短編 | ナノ

 愛してるを何回繰り返したって、この思いのたけを全てお前に伝えることはできないんだろう。

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 床にぶちまけられた水。廊下に散らばって犬や猫に噛まれたみたいにぼろぼろになったティッシュの残骸。
帰宅して一番はじめに目に入ってきたのはそれらの惨状だった。雨でも降ったかのように、あちらこちらに広がる水たまりのような床を認めて、滑って転んでしまわないよう気をつけて床に足を付ける。住まいに一歩足を踏み入れると、普段は閉じられているありとあらゆる部屋のドアが中途半端に開いていた。およそ人の住んでいるような状態ではないだろう。メディアに取り上げられるようなゴミ屋敷とまではいかないが、このままの状態で生活を送り続ける人間は殆どいないに違いない。しかし、ゴミの回収や床に散乱する水の始末は先ず後回しだった。
 気をつけようにも、床全体に広がる水は避けようがなく。水分を吸ってしまった靴下を脱いで脱衣所に投げ込んでちらりと浴室を見遣れば、水が出しっぱなしになっているシャワーヘッドが浴槽に無造作に突っ込んであった。蛇口を捻ったのが一体いつなのかわからないが、表面張力すら超えて溢れだす水の具合を見る限り、相当な時間放置されていたに違いない。充満する冷たい空気によって、延々と流れ続けている液体がお湯ではないことを告げている。水風呂と化している湯船に浮いていた自分のものであろうシャツの回収も、現時点の優先順位は随分と低いので放っておくことにした。

 リビングの入り口の手前で羽が点々と落ちていて、それを一つ二つと数えながら半開きのドアに近づく。白い羽毛はいつか読んだ、異国の童話に出てくる、帰路を示す道しるべを想像させた。主人公である兄妹たちが落とした白い石は、月明かりに照らされて輝いていたという描写がなんとなく朧げに残っている。もしかしたら真っ暗闇の中でも自ずと淡く光るのではないか、なんてありもしないことが頭に過った。ここに落ちている白い羽が教えてくれる道はどこへ繋がっているのか。天上から天使を墜としてきたようだと思った時に浮かんだのは嘲笑か自嘲か。どちらも、自分では判別がつかない。そういえばあの童話の中で、主人公たちは帰り道を見つけられたのだっただろうか。遠い昔に今は亡き母が読み聞かせてくれた物語の結末は望郷の彼方で、思い出すことを放棄してしまった。

 部屋に帰るとそこは酷い有様だったが、特に変わったことはない。そこには俺たちの日常があるだけだった。

 割れた彼のお気に入りのグラスに、揃いのティーセット。よく使うカレー皿は恐らく壁に叩きつけたのだろう。磁器の欠片は明確な意思もなく壁や床で跳ねかえったまま、割れた瞬間そのままを切り取って存在するだけ。わけもわからず壊したい。そんな衝動的で、行き場のない、どうしようもないぬるま湯のようにもどかしい感情が伺えるようだった。四方八方に飛び散った破片は、無残で、どこかかなしい。壊れた陶器で何処か切ってしまったのだろう。フローリングには所々赤い雫が落ちた跡があり、時間が経ってしまった為に乾ききって濁った色をしている。
 窓際にぽてりと転がっているのは、普段は寝室にあるはずの白いカバーのかかった枕で。どれだけの力を奮ったのか分からないが、カトラリーを何度も刺した跡があり銀のフォークは直立したまま鋭い光を放っていてまるで凶器だと思う。例えるならクッションの惨殺死体だ。思い浮かべた比喩があまりにも笑えなくて、自分で思ったことだというのに背筋が冷える。こんな様子では包丁やカッター以外のものですら――例えばバターナイフだとか――仕舞わなければいけないかもしれないと何処か上の空の気持ちで考える。鏡や窓ガラスが割れていなかったことが幸いか。
 そんな風に落ち着いて考えている冷えた思考が、この状況に慣れつつあることを物語っていた。慣れは、悪循環の明示と示唆か、或いは的確な対処をする為の進化か。どちらでもあるようで、答えは他にあるような気もする。廊下に飛散していたのは枕の中の羽毛だったらしい。破れ目から窮屈そうに零れる羽は、誰かから毟られたようにすら思えてしまう。比喩にすぎない毟られた羽が誰のものであるかなど、言うまでもない。

