短編 | ナノ

※ナチュラルに同棲している
※社会人のようだ
※赤司君は一人称オレ、人格は俺僕融合っぽい、テツヤ呼び
※赤司君がキス魔









 多忙を極めた時に気まぐれに吸い始めた煙草。特に好んで吸うわけではないがそれの量が増え始めたのはいつからだっただろうか。
 元々は付き合いの飲み会にいけばどうしてもついてしまう匂いが嫌だと思う程度に嫌煙家だったはずで。学生時代は運動部だったし、今でも継続的に身体を鍛えているせいか、二十歳を過ぎても喫煙したいと考えることはなかった。気晴らしなら他にいくらでもあったし、特に必要もないのに身体を痛めつける趣味もなく、自然と喫煙という選択肢が手元から消えていた。

 身体に悪影響を与えるのはよく知っている。所謂ヘビースモーカーという程でもないし、煙草外来に通わなければいけないレベルの喫煙量ではなかった。
 一ヶ月に一箱消費するかどうかという量が、いつの間にか一ヶ月二箱、二週間に二箱とどんどん増えて行き、今では一週間に二箱くらい。それが世間的に見て、酷く多い量ではないとわかっていても、スパンが短くなって行くそれを自覚すれば多少まずいのではないか、という意識も生まれる。

 ただ、多少危機感を覚えながらも、別にやめられないわけではないと思っていた。ただ、同僚があまりにも美味しそうに吸っているものだから。どんな味がするのだろうかとほんの少し興味が湧いて手を伸ばしただけだ。特に美味しいだとか特別な何かを見出しているわけでもなく、吸わないと禁断症状が出るわけでもない。
 ふと不定期に訪れる繁忙期に吸ってしまうのはわかっていたから、意識さえすればやめられると思っていたのだ。

「また吸ってきたんですか?」

 喫煙する時は絶対に外だった。隠しているわけでも隠れているわけでもないが、喫煙してから帰宅したオレにテツヤは必ずそうやって聞く。
 外でしか吸わないのは副流煙が主流煙より健康を害するのは周知の事実だからだ。テツヤににそんな思いをさせるはずもない。無意識に吸っていたとしても、その辺りを徹底しているあたり、自分の中での分別はきちんとついているらしい。

 初めて煙草を吸った日。帰宅するとテツヤはすんすん言いながらオレに近づいて、後ろから抱きついた。滅多に自分からそういったスキンシップをしないテツヤの珍しい行動に、もしやお誘いなのだろうかとドギマギしたが、そんなはずもなく。どういう心境の変化ですか?と言ったテツヤの声は、とても平坦な音をしていたと思う。
 会食や飲み会のあと、煙草や香水の匂いが付着してしまったスーツに消臭スプレーをかける彼は至極面白くなさそうな顔をしていたのは知っている。今まで煙草の匂いをつけて帰ってきても、オレが吸っているなんて微塵も思っていなかったようなのに何故気付かれたのだろうか。疑問はテツヤに透けて見えていたらしく、彼はそっぽを向きながら苦かったです、と一言。
 オレから剥ぎ取ったスーツを衣紋がけにかけると、そのまま顔を合わせることなくぱたぱたとキッチンに逃げ込まれたから。追い掛けて捕まえて、もう一回キスをした。
 苦いのは嫌?と聞けば、嫌でもすきでもないです、と言う。オレとのキスは?と聞けばじと目で睨まれて首筋に噛みつかれた。そんなテツヤの反抗に愛おしさと可愛らしさを感じて、噛み付くようなキスをお返しした。お菓子でもないのにテツヤとのキスはいつでも甘くて、まるで嗜好品のようだと心の中で笑った。

 キスが苦いというテツヤの感想に、気まぐれに喫煙した後は口臭ケアは怠らないようになった。ガムを噛んだり、食事後の口臭対策グッズを使ったり。吸う時は上着を脱いだし、匂いがついても帰宅したら消えていることの方が多かったにも関わらず、テツヤはオレが喫煙したことを気付かない日はない。

