last summer | ナノ

【“赤司征十郎”の死体を探しに行こう】

 季節は冬。ウインターカップを終えてそろそろ一カ月が経とうかという頃。父は仕事に出かけたし、母は祖母を連れてショッピングに出かけており、一人でのんびり迎えたある土曜日の朝。黒子は思いもよらぬ人物の突然の来訪に、玄関で目を瞬かせていた。

 たっぷりの牛乳に砂糖と無糖ココア。沸騰しない程度に火をかけたホーロー製の小鍋の中で、ほぼ白に近い液体がぐつぐつと煮えている。このままでは薄くて飲めた代物ではないしほんの少しだけ色づいた牛乳にしか見えない。しかし、時間をかけてゆっくりゆっくり煮詰めていくと通常の喫茶店で出てくるような色になり、コクと深みのあるココアへと変貌する。茹で卵が得意料理だと豪語する黒子だが、このココアの味だけはそこそこだと自負している。大好きな祖母に初めて作ったのがただ市販の粉を牛乳に溶かしただけだったというのに、大層喜んでくれたものだから色々調べて試行錯誤しているうちにどうにかこうにかしてこの作り方に辿り着いた。美味しいねえ、と目尻に皺を寄せ柔らかく目を細めて喜んでもらえるものだから、わりあい高い頻度で作るココア。牛乳が焦げ付いてしまわぬよう、そっと小鍋を菜箸でかき混ぜる。牛乳の膜ができないようにする為に火の勢いをすることは決してない。工程が面倒だと思う時もあるが、時間も手間もかかるこの作業が黒子は嫌いではなかった。手のかかる子どもでもできたような感覚。じっくりと時間をかけてできた、湯気の立つそれを冷ましながら飲む瞬間は格別だと思う。
 ふつふつと浮かんでは消える気泡を見ながら、黒子は静かな部屋に響くガスの音に思いを馳せていた。

「どうぞ」

 味見をして優しい深みのある味になったことを確認してから自分のお気に入りのマグカップに茶褐色の液体を注ぐ。上に、砂糖を一切入れていない生クリームを乗せると濃厚な味わいになってなかなか美味しいのだが、生憎、常時冷蔵庫に生クリームが用意されているような家ではなかった。

「悪いね」

 黒子が作ったココアを受け取ったのは、中学時代のチームメイトであり先日行われたウィンターカップの決勝で対峙した赤司だった。朝、黒子家のインターホンを静かに一つ鳴らしたのは他でもない赤司だ。
 黒子の家は一般的な一軒家で、特別広くも狭くもない。リビングにはローテーブルと家族団欒が楽しめるようなソファがひと組。キッチンはダイニング式になっているので、そちらには食事用のテーブル一つと椅子が四脚ある。来客の為、クッションの多くおいてある一番座りやすい場所に赤司を案内していた。ごく普通の、家庭用のソファなのだが、赤司が座っているだけで王室御用達のものに見えてくるのだから不思議なものだ。長い脚を優雅に組んでカップを手にするその姿は、多くの家臣を携える王様のようなのに、そっと息を吹きかけてココアを冷ましている姿にはどこか可愛らしさを覚える。赤司は猫舌なのに湯豆腐をはじめとしたあたたかいものが好きだ。それは合宿などを共にした中学時代に見つけた赤司の特徴の一つである。注視して観察しないとわからない赤司の様子を一つ見つけて、黒子は動かない表情筋の下でこっそり笑みを浮かべていた。しかし、そんな赤司の年相応の人間らしい行動に心の中で微笑んでいたところで黒子の心の中には解決しない疑問がある。

「それで、今日は一体何の用事ですか?」
「用事がなかったら来てはいけないのか」
「目的もなく京都から東京までやってくるなら君も相当暇人ですね」
「まあ、そう言うなよ」

 黒子の言葉に赤司は少し目を伏せて笑った。音も立てずに白いカップの中の液体に口を付ける。こくりと嚥下して、ローテーブルに陶器を置くと、赤司はまっすぐに黒子の方を見た。