 木製のカーテンリングはぱっきりと割れてフローリングに落ち、右側の白いレースカーテンがだらりと床に這っていた。
 部屋の中は厚いカーテンが閉め切られていて、合わせ目の隙間から少し外の光が漏れ出るだけ。ひっそりとした淡く仄かな月明かりはヤコブの梯子に似て非なるものだ。ここにいる空と雲の上からの使いは、二度と蒼い向こうに帰ることはないのだけれど。

 窓から少し離れた部屋の真ん中に白い塊がぽつりと在って、足音を立てぬようにそっと近づいた。白は無理に取り払われたレースカーテンの片割れだ。所々深紅の薔薇が枯れたような斑点があるそれはこんもりと山を形作っており、目を凝らせば微かに小さく小さく揺れている。迷子の子どものように膝を折って震えているのは俺の何よりも愛しく大切な人だった。

「ただいま」
「…」
「さあ、もう夜だよ。ちゃんと何か食べたか?」
「…」
「冷えているじゃないか。靴下くらい履けと言っただろう」
「…あかしくん」
「ん、どうした?」
「あかしくん、あかしく、」

 黒子テツヤ。俺の最愛の人。この部屋に住まう、俺の恋人。日々の生活を共にしている、永遠の伴侶。

 カーテンはシルクで出来たレース仕立てのものだった。その下から伸びる白い指先にはやはり血が滲んでいる。消毒もせず絆創膏も貼らずに晒された傷口は既に瘡蓋になりかけているものの、遠目に見ても痛々しい。然して大きな傷でもなさそうだったが、大方傷口も気にせず暴れたのだろう。掠れた血液のせいで彼のどの指もぱさついていた。
 戸惑うように、躊躇うように揺れて、此方へ手を伸ばすことを逡巡する細い腕を捕まえると、白い布ごとテツヤを羽交い絞めするかのような形で抱きしめる。小刻みに震える彼は、冷え症の癖に靴下も履いていなくて、纏っているのは昨日就寝した時そのままのパジャマだけだった。足先にも少し血がついているからあとで洗ってやらなければならないと、そうしてやることを当たり前のように思う。
 彼の身体は引き裂かれたカーテンの一番真ん中に値するところから包まっていて、白に阻まれてよく見えない水色がとても惜しい。不健康さすら覚える、あまりに白く少し乾燥気味の足の甲に指を這わせると、すっかり冷え切っていた。
 ささめく散り際の夜桜のようにちいさくか細く震える身体。ゆっくりと、やさしく、落ち着かせるように、宥めるように両腕で包み込む。彼の握り込んだ手には俺のワイシャツがあって、それは体育座りをしている彼の胸許でくしゃくしゃになって収まっていた。膝を抱え込んで小さく蹲るその体勢はこの世の一切全てを拒絶するような、世界から自分の身を守っているような、そんな必死さがあって。何からも、どんなものからも守ってやりたいと思うのに、こんな時だけ儘ならない自分の凡てを呪ってしまいそうになる。薄い絹一枚で一体何が守れよう。
 彼は小さく固くなって、恐怖している。一体何に?浮かぶだろう疑問への答えは知っていて、喉の奥で飲み下したから既に胃の中。それが劇薬か消化できるものなのかは知る由もないだろう。ただ、見て見ぬふり、知らないふりをしていた。そうすることしか、できなかった。

 彼のかんばせを隠す絹織物に、慎重に、壊れ物を扱う丁寧さでそっと触れる。この瞬間だけは何度遭遇しても慣れることはないのだろう、とひとりごちる。
 彼の瞳を真っ当から見ることは何度同じ行為をしたって心構えのいることで。蒼く澄みわたるどこまでも透明なアジュールブルーの緑柱石。そこにちゃんと俺が映っているか確認することには、いつだって恐怖が付きまとう。その篤とした手つきは、例えて言うなら結婚式で新婦のヴェールをめくるような、一種の神聖さすら覚えるもの。触れることは憚られるような、畏怖と畏懼と。感じる何かはそれだけではないのに、胸中に渦巻く感情はそんなものばかりだ。

「…口唇を噛みすぎだ」
「…」
「指も血だらけにして。ちゃんと手当てしないとだめだろう」
「……」
「泣いたのか?」
「…泣いて、ないです」
「跡が残ってるよ。塩辛い」
「、っ」
「口の周りも汚れているね」

