last summer | ナノ

【ないものねだりだとわらう】

「寒いです」
「寒いな」

 水族館を後にして、さあ次はどこへ行こうかと思案していた黒子に、赤司は行きたいところがあると告げた。何処へでも連れて行ってあげますよ、とばかりに胸を張るようにして任せて下さい、と言えば随分と頼りない道先案内人だな、なんて言う赤司の発言は黒子にとって頂けない。迷っても、自分たちがどこにいるかわからなくなったとしても、多分赤司は黒子を咎めたりしないだろう。
 お土産屋さんを二人はスルーして水族館を出る。初めて来たんだから何か一つどうですか?と勧められた赤司が、記念とか思い出が欲しかったわけじゃないからねと返した時の表情を黒子は見ていない。思い出とは、記憶とは、いずれ風化し美化されるものだった。きれいな思い出はきっといつかの未来の自分を支えるのだろう。しかし、赤司はそれさえも不必要――というより望まないのだと、そう言った。
 では赤司はどうして遠いところに行きたいと願ったのだろうか。彼が探しに行こうと言った「赤司征十郎の死体」は何処に連れて行けば見つかるだろうか。可能性とその確率を掛け合わせて答えを導き出そうとし、選択肢を狭めては広げてを繰り返して赤司の目的と希む向こう側を探る。
 黒子にはずっとひっかかっていたことがある。目の前に用意された無数の可能性と選択肢の中で、一つだけ、鬱金色に輝く糸が見えていた。それを引いて答え合わせをするのは簡単なことだったが、まだ頃合いではない。その糸に触れてしまっては、二人の死体探しの旅は終わってしまうだろう。触れぬよう、気づいていることに悟られぬよう、黒子は赤司との応酬を楽しんだ。
 旧くなって美化されるだけの、懐古する為だけの過去なら欲しくないと黒子は思った。

 行きたいところがあるという赤司に、何処に行きたいのかいくら問うても彼は答えることはなかった。水族館を出ても、握られたままの右手首。離れた温度の瞬間は電車やバスの改札を通る時くらいで、座席に就いたりつり革に捕まっている最中は赤司に捉えられてしまう黒子の右側の腕。赤司は自然に掴むことができるように絶妙なタイミングで手を伸ばす。しかし、離れまいとするような意地でも繋がっていようとするような赤司の左手に悪い気がしていない黒子は、触れやすいような場所を腕の所在地とさせていた。

 赤司と電車に乗ったのはいつぶりだったか、と黒子は記憶の引き出しを開けては閉める。きっと並んで揺られていたことなど両手の指で数えられるほどしかない。
 窓の外の景色はどんどん薄暗く、宵闇を帯びて行った。いくら冬至が過ぎ、徐々に日が長くなっているとはいえ、夕方もとうに過ぎた時刻では星が輝く準備を始めることはあっても空が白み始めることはないだろう。何処へ向かっているのか何度尋ねても、やはり答えてはくれなくて。上手いことはぐらかすのをやめた赤司は、お楽しみだよ、といたずらっ子のような笑みを浮かべる。つり目がちの美しい流線形を描く赤司の瞳は、海外の有名な童話に出てくる紫縞の猫を彷彿とさせるようだった。茶目っ気と黒子の反応を楽しんでいるようなほんの少しのいたずらな意地悪さがちらちらと顔を出していた。

「次で降りるぞ」
「…はい」

 鈍行の電車に揺られて二人は大して座り心地のよくない座席に座り続ける。彼らの腕は繋がったままだ。線路はどこまでも続いていくだろう。夜の帳がすっかり落ち、地平線の向こう側で太陽は眠りに就いてしまった。命の凍る冬。生き物が春を待ちながら惰眠を貪る冬。寒さがピークに達するころには、人々はあたたかい家に帰りたいと歩く足を早めて帰宅するのだろう。深夜とまではいかないが、とっぷりと濡れ羽色に暮れて暗闇が支配する休日の夜は一人二人と車内から姿を消していくのが早い。二人が向かう先はどんどん都心から離れて行っているため、人がまばらになっていくのも仕方のないことだった。

