last summer | ナノ

【要らない】

「優しい方で助かりましたね」

 冬の海に浸かるという自殺行為に近い行動を戯れに起こして、寒い冬の真っただ中では濡れた足元が乾くはずもなく。海から上がってなんとはなしに海沿いにいたところを恰幅の良い女性に呼びとめられた二人。夜も深い寒空の下、ふらふらと当てもなく歩いていた為、補導でもされてしまうのではないかと思い逃げだしそうになってしまった。足元をびしょ濡れにして、テトラポットの見えるアスファルトにまんじりともせず立ち尽くす二人の事情を察したのか察しなかったのか、ついていらっしゃいと声をかけられた。
 ついて行くか行かないか逡巡して、足を動かすことが出来ないでいると、警察に電話されたいかい?と一言。風邪を引きたくなければついてくるんだね、と。それからは後ろを振り返ることもなくさっさと歩いていってしまった。赤司と黒子は顔を見合わせて、どちらからともわからず繋いだとは言いにくい、掴まれ、或いは掴んだ腕をそのままに女性の後についていった。五分もせずに到着したのはこじんまりとした民宿。趣と風情を感じさせる個人経営のそこの戸を開けて女性――もとい女将さんは赤司と黒子が玄関に入ってくるのを待っていた。臨時休業中という木製の看板が引き戸にかかっている。さっさと入っておいで、と足元だけしとどに濡れている赤司と黒子の頭からバスタオルを被せる。そのままぐいぐいと女性とは思えない力強さで脱衣所まで押されて、脱がされたくなけりゃさっさと風呂に入ってあたたまってきな、と浴衣やら帯やらを放り投げられた。

「随分強引な女性だ」
「そうですね。しかし、押しの強い方ですがやさしさですよ」
「有難迷惑、親切の押し売り、押しつけがましいという言葉を知っているか」
「でも女将さんに声をかけてもらわなかったら寒くて凍えていたでしょうね」

 誰かさんのせいで、とは黒子は言わなかった。赤司がばつの悪そうな顔で黙ったからだ。
 情緒あるただずまいをしている民宿の風呂は檜で出来ている。独特の匂いに、自分の家の風呂とは似ても似つかないのに何処か安心感を覚えていた。小さな造りではあるが、古き佳きを体現したような、大切に扱われ皆に親しまれてきたのであろうことが容易に想像できる浴槽。ちゃぷりと音を立てて二人並び、湯船に浸かる。冷えたつま先があたためられてじんわりと血液が回って行くのがわかった。むず痒いような気持ち良いようななんとも言えない感覚は決して嫌ではない。渡された手ぬぐいを、黒子に言われるがまま頭に乗せている赤司は切れ長の猫目を閉じて黙っていた。洗われたあとの前髪が額にぺったりと貼りついていて、短くなったそれを見るのは初めてのことだったから少し新鮮だった。

 シャンプーハットがないから、というよくわからない理由で、赤司自らの手によって頭を洗われてしまった黒子。悔しいが、赤司の洗髪技術は黒子の遥かに上だったので、文句の一つも言えなかった。美容師さながらの指使いで適度な圧力で頭皮に触れられると、あまりの心地良さに気を抜くと眠ってしまいそうになったほどだ。寝るなよ、と赤司が笑いながら言うものだから意地でも起きていた黒子。お返しに赤司の頭髪も洗ってやったが、雑だとかしっかり指の腹を使えだとか部活の最中かのように文句――もとい指導が多かった。三年に満たなかった一緒に過ごした淡く、苛烈で、忘れられない一時を思い出す。思わず止まってしまった手に、赤司は不思議そうにどうした、と問う。少し俯いた、まあるい形をした紅の頭部は白いもこもこの泡に覆われていた。泡が目に入る為こちらを向くことは出来ないが、赤司は今にも黒子の様子を伺いに振り向いてしまいそうだった。すみません流しますね、と声をかけて洗髪料を洗い流してゆく。小さくなった泡は排水溝の穴に吸い込まれて行った。

 とぷり、と音を立てて口元まで湯船に沈んで、ゆっくりと息を吐き出す。ぶくぶくぶくぶく。浴槽に対する質量が増したせいで、湯殿の木の縁から湯が溢れだしていった。抜ける空気の音に赤司が目を開いて、のぼせるから上がるぞ、と身体をあたためてくれた湯をあとにする。彼の手は、湯船の中でも離されることはなかったし、必要最低限の時間だけしかぬくもりに隙間ができることはない。