 問いに対する嘘に応えるように、潮の珠が伝っただろう目じりに口唇を寄せれば予想した通り舌に塩分を感じる。ひく、と筋肉が動いたのは目許か、それとも彼の喉か。息を呑みこむ空気の振動と、睫毛が瞬(しばた)い瞬間が見えたから多分両方ともが正解だろう。青白いと言って差し支えない小作りな顔は、薄い皮膚の部分の血管をうっすらと透かしてみせる。視線を落とすと口元には唾液の零れた跡があった。ぱりぱりに乾いたそこにやさしく指先を滑らせ、ありのままを伝えると彼はぴくりと肩を揺らす。

「、な、て、」
「…ゆっくりでいいよ」
「なかった、…す」
「うん、深呼吸してから話してごらん」
「…うまく、息ができなかったんです」
「うん」
「くるしくて、どんなに息を吸っても足りなくて」
「うん」
「目の前が真っ白になって、胸が苦しくて、喉が窮屈で、」
「うん」
「君の匂いがどこにもなくて、」
「そう、」

 頑なにシャツを離そうとしない彼の指先に力が入ったのがわかった。宝石を嵌め込んだ瞳を俯かせ、伏せられた睫毛が空気を弾く。向き合った彼の膝が邪魔をするから、腰から掬いあげて掻き抱くように身体を引き寄せた。唐突な視界の変化に、縮こまっていた身体が一瞬だけより一層強張る。胡坐を掻いた状態の自分に彼が乗る形になったが、重さなんてそれこそ羽のようだったと言えよう。
 今は、寸分も離れたくなかった。一部の隙間も、許したくない。自分には、戦慄き顫える細い肩を強く抱きしめることしかできない。薄くて、頼りない、筋肉の付きにくい固い身体。それは二人で暮らし始めるようになって顕著になったような気がした。その事実を追及できないのは、何かから目を逸らしているのか、それとも現実を容認しているが故の至極当然な理だからなのか、確かめる術はどこにも存在していない。確かめたところで、それは何の慰めにもならないし、翳んだ(かす)んだ言葉の輪郭をなぞることすらできないのだ。

「あかしくん、」
「なあにテツヤ」
「、ごめんなさい」
「何を謝っているのかわからないな」
「部屋、ぐちゃぐちゃです」
「そんなことどうでもいいよ」
「でも、」
「明日二人で片付ければいいだけだ。そうだろう?」
「、だって」
「でもでもだってって、まるで駄々をこねる子供みたいだね」
「…ボク、子どもじゃあありません」
「そんなことより怒っているとしたら、そうだな。こんな風に怪我をして、身体を冷やして。そっちの方が怒ってる」
「それは、」
「テツヤはもう少し自分のことを大切にしてくれないと」
「…すみません」
「じゃあ明日の夕飯は湯豆腐にしてもらおうかな」
「…赤司君はそればっかりですね」
「可愛い我儘だろう?」

 漸く、吐息で笑ったテツヤの丸いつむじを布越しに撫でる。きつく寄せた身体が脈打っていることに安堵を覚えていると、子猫のようにするりと頭を擦り寄せられた。規則的なリズムの鼓動に安心するのはどういう意味なのか、考えたくはない。思考を放棄するなんて自分にあるまじきことではないかとも思うが、テツヤに関してはイレギュラーなことが多すぎるから今更だ。抱き寄せた身体があたたかい。その事実だけで幸福なのだから。

 彼を隠すカーテンはもう要らない。
 ぐちゃぐちゃの心に耐える為に握りしめたシャツも今は要らない。

 顔を隠す白を奪い去り、匂いなんて失せただろうシャツも取り上げて、物の散らばる床に放り投げた。宙を気怠げに舞って、かしゃんと壊れた食器に当たった音が聞こえたけれど気にするところではない。
 彼はされるがまま、俺の胸の中に収まっていて、泣きはらした瞼をゆらゆらと蕩揺わせていた。お気に入りの、柔らかく伸びる薄縹色の絹糸に指をくぐらせると、彼は伸びをするように目を細めて俺の手の感触を一身に受けている。以前、泥に沈むような眠りの縁、そんなぬかるみに落ちて行くのが怖いと言っていたが、俺の肌に触れている時は例外なのだと花弁のように微笑んだ穏やかな彼の表情を思い出していた。

