last summer | ナノ

【軈て蒼穹に融けていく】

「水族館なんて初めて来たよ」と君は言う。

 照明の落とされた薄暗い箱の中は、淡いようなビビットのような形容し難い透明な水色。その分厚い硝子の向こう側で、たくさんの魚が悠々と泳いでいた。花緑青、蒲葡、甚三紅、升花、石竹、白群、浅縹、猩猩緋。視界いっぱいに広がる彩りは絶えることなくひれを動かし、鱗が光を浴びて、きらきらきらきら、宝石のようだ。きらめく光彩がプリズムする。魚たちの鱗が淡い照明を乱反射して夜空の星のように輝くそのさまは、幼少期に地元のお祭りの露店で買った万華鏡を思い出させた。夜の暗闇と、提灯行燈に照らされるゆるやかな明かりの中でそっと覗き込んだ煌びやかな絢爛の世界。夢のような、幻のような、きらめきと輝きと反射するちいさなひかりが子供の頃はとても貴重で、滅多にない言い知れぬ高揚感を味わったものだった。湧き上がる感傷を口に出すことをしなかったのは、その懐かしさを赤司と共有できないことを知っているからだ。この常しえのような紺碧のアクアリウムで二人きりのような錯覚を覚える中、分かち合うことのできない独りきりのノスタルジーでそれを濁すようなことはしたくなかった。
 初めて見るという魚たちの箱庭を、赤司は興味深げに見つめる。気泡が浮かんでは弾け、聞こえるか聞こえないか程度の小さな音を立てながら消えて行った。泡が最下から光差す水面へと昇ってゆく。昼間なのに夜の幻影がどこかかしらに散りばめられているような彩りの中、ぼんやりと水槽を見上げる赤司の背を黒子はじっと見つめていた。

「こんな狭いところに閉じ込めるなんて、とでも言いだすんじゃないかと思っていました」
「…そこまで野暮じゃないさ」

 言わぬが華。口は災いの元。彼はそういった美徳や警句をよく知り、血肉として身に付けている。思うことはあっても口には出さない。そんなニュアンスを含ませて赤司は口を開く。

「その理論で行くと動物園も残酷な箱庭だ。彼らに広い世界で生きる自由はないかもしれないが、餌が尽きる心配も天敵に襲われる危惧もない。一概に害悪だと決めつけるのは早計というものだろう」
「…君らしい答えですね」
「そう?」

 口の端をほんの少しだけ釣り上げてほのかに笑う彼の顔を直視せず、水槽の硝子越しで視界に留める。その場を掌握する為に様子を伺うような笑みでも、人好きのする仮面のような作り物の笑いでもなければ、いつか笑い合ったあの頃の笑顔とも違うその表情を、黒子は初めて見たような気がしていた。じっと、硝子に移る面貌を観察していると、窓越しに視線が合いそうな予感がして、ゆらゆらと回遊する魚たちの群れを慌てて捉える。ゆったりと、限りのある青い箱の中を泳ぎ続ける魚たちの姿がうっすらぼやけて見えた。あてもなく彷徨う視線は、特定の魚に焦点を合わせることはない。途方もなく、大きな水槽を眺めているだけだ。

 そろりと左隣にいる赤司を見遣れば不思議そうな、興味深そうな、探るような、未知と遭遇したような。様々な感情を綯い交ぜにした表情で、水槽の奥をじいっと見つめている。それは、学者が長年研究し続けた分野の文献を辿るような思慮深さを備え持ちながら、目に映るもの全てどれもこれもが真新しくて興味津々の子どものようでもあった。一見すると端正すぎて人形めいている彼の顔。そんな秀麗な面貌に似つかわないあどけなさを感じる。その不思議なバランスで立つ普段の赤司からは想像できない横顔を見て、ああ好きだなあ、と黒子は思った。

 満足するまで見終えると、赤司は黒子の手を引いて次の場所へと移る。彼の左手は黒子の右手首を掴んだまま、その体温が離れることはない。握る手は、然して強いわけでもないのに、振り解くことはできないし、そんな気は毛頭なかった。ただ、離れて行くことのないてのひらの頑なさは、迷子になった子供が親に縋りつく必死さに通ずるものがあるような気がしていた。そんなことを言ってしまえば彼は面白くなさそうな顔で手を離すのだろう。だから、黒子は物理的に握り返すこともできない手を、そのままにしていた。乾いた赤司の硬いてのひらは、黒子のてのひらよりも幾分かあたたかい。よく、手があたたかい人は心が冷たくて、冷たい手の人は心があたたかいなんて迷信が触れ回っているが、どれもこれも嘘っぱちだなあと実感する。意外とあたたかいんですね、という言葉は喉の奥でつっかえたから飲み込んだ。きっとそのことを口にすれば、筋肉量と代謝の差だと一刀両断されるに違いない。そういえば、中学のいつかの冬。戯れに彼の手に触れた時とてもあたたかかったのだと思い出す。では、どうして「意外と」なんて言葉がでてきたのか。飲み込んだ言葉が喉の奥まで戻ってゆく時、ほんのりとした苦みを憶えたのは何故だろう。その先は考えないことにした。