****

 潮の香りがする。

 赤司と黒子は海の見える町にいた。町にいるというよりは海沿いの道路を歩いてテトラポットと防波堤越しに海を見つめている。
 冬の海は、真っ黒だった。風は殆どないが、潮風が冷たい。雪も雨も降っていなくとも夜は冷えるというのに、聞こえてくる汐の音色はぬるさの影もない凍るような温度で耳を刺す。普段は空の青を映す海は、闇に飲まれてさざ波を繰り返していた。全てを飲み込むような色をしている赤司の言うところの「総ての生物の母」が、真っ黒な口をぽっかり開けているように見える。人間の、いのちの母胎。海は、命の還るべき場所だと赤司は言った。潮騒は静かに波打ち際を繰り返すだけだ。
 夜の海は危ないというが、嵐の夜でもないため少しくらいなら問題ないだろうと浜へ降りる。母なる海の水平線は、縹緲と無辺際に滞りなく遠くまで伸びていた。それは、赤司と黒子が寸刻前まで乗っていた電車の線路のようだった。果てなど、存在していない。そこには有限などなかった。何処まで行けるだろう。何処へ行けるだろう。可能性に限りは在りはしない。無数に存在していてどれを選ぶことも、どれを棄てることもできる。だから多分、何処までも行けるはずだった

 波打ち際に近づくたび、さくりさくりと音を立てる砂浜の感触は柔らかい。夏だったら裸足になって砂の粒子を直接肌で感じたいところだったが、生憎気温が一桁しかない睦月にそんなことをするほど酔狂でもなかった。
 寄せては返す鉛色のさざ波。寒気の為に、海の水は比重を重くして暗鬱な色をしていた。波が砕けて浜に弾かれる。宵闇の中で油を刷いたように海が薄暗く鈍く光るのは、満月でも三日月でも、上弦でも下弦でもない中途半端な満ち欠けをした月明かりがあるからだ。光源は雲に隠れたり顔を出したりと自由気ままに忙しい。眠りに就いた町はとても静かで、泣き叫んでいるような、すすり泣いているような、幾重にも重なる海の声だけが響いている。沖から波に乗ってやってくる海嘯。赤司と黒子は腕を繋げたまま言葉もなく、波濤の静謐な声にただ耳を澄ませていた。

 潮風に冷やされて少しずつ赤司のてのひらは温度を下げていく。その速度よりも早いスピードで黒子の体温は奪われていった。冷えた手首を労わるように、包んだてのひらが角度を変えて圧力を増す。ポケットに入っているはずの手袋は二人とも使うことがなかった。ふるりと、芯から冷える冷たさに震える。分かち合う体温だけが、ここにいる自分を証明しているようだと黒子は思った。

「ただ白いだけなのにどうして砂浜って美しく感じるのでしょう」
「砂浜は珊瑚の死骸でできているんだよ」
「え、そうなんですか?」
「基本的には陸地から川が運んだ土砂などの堆積物だけどね。火山性の花崗岩を含んでいると白っぽくなる」

 美しさには理由があるとでも言うように、赤司は砂浜の成分を説明する。帝王学を学んでいたとは聞いていたが、砂浜の構成物質がどうして政治や勉学に必要なのか、黒子は首を傾げた。水族館に行って赤司のあらゆる分野への知識が深いことは知っていたが、一緒に過ごせば過ごすほど驚くことばかりだった。彼の言葉を借りれば、南国の方の砂浜には珊瑚や有孔虫の死骸のかけらも含んでいるらしい。この海はどうだろう。黒子には考えてもわからない。

 夜の王であるお月様を隠していた、天鵞絨のように滑らかな薄い雲が幕を引く。ひょっこりと顔を出した薄明り。満月ではないからそのひかりは淡さを保ちつつ、星を、海の表面を、さらりとした砂浜を照らす。もちろん当てもなく波に触れぬようにして歩き続ける二人のことも、その先をも浮き上がらせていた。
 合わせていた体温が、不意に離れる。電車を降りてからずっと繋がっていた熱がいなくなると急に身体が冷え込んだような気がした。頑として離れようとしなかったのに突然どうしたのだろうかと思い、黒子は赤司の顔を見遣る。精巧な彫刻のように造られ美しく見える完璧な配置をした横顔は、形容しがたい半端な形をしている月を真っ直ぐに見つめていた。
 赤司君、とかけようとした言葉は発せられることなく終わる。赤司はおもむろに靴に手をかけると靴下まで砂浜に投げ捨てて、見るからに上等に見えるパンツの裾をまくりあげる。声をかけられず茫然とする黒子を他所に、赤司はそのまま鈍色の波へと白く身長の割に大きな足を差し出した。

「赤司くん?!」
「When the night has come,and the land is dark」
「え、」
「And the moon is the only light we will see」
「君何して!」
「So darlin' darlin' stand by me」
「ちょっと、」
「I won't cry, I won't shed a tear Just as long as you,stand by me」
「っ、」