 いつもならバスタオルで簡単に拭いて終わるだけなのに、赤司は黒子の髪を乾かすと言ってきかなかった。曰く、そんなだから寝ぐせが酷いんだとのこと。髪を根元から立ち上げてゴーゴー音を鳴らすドライヤーで空気を入れる。逆手にした指がするすると髪をすくたび、この人は本当になんでも器用にこなすんだなあと黒子は感心していた。
 脱衣所の籠の中に入っていた鍵を手にして、二人は特に案内もされなかった部屋へ向かう。鍵があったということは、一晩泊って行けと、そういうことだろう。ここまで世話になって、彼女の気遣いを無碍にするような心は、赤司も黒子も持ち合わせてはいなかった。ぺたぺたと足音が静かな廊下に響いている。しっかりとあたたまった足の裏に、冷たい木の板の感触が少し心地よい。赤司は、黒子の右手首を掴んで、袂を綺麗にさばきながら颯爽と歩いた。

 宛がわれた部屋は飾り気のない和室で、布団が二組敷いてある横に行燈がぽつりと部屋を照らしていた。紋様が浮き上がって、影が白い寝具に落ちている。濡れてしまった衣服を簡単にハンガーにかけている間も彼は腕を離さない。振りほどかなかったその腕は殆ど一日中握られているような気がして、体温が馴染んでしまったようだと黒子は思う。それは、触れ合わない熱の温度の方が、違和感を覚えてしまいそうになるほど。

「寝ましょうか」

 就寝する時、布団が冷たいのが黒子はとても好きだった。浴衣越しに伝わるひんやりとした温度が、少しずつ自分の体温であたたまってゆくのが気持ち良い。赤司が黒子の手首を掴んだままだから、自然と向き合う形になる。普通手首を拘束されていれば動きにくいことこの上ないし、色々な行動が制限されるはず。しかしそういったことが一瞬もなかった一日を振り返って、努力と生来のポテンシャルも手伝って、大抵のことで彼に不可能の三文字は存在しないのだと改めて思う。
 彼は黒子を道路側に立たせたりしないし、人ごみの中では誰かにぶつかって足を踏まれたりすることのないように歩く。僕は女の子じゃないのにな、と黒子は思っていたけれどそれを一切口に出すことはなかった。大切にされているのだと実感することが照れくさいだけ。ただそれだけで、赤司のそういった気遣いやさりげない優しさを嫌だと思っているわけではなかったから、赤司が黒子にしてくれる行動を全て斜めに構えることなく、穿った目で見ることなく、素直に享受したのだ。
 握られたままの、頼りなさそうに見える細めの手首。リストバンドをしていない状態の黒子の手首はそれが顕著だ。いくらちからこぶのことを本気で言ったとしても、事実黒子の手首は赤司の手首よりも随分と細い。長年バスケットをやり続けたてのひらは、身長や風貌に対して幾分か大きめで、黒子の手首など親指と人差し指ですっぽりと一周してしまうことができる。
 赤司は目を閉じることなく、楽しげに、そして遠くを思うように視線を馳せて口を開いた。

「明日は、何処へ行こうか」
「水族館が楽しかったから動物園も良いかもしれない」
「博物館や美術館でもいいね」
「そういえばお前の好きな作家の作品をモチーフにした展覧会をやっていたよ。そこも視野に入れようか」
「気付いたんだが、意外と電車って良いものだな」
「線路が、殆ど日本全国に繋がっているのは、事実として知っていても実際体感すると面白いものだね」
「何処までいけるだろう」
「きっと何処までもいけるよね、」
「なあ、」
「返事をしてくれないか」

 明日から自分たちが何処へ行くか何をするか嬉しさを隠しきれないかのような口調で語る。彼にとって当てもなく何処かをふらりと訪れるのも、水族館のような複合施設に行くのも未知数のこと。娯楽としてそういった場所を巡るのは初めての経験だった。しかし、その声に黒子は返事をしようとしなかった。白く、細い手首を覆っていた赤司の長く男らしく節のある指に篭る力が少しだけ強くなる。

