ヶ月ぶりだった。一つの波紋もない、嵐が過ぎ去ったあとの凪いだ海のようなこころ。ゆったりとした、穏やかでやさしい朝だった。曇りも澱みもない、澄んだ空気が肺を支配している。呼吸をすると、黒子から赤司と似たような匂いがするのは、昨日同じシャンプーを使ったからだろう。同じシャンプーで洗髪したとしても、二人の匂いは全く同じにはならない。それは二人が違う人間だと言うことを嫌でも突きつけてくる。一つになってしまえたらいいと思ったこともあった。誰もいない水底で、二人でいられたらいいとすら思った。それが逃げに他ならないことは分かっていたし、きっと望みを口にすれば黒子が叶えてくれるのだろうということもよくわかっていてここまでやってきたのだが、それも過去のものでしかない。昏く、烟って全く見えなかった目の前だったのに、嘘のように視界が開けて冷たさはどこかに行ってしまっていた。
ずれた掛け布団から冷気が入ってきたのか、黒子が身じろぎする。腕の中の体温がないことに漸く気付いたようで、薄い瞼をぴくぴくと震わせながら水晶の瞳が顔を出した。赤司が丁寧に乾かしたから、普段よりは幾分かましにはなっているが、それでも寝ぐせは爆発している。眠い目をこすってどうにか瞼をこじ開けると黒子はぼんやりとした視線で赤司を捉える。

「さむい、です」
「その前に言うことがあるだろう」
「おはよう、ございます」
「ん、おはよう」

 虚無も濁りもない、健康な朝だった。

****

 世話になった女将さんになけなしのお金を渡そうとして断られた二人。子どもはそんなこと気にしなくていいんだから、ゴールデンウィークにでも家族と泊まりにおいで、と頭を撫でられて、黒子はじゃあ今度は二人で正式に泊まりに来ます、と意気揚々と答えた。女将さんは驚いたような顔を一瞬したものの、どうぞご贔屓に、と頭を下げるものだから、二人は顔をあげてもらうことに必死になった。
たくさんの感謝を告げて、民宿を後にする。女将さんはずっと赤司と黒子の影が小さくなるまで手を振っていて、二人は顔を見合わせて小さく笑った。

昨日歩いた道を辿り直す。時間が違えば雲の流れも空の色も海の匂いも違う。眠りから醒めた町の表情は昨日とがらりと変わっていて、もう黄昏や宵闇に隠れることはない。
一駅歩いてみよう、という赤司の気まぐれを断る理由もなくて、二人はコンクリート越しに海を見ながら散歩するように帰路を楽しむ。
郊外の一駅はかなり距離がある。潮風は依然冷たいが、夜の凍てつくような寒さに比べればなんてことはなかった。冬の風が肌を刺して、二人揃って林檎のように赤く染まる頬と鼻頭。吐き出す息は白くて、緑の彼がマスクをしていたら眼鏡が曇ってしまいそうだとわけのわけのわからない話をしてくすくすと笑みが漏れる。
朝でもない昼でもない正午前の中途半端な時間の為か、歩いている人を見かけることもなく、車通りも随分と少ない。時間がゆっくりとのんびり流れているような気がした。まるで冬眠からさめた生き物が、春のあたたかさが満ちるのを待っているような時間の流れ。ウミネコの鳴き声と、波の音だけの、硬すぎない静けさが心地よい。気まずく感じることのない穏やかな静寂を破るように遠くからエンジンの音が聞こえてきて、今日初めて見る車だなあと黒子が思っていると、誰が見ても一目で高級車だと分かる黒塗りの車が二人の目の前に止まる。隣にいた赤司がほんの少し肩を強張らせたのがわかった。