「疲れただろう、ゆっくりおやすみ」

 とろとろと溶けてゆくように閉じるまなかぶらを撫でると、彼はゆっくりと微睡へと泳いで往く。星空のように輝く宝石が見えなくなるのは惜しいけれど、明日、開かれるその瞬間を一番に見るのだからと。名残惜しさから眦にひとつ口づけを落として痩躯を抱き寄せるに留めた。






「どんどんまっくろに汚れていくんです。どんどん、穢れて汚くなっていく。ボクは、醜い。知性も理性もない、けものみたいだ。そんなことを言っては例えられた方に失礼だとわかっています。ただ、今は便宜上そう言わせて下さい。きっと、ボクは人間ではない化け物なんです。醜い、というのは外見の美醜についてではなくて、人間の本質的な物についてです。浅ましい。賤しい。ボクは、赤司君の総てがほしい。そんな風に貪欲を通り越して業突く張りに強請って、ほしがって、駄々を捏ねているんです。ほら、赤司君を食らいつくそうとしている化け物みたいじゃないですか。そうは見えませんか。ボクは君から見て、不愍ですか?不幸ですか?そう思うのなら、それは君の主観ですね。……ボクは不幸なんかじゃない。ふしあわせでも、ない。そしてそれはボクの主観でもあります。君の主観はボクにとっての客観的で建設的な、健康で健全たる生活を送るための真っ当な意見ですか?そこには偏見も驕りも、傾きもないと断言できますか?既成概念に囚われるのは君の悪い癖だと思います。博識な君のことだから、オズの魔法使いというお話はご存知でしょう。嫌味でもなんでもありませんよ。君はボクの友人の中でも飛び抜けて頭が良い、とても真面目な人ですから。心から本当にそう思っていますよ。嘘なんかじゃありません。ええ、話を戻しましょう。ボクは、脳のないカカシみたいなものです。心のないブリキでもいいかもしれません。もっとも、彼らが求めていたものは最初からその身のうちにありました。だから、この例えが適切ではないことになんて、君はすぐに理解ってしまったことだと思います。彼らに足りなかったのは自信だけで、カカシにはドロシーを導く聡明な頭脳が備わっていましたし、ブリキも過去の恋人を愛慕い続ける普遍の心を持っていました。でも、ボクには何もない。何もないんです。赤司君が好きだと、彼を愛しているという感情の他に何にも持っていない。すっからかん。がらんどう。エンプティ。ボクの中には何も詰まっていないんです。そんなボクは、赤司君に相応しくないでしょう。泥の中で眠るように、頭がとても重くて、ボクが赤司君のことを好きなんだという事実しか考えることができない。幸福はどこにあるのか、そんなの決まっています。この部屋の中にあるでしょう。見えませんか?そうですか、君に見えるはずがありませんでしたね。だってこれは、ボクだけの幸福なんですから。ボク以外の誰にもわかるはずがないし、誰にも渡しません。理解すら、されたくない。きっと、君はボクが閉じ込められているとでも思って来たんでしょう?分かりますよそのくらい。でも残念ながらそれは間違いです。ボクは望んでこの部屋にいる。閉じ込められているんじゃない。ボクがこの部屋から出たくないんです。君はこの部屋を、まるでパンドラの匣のようだと言いました。随分な言い種ですし、大袈裟すぎます。でも、そうですね、この部屋は確かに開けてはならない匣なのかもしれません。しかし誤解してはいけませんよ。開けたばかりに不吉の虫が這いだすような匣なんかじゃない。何故?そんなの一つしか理由はないし、明白でしょう。だって、この部屋には、一塊の暗雲も、存在していないんですから。どうして災厄が飛び出すことができるでしょうか。この部屋のことを、君は幸福の果てだと言うかもしれませんが、荒廃した最果てにだってそこが幸福なら、存在するのはさいわいだけだ。それならば、そこにだって、さいわいが存在しているはずだ。そうでしょう。ボクは、そのさいわいだけが、それだけが欲しいんですよ」

 キセキの集まりにも顔を出さなくなったテツヤを心配して訪れた緑間に、テツヤは殆ど息継ぎもせずに言った。多分その言葉はテツヤの世界の概念で、発せられた音たちに彼の凡てが理詰めで言い尽くされている。
 テツヤは大きな思い違いをしていた。髪の毛の先から爪の端まで、全て彼に曝け出しても、まだ彼にあげていない隠しているものがあると思っている。そんなもの、一つもない。彼が思う程、俺には人としての荷物などそう多く持ち合わせていないのだ。しがらみも何もかも、全て放り投げてしまって手元に残ったのはほんの少しだけ。それはたった一つ「黒子テツヤ」だけなのに。