「…キミは“僕”の方ですね」
「…何故分かった?」
「頑なに、ボクの名前を呼ぼうとしませんでしたから」
「…やはりばれてしまったか」

 自嘲の色を滲ませて、彼は三日月のように目を細めた。
 僕は“オレ”が作り出した「赤司征十郎」の逃げ道だ。勝利への執着の権化。それが僕だよ。彼はそう言った。
沢山の知識を蓄え、政治を知り、学問を究め、様々な業界事情に精通し、運動に切磋琢磨して成績を収めたとしても「彼」の中に、ただ何かを楽しむ為の記憶は一つも存在していない。「彼」は勝利の為だけに生まれてきた。生き残る為に、「赤司征十郎」として存在し続ける為には、それしか方法が無かった。泳ぐ魚の静謐な箱の色も、冬の海の真っ黒な波の音も、知らなくて当然だった。彼――僕という赤司には必要のないものだったからだ。生まれた時から、手を伸ばすことが許されたのは勝利だけ。ただひたすらに、頂きに約束されている王様の冠を求めていなければいけなかったし、他に彼が生きながらえる方法は、彼が生まれた意味は他にはないのだと赤司自身が思っていた。彼のただ一切は、勝利をもぎ取り、この世界で生き残るためだけに存在していた。
 赤司征十郎と言う人間の中で勝利とは生命活動そのものだった。勝利への欲求は生きることへの渇望と同義として差し支えない。基礎代謝は、滞ってしまえば、死に繋がっただろう。生きる為には勝たなければいけない。全てに勝利し続けることのみで赤司は生きていられた。呼吸を、していられた。赤司の世界の中で勝利は、つまり生とイコールで固く結ばれた方程式だったのである。逆に言えば敗北は即ち彼にとっての死でしかない。そんな方程式の解を、黒子はあのウインターカップで根底から覆してしまった。

「お前は“僕”という勝利への呪いから、「赤司征十郎」を解き放ったんだよ」

 自分のことを、赤司は呪いだと言う。仕方のないことだと、真実だと。諦念とあくまで自然と自明であると疑わない表情で、自分は不要なもので災厄であるとでもだと言いたげな口調だった。
 握っていた黒子の手首に、もう一つ手が重ねられる。向かい合った布団の中で身体を横たえていた赤司は、祈るようにそこへ額を押しつけて目をつぶった。睫毛が合わさって、下まぶたに影が浮かび上がる。讃美歌。福音を受ける赤子。神様からの祝福。赤司はいつからか、どこの誰ともつかない、信じてもいない神様にほんの少しだけ祈りながら強請っていたのかもしれない。

「いつだったか、通りがかりのミサで牧師が話していたんだ」
「愛とは、赦しだと。赦すことが愛することなのだと」
「赦しが愛ならば、愛することが赦すことで、赦されることが愛されるということならば、赤司征十郎は―――”僕”は愛されていなかったんだろうか」

 そこには普段の凛とした、威厳すら感じる芯の通った声も悠然とただずむ威風堂々とした態度は存在していない。
 愛されたい。ただ、それのみを叫ぶ幼子がいるだけ。黒子の肌に触れた指先が小刻みに震えていた。恐懼。怯臆。焦燥と不安。黒子は、揺れる手を解く。彼の体温を黒子から手放すのは今日で初めてのことだった。捨てられることを懼れる子どものように、赤司は閉じたまなかぶらを開く。揺れる虹彩は両方とも紅色だ。緊張しないで、とでも言うように、その目はどうしたんですか、と黒子は赤司に問う。自分を僕と呼ぶ彼の眼窩には紅玉と琥珀が埋まっていたはずだった。赤司が質問に答える前に、黒子は自分より一回り大きい手のひらを冷え症の両手で包みこむ。ひやりとした熱のはずなのに、赤司は安心したように瞳を緩ませて、世の中はカラーコンタクトという便利なものが普及しているねと言う。軽く握り込んだ手の中にある、小学校を卒業してしまう年月はとうにバスケットボールを触り続けたてのひら。それ故に硬い皮膚をした赤司の手は、黒子の手を握り返すことが出来ずにいる。

「外してみても、良いですか」
「いいよ」
「…ちょっと緊張します」
「ふふ、僕が目線を落としたら、下まぶたを少し押えるから、指の腹で撫でるようにつまんでごらん」

 彼の左目におそるおそる触れる。ぱちぱちと瞬(しばた)いた後の黒目、もとい緋目。乾燥を防ぐために涙液が出ている筈なのに、触れた感触は然程濡れているように思えない。本当は手を洗ってからするんだけどね、と赤司はおかしそうな声を出す。衝動的に外してみたいというお願いをした黒子は、その願いは間違いだったことに気付いた。雑菌でも入ってしまったらどうしようという心配が脳裏を過ったが、風呂あがりだし麦粒腫もできにくい体質だから大丈夫だよ、と見透かすような声をかけられる。赤司は、黒子の指先にあった赤いコンタクトを、空いた片手で奪うと寝具からそれなりに近くにあったくず入れに向かって弾く。目の良い彼のことだからきっとちゃんと入っただろう。小さくてコントロールの利かないものだけど、多分彼なら失敗しないだろうという根拠のない確信があった。

「父にバスケはもうやめろと言われたんだ」
「それは、」
「テツヤ」
「…」
「ねえテツヤ」
「……はい」
「好きなんだ」
「…」
「僕のことも愛してくれ」
「あか、」
「僕の名前を呼んで、」
「っ、」
「あいしてるっていわなきゃころす」

