短編 | ナノ

ゆるやかに、おだやかに、降下してゆく。
何度だって君に恋をする。
飽きることなく、呆れるほどに、何度も何度も。
今までもこれからも、ずっとずっとそうだ。
それは曖昧な幻想でも虚像でもなくて、確固たる事実であり必然の真実だ。
激しく流れる波や、氾濫した激流の川のように。時に、寄せては返す夕凪の海や木漏れ日が燦々と照らす深い森の奥、深々と降り積もる六花と同じ時の流れで。
形を変えても温度と速度を変えても、ずっと命ある限り永遠に繰り返し続けるだろう。

でも、それを永久に絶え間なく続けていくには、ボクたちは歳を重ねすぎてしまったし、お互いをあまりに知り過ぎてしまった。


「そんなこの世の終わりのような顔、しないで下さい」
「今生の別れじゃないんですから」
「本当に、情けない顔ですね」
「大丈夫です。遠い所へ行くわけじゃありません。いつだって会うことができるじゃないですか。一緒に出かけたり、ご飯を食べに行ったり、バスケだってできます」
「ボクたちはきっと、笑って普通に話せますよ」


二人で囲んだ食卓。どうせキセキのメンバーが押し寄せるからと大きめのダイニングテーブルを買ったが、オレとテツヤの座る場所は決まっていて。向かい合って、手を合わせて食べる食事の美味しさに気づき、つい箸が進んだ。それを見て、君って意外と沢山食べますよね、と笑うテツヤに悪いのか?と訊いたら美味しそうに食べる君が好きですよ、とさらりと告白されたのは一緒に暮らし始めた最初の頃の話。
越してきた時に、場合にもよるがカーテンから自分で揃えなくてはいけないことがあることを知った。慌てて近くのホームセンターを調べ、二人でああでもないこうでもないと希望と料金に折り合いをつけて買った夜空のような藍色のカーテンは少し地厚だ。手洗いするのは骨が折れる作業だったが、天気のいい日に小さなベランダに干した時二人が感じた達成感。陽の光を思う存分吸ったカーテンを取り込み、あまりの手触りの良さに二人でうたた寝してしまった昼下がり。きっとあの瞬間、世界でいちばん贅沢でうららかな惰眠だったに違いない。
初めて組み立てたカラーボックスとホームセンターで買える本棚。背板を裏返しに取り付けてしまったから一度解体して作り直したそれには、本の日焼けを防ぐカーテンを二人で作った。裁縫なんて二人とも殆どしたことがなかったから、随分と試行錯誤して、所々糸が攣ってしまい歪つな出来のそれはなんとなくずっとそのままにしている。ろくに型紙も作らず両端から二人で同時に縫い合わせたりしたから縫い代が合わなかったのに、これも手作りの味だと言ったのはどちらだったか今となっては思い出せない。陽の光で褪せたその布に愛着があったのは確かだろう。
少し窮屈だったセミダブルのベッド。冷え込む冬に身を寄せ合って眠るには丁度良くて、茹る夏はどうしても寝苦しかった。それでも、どんな蒸し暑い熱帯夜だって、背中を合わせて、或いは背中を抱え込んだり腹に抱き着いて。オレたちは飽きもしないで毎夜、少しも離れることのないようにくっ付き合って眠った。大きなベッドが買えるだろうお金が貯まっても、新しいベッドを買おうとどちらとも言うことがなかったのは、多分そういうこと。寒い夜に擦り寄る冷えたつま先も、触れ合うことで共有した熱やじわりと滲む汗も不快だと思ったことは一度もない。
あまり広くはなかったけれど、並んで洗い物や料理を分担したキッチン。ガス台の掃除の仕方がわからなくて四苦八苦したこともあったけれど、今では換気扇だって掃除できるようになったので、重曹とお酢は大掃除の際の友人である。どちらが使ってもまな板を削ってしまいそうな包丁遣いだったことがとても懐かしく思える。

一見何も変わらないように見える部屋のどの場所も、ほんの少しずつ殺風景になったと感じるのは、テツヤの物が悉くなくなったからだろう。
床に平置きされる量が増える度、本棚を増やすほど沢山あった本の山も本人の手で殆ど処分されてしまった後だった。
手元に残したのは、少し肉の薄い手が握る特別大きくも小さくもない鞄に数冊だけ。
テツヤの小説やら新書やら古書店で買ってきた不揃いの図鑑や百科事典がごっそりなくなった本棚は、所在なさげな寂しさを添えてぽつねんとそこに佇む。
こまごましたテツヤの物がなくなってしまったお陰で、あっという間に彩りが消え失せてしまった侘しい空間。
元々持ち物の少ない自分の私物だけでは、この部屋はこんなにも葉を落とした木のように寒々しく見えるものかと他人事のように思った。
まるで質の悪い群像劇形式の映画を流し見しているようだった。

並んでいた色違いの歯ブラシも、ソファにかかっていた少し毛羽立っているお気に入りだと言っていたブランケットも、少しずつゴミ袋へ棄てられていくのを、昨日までずっと見て来た。
ゆっくり、一つ一つ吟味して。
まるで宝物を名残惜しんで処分するかのような、それでいてとても凪いだ瞳をして、テツヤは淡々とその行為を行っていた。
直視はできなかったから、その眼に躊躇いがあったのかどうかはわからない。
残った荷物は、鞄たった一つに納まる程度。
友人の家に泊まりに行くかのような荷物にまとめるのに一か月程かかっただろうか。
その荷物は何度見ても高校生のお泊り会のような気軽さでしかない。