 彼はとても博識で、飼育員並みの知識量を以て黒子にあれやこれやを説明する。分かり易く簡潔に、ポイントを押さえた解説は黒子が赤司に質問した時のみに繰り広げられるもの。だから蘊蓄をひけらかすような、押しつけがましいところなどひとつもない。黒子が求めている答えを過不足なく導き出し、必要そうな時にのみプラスアルファが加わるその手腕は流石としか言いようがなかった。
 時に、敢えて質問を質問で返したり四択形式だったりと、黒子が考える余地を与えたり、わざと嘘を教えて感心する黒子を傍で笑ったりするのは赤司なりのウィットと遊び心だろう。からかわれていることに気付いた黒子が「おちょくるのはやめてください」と湯気を出して怒っても「可愛いな」なんて頬を緩ませて赤司が言うから、笑い出した彼をじと目で睨むくらいしか出来ない。空いている左手で服の上から贅肉のない彼の腕をつねったのは、黒子なりの抵抗だった。


 ペンギン、アザラシ、アシカ、クマノミ、ウーパールーパー、サメ、イシダイ。イルカにラッコ、ピラルクやアロワナ、ナンヨウハギ、エイ、マンボウ。ウミガメやグソクムシ、オウムガイ。魚類、甲殻類、哺乳類から鳥類まで。ありとあらゆる海洋生物がここにはいる。中にはここでしか見られない貴重な生き物もたくさんいる中、赤司が最も興味を示したのはクラゲの水槽だった。

 ゆらゆらと浮遊して、揺蕩い続ける海の月。半透明な彼らは踊るように、跳ねるように水の中を彷徨う。水の温度もその心地よさも硝子一枚隔てたこちら側の黒子たちには知る由もない。黒子は、赤司の横顔とゆるやかに水に浮かぶクラゲと弾けては消える気泡を見て、泡沫の夢いう言葉を思い浮かべていた。

 海に浮かぶ月を見つめる赤司の背中はまるで学者のような博識ぶりを感じさせるというのに、彼の不思議そうに、興味深げに、まるで一つの動きも見逃さまいといった色を滲ませる瞳は、初めて見るものに興味津々といった幼子のような満ち溢れる好奇心をも滲ませている。ゆらゆらと波紋で揺られる水槽の中。硝子に映る赤司と黒子の前をクラゲが横切る度、二人の輪郭が不鮮明になる。蕩けてしまいそうな、溶けてしまいそうな。触れられることなどないのに思わず掬って触れてみたくなる。伸ばした指先で、赤司が水槽にそっと触れた。肉の薄い指の腹で、つ、と硝子をなぞる。おそるおそるといったように、壊れ物を扱うかのようなそぶりで、ゆっくりと確かめて感じたのは硝子の温度かそれとも他の何かなのか。尋ねることをしなかったから、赤司が感じたものを黒子が知ることはない。
子供がショーウィンドーの硝子を触ると母親に叱られるように、指紋のついてしまうその行為は褒められたものではないだろう。幼少期から厳しく礼儀、マナー、ありとあらゆるルールを教え込まれ、いつでも嫌みのない清廉とした優雅な所作で以て行動する赤司らしくない、珍しい行動だった。

 どこの水族館でもライトアップされるほどメジャーな水クラゲ。かつてはブルージェリーと呼ばれたカラージェリーフィッシュ。毒針を持たずクラゲならざるクラゲで、繊毛がプリズムのように七色に光るカブトクラゲ。小型で一般家庭でも観賞用として親しみ深い、ゆっくりと可愛らしく泳ぐタコクラゲや、乾燥した刺胞を吸い込むとくしゃみがでることからクシャクラゲとも言われる紅クラゲ。あめ色をしたパシフィックシーネットルに、口腕が黄色いフリル状のサムクラゲ、食用として知られるビゼンクラゲ。
 虚像と空想と御伽話。それらが混ぜこぜになったような、鏡像の光で装飾された水槽のドームという空間に、数えきれない程のクラゲがいる。

 そんなクラゲの博覧会のようなこの場所で、赤司は一つの個体の前で立ち止まったまま動かなかった。

「行こう」

 握り込まれた手首を引かれて水槽から遠ざかる。ぐんぐん引っ張られて遠ざかる、サイリウムのような色を散りばめた水槽が少し名残惜しくて、黒子は小さく振り返ってライトアップされたクラゲを一目見る。うたかた。海の月。水面に浮かぶとて消えてゆく泡は、黒子たちを見送るだけだ。

 大して変わらない体格なのに黒子と赤司の筋肉の差は一目瞭然だった。ぐいぐいと引っ張られる黒子を見て、きっと周囲の人々は子どもを宥める親のようだと微笑ましく見ているのだろう。迷子の子どもを見つけた親とでも言ったところだろうか。黒子はひとり思案する。果たして、迷子になっているのはどちらなのか。それとも、二人で迷子になっているのか。
 赤司は黒子に背を向けたままだから、黒子からは彼の形の良い後頭部しか見ることができない。燃えるような、熱い血潮のような真っ赤な髪の毛が歩を進める度に揺れている。ただ屋内で歩いているだけなのに、ふわふわと宙を泳ぐ赤い絹糸が彼の歩調の早さを物語っていた。

「こうやって」
「ん」
「君に手を引かれていると立場が逆転したみたいですね」
「…立場って?」

 黒子の突拍子もない言葉に、赤司は漸く足を諌めて黒子に振り返る。何が言いたいのか分からない。珍しく困惑の表情が見れて黒子は少しだけ満足した気持ちになっていた。

「ボクが君を誘拐したのに」



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