「お願いを聞いてもらえないかと思ってね」
「お願い、ですか」
「そう。お前にしか頼みたくないお願いなんだ」
「君からの直々のお願いって、少し怖いですね」
「…お前も中々言うようになったじゃないか」
「お褒めに預かり光栄です」

 苦笑する赤司を余所に黒子はぺこりと頭を下げる。冗談は置いておいて、と前置きをして「ボクにできることならなんなりとどうぞ」と主人に傅く側近のように言葉を落とす。どうせ聞き入れない選択肢はないと、黒子は思っていた。赤司の珍しいお願いごと。蓋をあけるのは少々勇気の要ることだと思ったが、願いを叶えてくれる魔法使い役に自分が選ばれたことに黒子は小さな嬉しさを抱いていた。
黒子の色よい返事に赤司は人好きのする社交辞令のような笑顔を浮かべて口を開く。

「“赤司征十郎”の死体を探しに行こう」

****

「まだ思春期特有のとある病気が治ってなかったんだなあと思ってしまいました」
「…遠回しな非難はやめてもらえないか」
「直接的に言いますか?」
「いや、結構だ」

 数々の珍発言――もとい迷言を間接的に揶揄すると赤司は繋がった腕を少し強めに握る。痛いです、と黒子が文句を言えばざまあみろとばかりに笑みを浮かべた。

「随分と季節外れです」
「何が?」
「とぼける気ですか」
「別に線路沿いを歩こうなんて言ってないだろう」
「この寒い中、線路づたいに旅に出るなんて自殺行為です」

 黒子の手首を握って歩く目の前の人物は自分自身の名前を挙げて「死体を探しに行こう」などとのたまった。きっと青峰や黄瀬が聞いたら「お前死んでるの?」だの「幽霊ッスか?!」などと騒ぐに違いない。真面目で堅物で、冗談の通じなさそうな緑間も赤司の発言の含む意図をそのまま受け取りかねないが、読書量の多い彼のことだからその言葉の指すところを正確に読み取るだろうと思う。
 80年代の有名な映画。モダンホラー作家の非ホラー短編集をメディア化した作品だ。大ヒットを放った同名の歌を主題歌に起用し、リバイバルヒットしたことも広く知られていることだろう。原作の小説の副題には「秋の目覚め」と添えられている。それぞれが心に傷を持った少年たちが迎えた、ひと夏の冒険の物語だった。
 黒子は赤司の突拍子もない発言に、一に驚き、二に好奇心から死体を探す線路伝いの旅をする小説を思い出した。あまりにも有名な物語だった。アメリカの小さな田舎で過ごすミドルスクールを目前に控えた少年たちの夏のある日。黒子が好んで繰り返し観た、或いは何度も読み返した作品であり、最近は少しだけ目を逸らしていた物語でもある。目を閉じれば、列車に轢かれそうになりながら驚くほど青い川にかかる橋を渡って彼岸を垣間見ようとした少年たちの姿が思い出せるだろう。初めて映画を鑑賞したのは小学生の時だったと思う。その時は親の世代の人々が絶賛している理由を理解できなかったものの、何故か登場人物の一人が線路脇で鹿と出会うシーンが忘れられずにテープが擦り切れるほど何度も見返したものだった。今では記録媒体もすっかり電子化されつつあるので繰り返し見たところでちょっとやそっとのことじゃ映像が乱れることはないだろう。