「父さん」

 誰が何を言わなくともわかる。車から降りてきたのは赤司の父だった。磨かれた黒い靴のつま先が光っている。二人は、誰に言われるでもなくいつの間にか立ち止まっていた。彼は、自分の息子の前に立ちはだかるようにしてやってくると、誰にもわからないように身を硬くした息子の頬を言葉もなく打った。ぴしゃりと良い音がして、赤司本人は打たれた方向へと顔を俯ける。黒子には全ての動きがスローモーションに見えて何も言うことが出来なかった。しかし、持ち前の観察眼のおかげか、一部始終の動きが目に焼き付いて離れない。きっちり着こなしたスーツが少しだけ乱れている気がしたのは黒子の気のせいではないだろう。

「…満足ですか」

 ぽつりと落とされた赤司の言葉に、返事はなかった。

「赤司の人間として、恥のないよう生きていくつもりです。しかし、もう、拘るのはやめました」
「…何が言いたい」
「自分を殺して生きていくことと、赤司の名を背負って生きていくことは同義ではないことに気づきました」

 確固たる意思表明だった。自我と、自己。己のあり方と方針を揺るぎない強さで言葉にする。赤司のはっきりとした”自分自身”の言葉に、赤司の父は言葉を詰まらせた。

「…お前は何だって期待以上の結果で返してきたな」
「…そのつもりです」
「その証拠に今までやってきたことは全て勝利を収めてきた。お前にできることなら沢山ある。得意なことだって星の数以上だ」
「父さん?」
「…それならバスケを無理に続けなくてもいいと思った。他にもお前が苦しまずに続けられるものはたくさんあると思った」
「何を、」
「私に、認めてもらうためにバスケを続けようとするなら、続けなくてもいい」
「、っ」
「…だが、それは私の思い違いだったんだな」
「え、」
「好きにしなさい」
「父さん、」
「あまり心配はかけるな」

 中途半端な長さの前髪が、俯いているせいで赤司の表情を隠している。父の言葉に、赤司は勢いよく顔をあげた。そこには驚愕だけがありありと表れていて、全ての事象において先を読んで行動する赤司らしくない行動だった。理解が追いついていないといった息子を構うことなく、赤司の父はそれ以上声をかけずに踵を返す。

「父さん!」

 引きとめるように、赤司は父を呼ぶ。半ば叫ぶようにして上げた声は衝動的だった。息子の声にこたえるようにして、赤司の父は一瞬足を止めてこちらを振り返る。

「僕は、」
「オレは、バスケをやめません」
「…好きに生きなさい。私から言えるのはそれだけだ」

 言葉少なに返した言葉が、赤司の父にとって答えの全てだった。車に乗り込んだ彼は、扉を閉めることなく息子ではなく黒子を見遣ると引き結んでいた口を躊躇うようにして開く。

「息子のわがままに付きあわせて悪かったね」
「ボクは、息子さんを誑かした男ですよ」

 黒子がおかしそうに笑ってそう答えると、赤司の父は厳しそうな表情を緩めるどころか鳩が豆鉄砲でも食らったような顔になった。誘拐犯黒子テツヤです、どうぞ警察に突き出して下さい。黒子の微笑みは、自白する犯人にしてはあまりに清々しすぎた。狂言誘拐だと、思われても黒子は一向に構いはしなかった。所詮二人の逃避行など、お遊びにしかならないことなど最初からわかり切っている。おままごとのつもりなど、二人には微塵もなかったが、結果としてそうなるのは見えていたしどんな大人の視点から見たってそうとしか映らないだろう。何処へだって行けると思っていたのは、本心だがこの死体探しの旅には終わりがあることをちゃんと黒子は理解していた。二人は、二人だけの昏い甘やかなやさしい世界へ逃げてしまいたいと本心から望んだわけではなかったからだ。
 黒子の戯れの言葉に、赤司の父は少し遅れて声をあげて笑う。