 は、と我に返って黒子は名前を呼ぶが、時すでに遅し。ちゃぷちゃぷと音を立てて赤司は脹脛の中腹まで足を海に沈めている。
 黒子の静止の声も聞かずに波の飛沫と戯れる赤司は唐突に歌い始めていた。朗らかに歌い上げられる親友への感情を謳ったそのメロディーは、赤司のテノールと相俟って、柔らかく歌い上げられるものの甘やかに切なく響く。切々と願われる一つの望み。どんなことがあっても泣かないから、何があっても怖がらないから。そのためには何が必要なのか、ただそれだけを歌い続ける、夏の日の小さな冒険の物語の主題歌。あのひと夏の青春は、決して明るいものではなかったのに、どうしてこんなにも天高く抜けるような、やさしくつつみこむような歌が採用されたのか、英語もちんぷんかんぷんだった幼い当時の黒子にはわからなかった。中学校に入って辞書を片手に調べた歌詞の内容。その意味合いを受けて必然だとでも言うように録画したビデオテープを引っ張り出してもう一度物語を見直したのは随分と昔のことのように感じた。それから何度も何度も鑑賞したが、いつかの夏を区切りにしまい込んでしまったビデオテープ。

「Whenever you're in trouoble won't you stand by me」

 言葉に詰まった黒子に、赤司は振り返って歌を送り続ける。照らす月明かり。赤司の顔がほんの少し逆光に隠れる。赤司は、やさしく凡てを赦すようなやわらかな瞳と表情で黒子を見つめていた。
 そばにいて。どんな時でもそばにいて。それは大切な人を亡くした、一人の人間の小さな祈りだった。

 黒子は上手く応えることができなかった。寒さに凍えているだろうに、彼は悠然と微笑むだけ。問いかけのような歌声が、耳にこびりついて離れない。やさしい祈り。さびしさに怯える子供のような、か細い祈り。うつくしい音色は、黒子の脳内を支配する。どう、答えれば赤司が満足するのか、黒子にはわからなかった。
 冷たい波の中で、赤司は手招くように笑っている。お前もこちらへおいで、と言われればそれがどんなに酔狂でも、気が狂っていると言われたとしても頷かないことはできないだろう。わざとらしく、仕方ないとても言うように溜め息をついて靴を放り出す。器用に靴下ごと脱いで放ってしまったから、きっと砂が入っただろうと思ったが、どうにでもなれという投げやりな気持ちで黒子は海へと入った。

「…ばかじゃないんですかこんな寒い中」
「別に良いだろう。月が綺麗だから死んだっていい」
「君らしくもない。出典が定かではないんですよ、それ」
「はは、知ってるさ」

 肌に纏わりつく飛沫は凍っているはずがないのにあまりに冷たい。心臓が、ひゅんと音を立てて縮こまった気がした。一桁の水温が、皮膚の表面を刺して酷く冷える。触れればきっと鳥肌が立っているだろう。しかし、冷たい足許よりも体温の離れたほんの少しだけ涼しくなっただけの手首の方が、どうしてか凍えてしまいそうだと黒子は思った。
 漸くそばまでやってきた黒子の両手をとった赤司は、先ほどまで触れつづけていた左手首の内側、静脈が息づくそこに唇を押し当てる。元々寒さに鼻のてっぺんやまろい頬を赤くしていた黒子だったが、寒さとは違う意味で白い肌を紅く染めあげた。気恥ずかしさから軽口を叩けば満月でもないのに妙な言い回しをする赤司に、黒子は目を丸くすることしかできない。意図するところを知っている。こたえられない。答えることも、応えることも、できない。そんなことは知っているよ、とでも言うように赤司は月を反射する紅色の虹彩を細めて眦を落とす。告げる言葉を失くしてしまった黒子に、赤司は上げた口角をそのままにわらうように言葉を吐き出す。

「だからこそだろう。妄言とでも虚言とでも取ってくれればいい」

 諦念と需要、そして認知。視線を落としていた黒子は、赤司の言葉に顔を上げた。赤司はわらったまま黒子を見つめている。ないものねだりだとわかっているよと。あやふやな、噂と風説、讃談にまみれた言葉を敢えて使ったのだと、赤司の表情が物語っていた。赤司は、送った言葉に対する黒子からの受容など一切求めていない。それが、黒子にとってどんなにかなしいことなのか、赤司は多分知らない。

 海は循環の理の最果て。何度も巡り、還る場所。全て生物の根源はそこから生まれたとされる。二人の視界いっぱいに烟る灰色の世界が、鈍く光る夢を見ていた。


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