 上滑りして、意味を成さずに掃き溜めに消えていく慕情に価値はないというのか。
 焼却炉で燃やされ、朽ち果てるしかないというのか。
 愛していると、好きだと、彼への気持ちを伝えれば伝えるほど不安を煽ぐというならば、もう二度とその言葉を口に出さなければいいのか。

 俺の話す言葉が異世界の言葉であるかのようにテツヤは俺の睦言に耳を貸さない。甘やかな言葉を欲しがり、柔らかく笑んでそれを享受するというのに、本質的な部分でそれらすべてを、信用しても信頼してもいないのは、明らかなことだった。それなのに、自惚れでも傲りでもなく、彼は俺からの愛情を他の一切に目もくれずに求めている。愛情だけではない。欲しがっているのは、俺の全てだ。何もかもを頂戴、と、喚いて、詰って、最後には泣いて自分は汚れていると我に返る。壊れていられる方が、よっぽどましだった。
 嘯きも、偽りも虚像もなく受け渡したものを信じられない俺の恋人。
 全部あげる。激情だって、思慕も憧憬も、怒りの矛先、寂寞、慈愛の瞳も。全部俺はテツヤに預けている筈なのに、これっぽっちも伝わっていない。



 ある朝、珍しく俺よりも先に目を覚まして、ぼんやりとベッドの中心に座り込んでいたテツヤは焦点すら結ばない芒洋としたガラス玉をたたえながら言ったのだ。
 「ボクには君から愛される価値なんてない」と。
 あの時感じた、胸の奥底でとぐろを巻いてせりあがってきた澱んでいるもの。それがきっとこの世の絶望というものだろう。テツヤには、俺の気持ちなんて一ミリも伝わっていなかったというのだろうか。目の奥がちかちかして、燃えたように熱く胸やけするような濁流を止めることができなかった。荒れ狂う感情のまま、吐き出した熱い鉄のような言葉。その言葉は、刃というよりは伝えたいことを上手く表現できない子どもが泣きながら投げつけるぬいぐるみのようだったのではないかと思う。
「自分で自分を値切るな」
「お前の価値はオレが決める」
 縋るように、懇願を込めて怒鳴った時、視線も交えずテツヤが言ったのは「綺麗な言葉で誤魔化さないで下さい」という一言だけだった。ぼろぼろと水晶玉のような無機質で光を映し出さなくなったテツヤの瞳から涙が珠のように溢れていたのを、目を見開いてじっと見ていた。宝石がこぼれおちていく。嗚咽すら上げずに静かにただ、さめざめ雫を流すテツヤ。あまりに場違いな感情だとは思ったが、その光景は目が離せない程美しくて、彼がまるで精巧な造りの人形のようで、網膜に焼きつきこびりついたまま離れてくれない。
「ボクの中身はがらんどうだ」
 彼はそうも言った。空っぽなのだと。空洞なのだと。真っ暗闇がぽっかりと口を開けているのだと、彼は言う。それならば俺のありったけの全てで、その空洞を埋めることはできないのだろうか。テツヤへの凡ゆる感情は、その空白を埋めるに値しないものなのだろうか。
 彼の諦念だけが受け入れられず、俺は雁字搦めで溺れたままだ。彼の掴めない心の海のずっとずっと底の方で浮遊して、水を飲み続けている。
 神など、この世に存在していなかった。若しくは、無慈悲にも見捨てられたのだろう。何を捨てても、何を振り切っても、一番手にしたい物は掠めることしかできずに指の間からこぼれ落ちてそのまま。溢れてもおかしくないほど惜しみなく伝えた恋情は、まるで笊の目をくぐるようにすりぬけて地の底へ落ちていった。
 例えば幸福を瓶詰めにし雁字搦めに栓をして大切に大切にとっておいたとしても、一体それにどんな意味があるだろう。ふしあわせを感じる時に封を開けたらしあわせになれるのか。きっと答えを出すならば、その問いは否定されるに違いない。栓を開けた途端それは瞬く間にそこら中に霧散してしまうのだろう。ふしあわせを、しあわせが埋めくれると思っているなら大間違いだった。やわかくて、あたたかくて、おだやかな記憶が、どうして傷口を抉らないと言えるのか。ふしあわせと、しあわせでないことは同義ではない。そして、ふしあわせでないことと、しあわせであることも同義ではないのだ。
 