 自分の死体を探しに行こうと言った赤司は猫のようなアーモンドアイを細めて微かに笑っていた。果たして「赤司征十郎の死体」とは。彼の言葉が有名な物語を意識した発言だと言うことはわかっても、真に意味するところは図りかねていた。ミステリーのロジック。物語の暗喩表現。まさか本当に死体を探しに行くわけではあるまい。目の前にいる赤司はちゃんと実体を持った生身の人間だし、ドッペルゲンガーでもクローン人間でもなさそうだった。もし、精巧に赤司に模されたアンドロイドだったらわからなかったかもしれないが、そんなSFを本気にするほど夢見がちでもない。
 何処か遠いところに行ってみたいんだ。返答を考えあぐねている黒子に、赤司はそうも告げた。そっと猩猩緋の瞳は伏せられる。強い視線を湛える赤司の双眸が見えないことで、元々心情を読み取りにくい彼の考えていることがますますわからなくなる。しかし、なんと答えるべきか悩んでいた黒子はあまり沈黙もおかずに、赤司へ応えた。「ボクが君を誘拐してあげましょう」そう言ったのは多分半分反射的だったと思う。どうしてそんな言葉が転がり出てきたのか、黒子にも全くわからない。奇想天外だった黒子の言葉に、赤司が閉じていた目を見開いて言葉を失くす。何でも見通せる瞳を持っていながら、赤司にとって黒子の言葉は予想外でイレギュラーだった。そもそも予測も観測も不能だというべきだったかもしれない。未知との遭遇。黒子の傍にいると赤司にはそんな出来事にばかり出会う。
 言葉に詰まる赤司をそのままに、二階の自室へ向かった黒子は足早にコートを持ち赤司をもてなしていたリビングに戻ってくる。黒子はゆうるりと微笑んで、行きましょう、と告げると脱いでハンガーに掛けられていたコートを赤司に押し付けた。あの時、どこへ?とは赤司は聞かなかった。

 そんなこんなで黒子が連れてきたのは都内でも有名な水族館。連れてきたのは黒子の方なのに、赤司に手首を取られて一歩程遅れて引っ張られるような形で歩く。悔しいことに赤司と黒子のストライドは全然違う為、間違えれば足が縺れかねない。しかし、焦ることも早足になることもなく、ごく自然に歩けるのは赤司が黒子の歩調に合わせているからに他ならなかった。少し焦るように歩いたのは、クラゲの水槽から離れたあの時だけ。早くも遅くもない速度で少し薄暗く感じる水槽を通り抜けて行く。横切ったこの館内で一番大きな水槽は、黒子の髪や瞳よりも彩度の高いアクアマリン。ちらりと横目で見ればハナゴンドウがのびのびと空色の中で泳いでいた。

「ベニクラゲの秘密を知っているか?」

 歩きながら、赤司は黒子に尋ねた。
ベニクラゲは赤司が熱心に――というより一番時間をかけてじっくり観ていたクラゲの名前だった。6月から8月にかけて日本全国の沿岸で見ることができる小さな個体。近年の研究では生息地によって傘の直径の成長具合が違うことが分かってきているらしい。赤く光るように透けて見えるのは消化器官で、名前もそこに由来している。成熟した個体の触手は80〜90本を超え、その内側に鮮やかな赤色をした眼点がある。ベル型をしたベニクラゲの容貌はどこか「氷の妖精」や「流氷の天使」と呼ばれる貝殻を持たない巻貝を彷彿とさせた。多分、半透明に透けていることと、透けた向こうに紅色があるからだろう。
 黒子の頭の中にあるベニクラゲの知識は、すべて赤司の解説によるものだった。飼育されている生き物について疑問を感じた際、黒子が何も言わずとも心を読み取ったかのように解説を始める赤司が、珍しく何も言わずに見つめ続けた小さな水槽。彼の髪の色のような鮮やかな紅色をしたクラゲを見つめる視線が、何を孕んでいるのか黒子には見当がつかなかった。空いた手で彼の裾を引いて初めて、知りたい?と黒子に問うた赤司。はじめから隣にいたのに、黒子がそこにいることに今気付いたかのように感じたが、それが事実なのか勘違いなのかは黒子には分からない。この館内にいて、黒子に解説が必要かどうか聞いたのはその時が最初で最後だった。
 それはまるで、彼がベニクラゲについて話すのを躊躇っているかのように感じた。

「あのクラゲには秘密があるんですか?」

 赤司の問いに、黒子は質問で返す。その疑問は、彼の質問の答えを知らないということを表していた。秘密。胸がどきどきするような、鍵のかかった部屋を覗き見するような、どこか背徳感と逸る緊張が駆け巡る。
 黒子の疑問が発せられると、赤司はぴたりと歩みを止める。後ろをついて行くように歩いていた黒子には赤司の丸みを帯びた後頭部しか見ることができない。握られた手首に、ぐ、と力が入った。黒子が憎まれ口を言う度に、ちょっとした冷やかしをする度に、幾度となく握りしめられた手首だったがそれは子犬に甘噛みされるような柔らかな戯れの感触でしかなかった。しかし、今込められた力はそんな可愛らしいものではない。指の付け根の骨がぎしりと音を立てる。眉を顰めて痛みに耐えると、漸く赤司が黒子を振り返る。