 いつでもやめられるさ、と言えば、つい無意識に手を伸ばしてしまうことを依存と言うんですよ、とテツヤはしかめっ面をする。それでも彼はやめろ、とは言わなかった。積極的に吸うのを止めろと言うことはしないが、彼は喫煙するという行為自体に良い顔をすることがなかった。また吸ってきたんですか?と。少し眉を下げて、困ったように、言うだけ。
 一度だけ、やめろって言わないんだ?と聞いたことがある。体調管理を怠っていないのはよくわかっていますし、自分の稼いだお金で自己責任で吸っている以上そういったことに口を挟むつもりはありません、と彼は答えた。やめろって言って欲しいんですか?と首を傾げて聞いてみせるテツヤの口元に浮かんでいた笑みの意図するところはわからなかったが、何故か無性にむかっとしたので、徒らに笑って弧を描く唇を塞いだ。抵抗するように、やっぱり苦いです、と言ったテツヤの声が耳の奥に残っている。

 テツヤが自分の健康や身体、その他諸々の心配をしているとわかるからこそ喫煙行為をやめようと思った。恋人のキスが苦いなんて褒められたものではない。ロマンチック気取りもいいところだが、オレはテツヤとの口づけに甘さを見出していたから、彼にもそう感じて欲しかった。
 意識的に無意識の改革を試みた結果は、と言えば結論としては成功した。
 しかし成功の代償なのか、悪癖が一つ。今度はいつの間にか唇を噛む癖がついていた。

 そんな癖がついたせいで、口唇はあっという間に乾燥する。乾燥している唇を舌で舐めるのは逆効果だと言うのは今日日、小学生でも知っていることだろう。
 水分によって油分を根こそぎ奪われてしまった唇はかさつき、ささくれのようにひび割れてしまう。取り敢えず、応急処置的な至極簡単な解決法としてリップクリームも購入したが、粘膜に近い部分に異物が付着する感覚にどうしても違和感が拭えず、ポケットの中で無用の長物と化してしまった。
 乾燥気味になった唇の皮をつい剥いてしまうからささくれだった部分から時々血が出てしまう。そんな様子を見たテツヤが、今度は困ったような顔をする。柔らかな流線型を描く水色の眉尻が少し下がって、伏せたまつげの間から覗くアクアマリンが、困った人ですね、と物語っていた。
 血を舐めとる仕種をじっとテツヤが見つめるから、血色の良い、見た目に反して意外と柔らかいそこに唇を落としたこともあるが、その時ばかりは鉄臭いです、と口を拭われてしまったのは記憶に新しい。彼の唇に移ったオレ血液は何故か扇情的で、吸血鬼みたいだな、と一言。その時、こっちの台詞ですと言ったテツヤの指先は、その口元の薄紅とは対照的に子供のようにオレ鼻をつまんだ。
 唇を噛み、乾燥してささくれ立ち、つい皮を剥いて出血して、また舐めてしまう。悪循環だとはわかっていても、今度はやめられない。
 気付いた時には血が滲んでいるということも多く、苦笑したテツヤに、リップクリームを塗りたくられることもしばしば。それを塗られるのは嫌だったけれど、多めに塗られたそれを分けるようにキスしてもテツヤは怒ったりしなかったから案外悪くないかもしれないと思った。そんなオレはとても単純な造りな脳をしているなあ、と心の中で笑った。


「だめですよ」


 血の滲むよりは少し赤みが少ない俺の下唇に触れてテツヤが言う。かさついた唇をなぞる細く白い指。つるりとした指の腹が一つ一つのひび割れを労わるように触れて、噛み締めていた歯のエナメル質をそっとこじ開ける。
 ゆっくりと何かを教えるようにひたりとくっついていた指が、スローモーションで離れて、人差し指が目の前にぴんとそびえ立つ。
 口唇の前に立てられたそれが、どうしてか美味しそうだと思ってしまった。

 気付いていた。多忙が喫煙衝動を誘うわけではないのだと。忙しさにプライベートが削られるせいでテツヤに触れられない寂しさが原因なのだと、最近になってやっと気付いていた。
 重ならない微熱が。薄い癖にふっくらと柔らかく瑞々しい、他の色相の希薄さに比べて鮮やかな紅色を添えるそこに触れられない時間が、ただ口惜しく、寂しかっただけなのだ。


「そんなに口寂しいなら、」

 ゆるりと口角を上げたのはどちらか。
 飲まれたその先の言葉を知るのはだあれ?