「誘拐犯黒子くん、息子は頼んだよ」

 親愛を込めて黒子の名を呼んだ彼は、それだけ告げると扉をバタリと閉めて海の見える町と別れた。

****

「折角の機会なのに一緒に帰らなくて良かったんですか?」
「…いいんだ」

 お前といられる一瞬を逃したくないからね、と告げた赤司はただの十六歳の少年だった。気付けばもう夕方だった。赤司の二つの瞳と同じ色に照らされた海は、水面を静かにきらめかせている。深緋と藤黄色の空が、冬の深い薄花桜の海を染め上げていた。

「ボクは君となら何処へだって行けるでしょう」

 それこそ地の果てだって、往く先が地獄だったとしても、その手を取るだろう。そういう意味合いを込めて黒子は言う。果てのない水平線のように、何処までも伸びる線路のように、二人の往く先には際限がないのだと暗に言う。きっと心中だってできますよ、とは言わなかった。お互いに望まないことを、言葉にしても意味はない。昨日までの赤司なら、一緒に海の底へ融けて還ることを祈ったかもしれないが、今の彼の瞳にはちゃんと未来が見えていた。

「でも、君は沢山の人から愛されています。そのことを、どうか忘れたりしないでください」
「ボクは、誰からも愛されない人間を好きになった覚えはありません」

 並んだ肩。数センチの差しかない身長だが、赤司の方が座高が若干低いのを、黒子はほんの少し恨めしく思っていた。黒子よりしっかりとした造りをしている、コートの上からでも筋肉の分かる肩にこめかみを寄せる。すり寄せた肌。厚いコート越しには体温を感じることはないけれど、隣にいる存在の形を確かめて、黒子は緩くアクアマリンの双眸を閉じた。瞑った瞳には、紅と琥珀が焼き付いている。二人の赤司の色。彩る二色の虹彩に、優劣などなかった。赤司は、二人揃って赤司だった。それを、誰よりも理解しているのはあのウインターカップで自分の矜持を貫いた黒子以外に誰がいよう。

「誰も、君を否定したりしません。君は、間違いではなかった」

 赤司が呼吸を一瞬止めたのが分かった。少し置いて、酸素を飲み下したのを黒子は感じていた。目を閉じているから直接どんな顔をしているのか知ることはないが、黒子は瞼の下で赤司の表情を寸分違(たが)えることなく思い浮かべることができる。

「でも、誰にも君のいちばんは譲ってあげません」
「だから、もう、自分にはお前しかいないんだなんて、そんなかなしいこと言わないでください」

 震える肩を、咎めたりも指摘したりもしなかった。黒子の言葉に返事は一つもない。息を殺すようにして、揺れる肩を黒子は甘んじて享受する。昨日からずっと放置されていた右手に自分のものではない熱が触れても、黒子はそれを払うことはなかった。やっと、赤司から黒子のてのひらに触れてくれた。手を伸ばしてくれた。離れて行かないように、迷子にならないように、消えてしまわないように、失わないように。鎖で、紐で、繋ぎとめるかのように手首を掴むのではなく、初めて赤司は自発的に黒子とてのひらをあわせる。水かきの部分に、赤司の節のある指が触れて、黒子はやんわりと彼の手を握り返した。戸惑うように一瞬びくついても、彼の手は逃げることはない。お互いがてのひらを握りあったのは、あのウインターカップ以来のことだった。寄せた黒子のこめかみに、赤司のそこがぶつかる。そっと触れた硬い頭蓋骨。寄せあった顳をすり寄せているとゆったりとした睡魔が襲ってきて、黒子は微睡に落ちる刹那に赤司に声をかける。