「不老不死だ」
「え、」
「ベニクラゲは老衰で死ぬ前に細胞が若返るんだ」
「…それはまた、魔法のような話ですね」

 捕食されてしまった場合等は除いて、ベニクラゲは基本的に死ぬことが無い。自然死するまえに、ベニクラゲは生まれたばかりの姿へ蘇るという。クラゲは自然死すると溶けてなくなると言われている。クラゲは身体の95〜98%が水分でできており、溶けてなくなるということは水に還るということだった。紅色の名を冠する小さなクラゲは、老いて衰え始めるとクラゲの若い世代に当たるポリプへと若返る。さなぎのようになって、その中で若い細胞がどんどん増殖し新しい姿を形作ると、やがてまた成長を始めるらしい。ベニクラゲは速く泳ぐこともできず、硬い甲羅もなければ、毒も持たない種だ。擬態もできず、自分を守る術がなければ、衰退するしかないしいずれ絶滅する。種の存続の為には、捕食される以上に生まれるしか方法が残されていなかったが、それにも限りがあるのは明白だった。環境の変化で捕食者が増えてしまえばどん詰まりでしかない。その時、必然か偶然か、進化なのか突然変異なのか、不老不死という能力をベニクラゲは授かったのだろう。有性生殖を獲得した個体が未成熟の状態に戻る例は少ない。ベニクラゲの細胞の再分化――分化転換には制限はないらしい。老化現象が起こらないわけではなく、死を目前に若い状態に戻るだけ、いわばアンチエイジングの進化形のようなそれは、厳密に言えば若返りであるがベニクラゲは一躍「不老不死のクラゲ」として話題になった。

「死は自明の理だ」
「そうですね。普遍でもあります」
「その決まりに反する進化は、神への冒涜じゃないのか」
「…難しい問題です」
「そうまでしてでも生き延びられないのであれば、そこまでだろう」

 何処かの誰かさんじゃないが天命というものだ。赤司はわらってそう続ける。彼の笑みを「笑う」とするか「嗤う」とするか、若しくは「嘲笑う」とするか、それとも「哄笑う」とするか。黒子は形容に悩む。はっきりと言えるのは「微笑う」ではないことだった。どこか自嘲めいた彼の声音に、黒子は一つ訊く。

「君は、神様も、運命も必然も偶然も、信じていないのかと思っていました」
「…違いないな」

 神に祈るくらいなら今できる努力をするさ。そう言って、ご名答とでも言わんばかりに今度は、噴き出すように笑って見せる。それは赤司にしては珍しい、どこにも含みのない屈託のない笑みだったように思う。

「海は、総ての生物の母だよ」
「随分とロマンチックですね」
「そうか?」
「君にしては詩情的です」
「…一応褒め言葉として受け取っておくよ」

 眺めた先にあるのはやはり大きな水槽だ。相変わらずハナゴンドウは優雅に水の中を揺蕩っている。そこには時間も有限もなにもないかのように、ゆっくりと回遊しているだけ。帰るべき海より狭いその水槽を、あのクジラはどう思っているのだろう。大きな波も、天敵もいない、平和な日常を享受することを退屈だとは感じないのだろうか。

「循環の理の最果てへ、進化したクラゲは還りたいと思わないんだろうか」

 赤司の問いは、誰に聞いたわけでもないのだろう。アクアリウムの影が落ちる薄明かりの床に、彼の言葉が沈む。
 独りごとのような問いかけは、まるで赤司自身に言い聞かせているようだった。
 君は何処かへ還りたいんですか?
 記憶の片隅にいる、いつかの赤司が黒子の頭の中を掠める。今より少し幼い彼に頭の中でかけた言葉は、ついぞ喉の先から出てくることはなかった。


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