 愛は赦しか。赦しは愛なのか。赦されるということは愛されることと同義なのか。では、愛されなかった僕は一体何だというのか。誰からも赦されない、赦されざる僕は一体何だと言うんだ。僕のことを受け入れて。僕の名前を呼んで。あいしてるって言って。赦さないで、でもたった一人でいいから、お前だけに赦してもらいたいから。
 彼の中には、やわらかな愛情と絶対的な肯定を求める欲でいっぱいで、今は多分他に何も考えられない。愛されているという実感、自分がどんな人間であろうと失敗しても許されるという肉親からの肯定。全部、幼少期に与えられるべきものだったはずだ。勝ち続けることだけで得られた彼の足もと。不安定な足場。それは黒子が叩き壊して、影も形もなくしてしまった。だからこそ赤司の足許は今、宙ぶらりんで、吹けばどこかへ飛んで行ってしまいそうだった。
『あいしてるっていわなきゃころす』
 物騒なことを口にした癖に、赤司の肩は細かく震えていた。粉々になって壊れてしまった硝子細工のようだと、黒子は思った。赤司の心は、今はりつめた風船のようになっているのだろう。

「未来には、お前さえいればいいよ」
「…そんなこと、言わないでください」
「もう要らないんだ。お前以外」
「ねえ、」
「やっと大切なものを見つけたんだ。それを否定されるくらいなら、「赤司」なんて家、要らない」
「ボクは」
「テツヤ」
「ちゃんと聞いて下さい、」
「、言うな」
「征十郎くん、聞いて」
「っ、」

 赤司の言う、「見つけた大切なもの」は間違いなく「黒子テツヤ」のことだ。しかし、それは黒子のこと“だけ”を指しているわけではないことも確かだった。ウインターカップで、赤司は忘れていた感情と置き去りにしてきたものを思い出した。そのきっかけと理由が、いつかバスケを諦めようとして己が掬い上げた黒子だったのだ。彼は赤司や赤司のバスケを否定することはなかったし、これからもきっとそんな瞬間は訪れない。ただ、最後まで赤司に告げた言葉を全うし、貫き通しただけ。そんな諦めが悪くて、はた目から見ればわがままで貪欲な黒子だからこそ、最後の瞬間で赤司から勝利をもぎ取ったのだろう。
 握る手に力を込めるのは、今度は黒子の番だった。あんなに黒子の手首を頑なに離そうとしなかった手は、握り返すことも出来ずに小さな握りこぶしを作っている。
 怖がらないで。君が僕の手を握り返しても、僕は振りほどいたりしない。そう、黒子が思ったところで口に出さなければ赤司には伝わらない。傍にいてほしいと思うその癖、跳ねのけられることを恐れて、さびしいことを伝えあぐねているちいさなこども。自分よりも体格が大きいことは知っていても、孤独に怯えるたった十六歳になったばかりの彼の背を撫でて抱きしめて、君は不必要なんかじゃないと。呪いなんかじゃないと。赤司は、どんな赤司でも赤司なのだと、黒子は教えてあげたかった。それでも、彼がいま必要としているのは言葉ではないことは火を見るよりも明らかだった。かといってどこかの三文小説のように肉体で寂寞を埋めてほしいわけでもない。
 ゆっくり、触れ合う体温を解く。お前も離れて行くのか、とでも言うように見開かれた瞳に、ばかだなあと黒子は思った。どうして、この人を置き去りにできよう。ずっと、置いて行かれたと思っていた。それは間違いではなかったけれど、真実でもなかった。赤司は、常に黒子の先を往く人だったが、その心臓はあの夏に置き去りにされたままだったと、漸く知ったのだ。
 黒子より随分たくましい肩を辿って背中に腕を回す。征十郎くん、と名前を呼んだ。自分だけの名前を呼んでほしい彼に、もう一人の彼とは区別して初めて下の名を呼ぶ。やさしく、羽飾りを髪に刺すように呼ばれた名前に、赤司は黒子の肩口に額を擦り寄せるだけ。その背に腕を回すこともできずに、白く滑らかな額の温度を感じている。ぐ、と鎖骨のあたりをくすぐる赤司の肌触りのよい前髪にくすぐったさを覚えたが、そのままむず痒い感触を受け入れて形の良い頭を撫でたかったが生憎手が足りなかった。

「ボクはキミのことも彼のことも大好きですよ」

 征十郎くん、あいしています。
 それは赤司にとっての子守唄のようだった。
 たった一言。それだけなのに、波紋が広がるように揺れていた瞳が凪いでゆるやかに閉じられていく。赤司は、吐息も聞こえないやわらかな眠りに就く。微睡の中ではどうかしあわせな夢が見られるように祈って、彼のつむじに唇を寄せる。僕の神様だった人。善き友人で、恩人で、そして誰よりも愛する人。

 おやすみなさい、あかしせいじゅうろうくん


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