テツヤの首元には黒いマフラーがある。
テツヤはマフラーを巻くのはとても下手くそだった。
それは付き合い始めたころからずっと変わらなくて、今ももこもこと歪つにまるまっている。
カシミヤ100パーセントのそれは、本来オレの所有物だった。
ある、霜の降るような冷え込む日。天気予報を見誤って鼻の先と白い頬を赤くしながら隣を歩いたテツヤに、嫌がるところを無理矢理押さえ込んで巻き付けてからは実質彼のものになっていたそれ。
むずむずするから苦手なんですよね、と言っていたのが嘘のようにテツヤは寒さが厳しくなるとそのマフラーを手放さなかったなあと思い出す。

お願いがあるんです、なんて突然言ってきたテツヤ。
わざわざ畏まって、これもらっても良いですか、と言うからつい、今更だろうと返したのは昨日のこと。
オレの返答に、目を瞬かせた後、眩しいかのようにゆっくり、そっと瞼を伏せてありがとうございますと笑った。
色素が全体的に淡く透けるかのように抜ける白をした彼の肌。特に薄い皮膚をしている部位であるまなかぶらに、青白く血管が透けていたのが何故か強く目の裏に焼き付いて離れない。
最後のお願いです、とぽつりと呟かれた言葉に、とても返事をすることはできなかった

ただ、少し関係の名称が変わるだけです。
何でもないことのように俯き加減でテツヤは言う。
玄関先で靴紐を丁寧に結ぶ彼の頭頂部。ふわふわと髪の揺れるちいさなつむじをじっと見つめた。
狭い狭いと言っていた玄関。
テツヤの靴が一足もないその空間は狭いことには変わりないはずなのに、どうしてだろう。とても広く感じて声が響くような気がした。


「この部屋の外にも、君のしあわせは色とりどりたくさん溢れています」


だから心配しないで、と。おだやかに、静謐な安寧さを以て、やさしく淡く。テツヤはわらってオレの手に触れる。
握られた手のひらに感じる熱は、いつも通り少しひんやりとしていた。
恐る恐る、伸ばした指先を、テツヤは拒まない。
冷え性で細くはあるがそれなりに節のある指の温度を忘れないよう、指の腹でなぞって、肌のあたたかさを確かめた。

「でも、」

開いた口がやけに乾燥している。
喉がひくりと震えて、上手く呼吸が出来る気がしないから意識して肺に酸素を取り込んだ。
吐息が空気を震わせる音がやけに脳内で響く。一瞬外界の音など何も聞こえないみたいにそればかり繰り返されるから眩暈がしそうだと思う。
酸素不足だと脳が訴えているのに、呼吸は浅い。

その手を引いて、ほんの数秒だけでも抱き締められれば。柔らかな頭を掻き抱いて、撫でることができれば。
いくつもの願望と希望が浮かんだけれど、どれもぽっかりと空いた真っ黒な空洞の深淵を埋められないことはわかっている。
欲しいのは一瞬じゃなかったから。

約束はない。
縛られてはいけませんからと言っていたが、既に雁字搦めで手遅れだとも思う。
それでも、言葉でテツヤを縛るのはただの気休めにもならないのだろうと頭のどこかで理解していた。

自分の背の向こうで、空が紺碧から白んで行くのがわかった。
カーテンの隙間から漏れ出る陽光が、朝がやってきたことを告げている。
朝一番の電車で、テツヤが行く先をオレは知らない。
知ってしまっては、会いに行ってしまうことなど容易にわかっていた。
いつか来て下さいね、と困ったように笑ったテツヤの声の色を、思い出すことができなかった。
朝が彼を連れ去ってしまうのならば、星が瞬かない真っ暗闇でもいいからこのまま二人で夜に熔けてしまえたらいいのにと本気で思う。


ドアの向こうでコオロギが鳴いている。
いつの間にか蝉の命の謳歌は終わっていて、八年の長いようで短い一生は尽き果てたのだと知る。
夏はとっくに終わっていた。
秋はあっという間に過ぎ去って、厳しい冬を連れてくる。
終わりの季節である、生きとし生けるものが終焉を迎えるであろう物悲しい冬を一人で迎えた時、オレの心臓はきっと凍てつくだろう。
寂しさと冷たさと、耐え難い孤独に冬の眠りにつく心臓がいつ目覚めるかなどわからない。
それでも、例え息ができなくなっても呼びたい名前を口にすることさえかなわないなら。
そのまま目覚めずに幸福な日々の夢の中でまどろんでいられたらいいのに。


「明日、目が覚めたらこの部屋にテツヤはいないじゃないか」


じゃあこの部屋で感じたしあわせはなんだったの。
喉の奥で引っ掛かったその先の言葉を飲み込むと、テツヤは絡めていた指先をゆっくりと解いた。
想い出だけで、君とのやさしい日々の記憶だけでは、オレは生きていけない。



Hello,Goodbye.