「遅くなりましたが、お誕生日おめでとうございました」

 赤司は黒子の言葉を子守唄にして先に浅くゆるやかなその縁へと誘われて行った。

 窓から見えるパノラマの景色が、電車が走るのと同じ速度で映画のように流れていく。黒子のやわらかい髪に寄せられた赤司の丸い頭部。微かに感じる赤司の吐息と鼓動は静かで、とても規則的だった。ドアの上部に表記される文字は、二人が降りる目的地までまだ三駅ほどあることを告げている。寄り掛かる燃える血のような真紅の髪の毛が少しだけ、黒子にはくすぐったい。平常時と変わらず腕を組んだまま体重を預ける赤司は、いつもの凛々しい表情を崩して少し幼く見えた。童顔(だと言ったら多分不機嫌になるだろう)なのに、常日頃凛とした表情、時に厳しげで凡そ学生とは思えない威厳を放つ彼からは考えられない、穏やかな寝顔だった。少しだけ伸びた、癖のないさらさらと流れる前髪が目にかかっている。むず痒そうなそれを払うとぴくりと瞼が動いたが、目を覚ます気配は一向になかった。触れた髪は絹糸のように柔らかくて癖がない。いつまででも触れていたいと思ってそっとつむじの辺りの後頭部を撫でる。
 あと十数分。黒子は赤司を独り占めしていられる。

「起きてください」
「…寝てないぞ」
「そうですか。ボク、少しだけ寝ちゃいました」

 頬を軽くつついて眠っていた赤司を起こすと、寝てないと言い張る。寝てましたよと言ったところで寝たふりだとか狸寝入りだと言うだろうから、小さな見栄っ張りで可愛い嘘は黒子の心の中にだけ残しておいてあげることにした。
 揺れると眠くなっちゃうんですよね、と誰に言うでもなくぽつりと吐きだした独り言。隣にいる赤司は、そうだなゆりかごみたいだ、と大切に答えるようにこぼした。

 はめ殺しの電車の窓の向こうで日が沈んでいく。町は、昨日よりも少し小さく見えて、しかしやはり二人にはまだまだ過ぎるほど大きいようにも感じられる。赤司征十郎の死体を探す旅。物語の終幕で主人公は言った。「友人たちは列車の窓の景色のように通りすぎていった」と。いつかの夏が訪れるまで、黒子はきっと永遠を信じていただろう。信じていたかった。それは黒子にとっての願望で、祈りだった。
あの頃のような友人は、もう二度と出来ない。そして今自分の手の中にある友人も二度と出来ない。過ぎてゆく季節を嘆くことはしなくて良いだろう。過去は過去で、現在(いま)は現在だ。淡い季節。炭酸水が弾けて、喉をぱちぱちと刺激するようなゆるい甘さの硝子細工は壊れてしまったけれど、丁寧に直してちゃんと押入れにしまってある。少しずつ大人になっていった。階段を三段飛ばしで、追いつこうとしたこともあったけれど、結局進んでは戻ってを繰り返してやっと同じラインに並ぶことができた。沁みたいつかの傷口は、もう痛むことはない。あの頃があったからこそ、赤司と黒子の未来には長く遠くまで伸びる道を選ぶことができたのだから。二人の、死体を探す旅―――逃避行はこれで終わりだ。もう何処へも戻ることはできない。けれど、だからこその今。
 
 きらきらと輝いて、地平線の向こうへ眠りにつく陽のひかりに照らされながら、指を絡めるようにして手を繋いだまま電車を後にした。
 彼の止まった季節は、動き出したばかりだ。あの夏は、二度とやってこない。
 ふたりはもう、手首の熱を気にすることはないだろう。

 君が困った時も、そばにいてほしい。夜が訪れて辺りが暗闇の黒に満ち、月の光しか見えなくなっても、きっと怖くないだろう。ただ君がそばにいてくれさえすれば。見上げた空が真っ赤に染まって崩れ落ちてきても、山や海が全て呑まれてしまったとしても、きっと涙はこぼさないだろう。ただ君がそばにいてくれさえすれば。離れないで。そばにいて。たった今、そばにいてほしいのは、君だけだから。だから僕に君を支えさせて下さい。どんな君でも愛する自信があるから。そばにいて支えてあげたいと、困った時に僕の近くにいてくれればいいと思うのは、世界中を探してもただ君一人だけなんだよ。赤司征十郎くん。



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