 明日は休みだから二人で買い物に行こう。天気予報は晴れだったから最寄り駅まで歩いたっていい。もし、雨だとしても二人をすっぽり覆える大きな水色の傘はいつだって準備万端で玄関で待っているし、曇りならあたたかい恰好をして並んで歩けばいい。割れた食器も、破れたカーテンも、裂けた枕も買いに行けばいい。直せるものは二人で繕えばいい。直せるものなら、どんなに壊したって、粉々になったって、一つ一つ拾い上げて繋いでみせるから、何をしたって構わない。そこにテツヤがいるなら、どこだって、こうふくが待っている。

 きっと明日も良い日だろう。変わらない毎日が飽き足らずやってくる。変わらなくたって、同じような毎日だって寸分違わず同じ日など一つもありはしない。俺は俺だけど、今日と同じ俺は二度とやってこないし、テツヤだって明日の思考も、瞬きの数も、漏れた吐息の色だってめまぐるしく変わっている。
 目を覚まして、おはようと頬に口づけて。そうして食卓に並び、一緒に朝食を食べる。向かい合えばきっとお互いの瞳にお互いが映っていて、自分が映り込んだ眼窩に口唇を落とせばくすぐったそうに身を捩り、それでも頬は触れ合うあたたかさに柔らかく緩むだろう。
 買い物に出かけて、買い物袋は二人で半分ずつ持つ。そのまま散歩をして。カモメの雲が浮かぶ青い空、道路に落ちる楓、ひまわり畑の中の麦わら帽子、揺れる木々にさえずる小鳥の声。夜は湯気の立つお茶を飲んでから布団に入る。冷えたシーツを二人の体温であたためながら彼の細い躰を抱いて夜を明かすのだろう。そしてまた明くる日に俺が仕事に行くと彼はまた何かに耐えきれずに嘆いて啼泣し、詰まる呼吸に耐えながら物の散乱した部屋で俺の帰りを待っている。壊して、直して。二人で片付けて。時々何をしているかわからなくなったとしても、テツヤがまるで透明になって水蒸気のように消えてしまうのではないかという錯覚を視ることもあるけれど、全てただの幻想だ。一緒に見て聞いて触れて感じた日々に灯ったあたたかさに嘘偽りなどなかったはずなのだから。そこで感じた幸福も、まやかしではないはずなのだから。

 不幸ではない。彼と共に在れることが、どうして不幸と言えようか。待ち望んだものの形も大きさも忘れてしまったのに、きっと来る、明日は来る、なんて信じていてもそんな継続に意味はないし、不確かな何かを思うより彼の少し低めの体温を感じながらゆるやかな惰眠を貪る方がよっぽど素敵な子守唄に違いない。それを否定するなら、この現状の間違いを、懇切丁寧に教えてほしい。もう、頭が痛かった。しあわせの方和は、頭痛をも齎すらしい。

 裸足で飛び出していったって、二人の往く先はどこにもないだろう。こんな夜を本当にずっと待ち望んでいたの?疑問を投げかけてくる鬱金と猩々緋の瞳は、マジックでぐちゃぐちゃに塗りつぶした。
 例えこの部屋に世間一般の人並みの幸福がなかったとしても。俺たちにとって、この箱庭にあるものが幸福のすべて。
 この箱を開けてどうなる。この部屋の中の幸福以外の一切なんて忘れてしまった俺たちに、意味のあることだというのか。パンドラの匣のように、数多くの災厄だけが外にあふれ出て、希望と期待だけが残るとでもいうのか。そもそも、俺たちの入れ物には、幸福しか詰まっていないというのに。

 眠りについた彼の寝息はとても静かだ。微かな胸の上下が呼吸を教えてくれる。彼の胸にぴたりと耳を当てて、生きていることを認めると漸く自分も眠り就く。日に日に濃くなってゆく彼の下目蓋の隈をなぞった。泣き腫らした薄い皮膚は薄ら赤みを帯びていて、アンバランスなコントラストを保っていた。

「ねえ、テツヤ、」

 共に迎える朝を手放せない俺の弱さを許しておくれ。