短編 | ナノ

「ボクはあの頃、君を神様だと思っていました」

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 月のない夜、赤司と黒子は並んで歩いていた。照らすのは街灯の無機質な明かりばかりだ。真っ黒な空を散り散りに輝く星達がイルミネーションのように彩っている。吐けば白い息が、ほう、と漏れる。赤司の左手と、黒子の右手には一つずつ買い物袋が下げてあった。がさがさと音を立てるマイバッグの中には卵やこんにゃく、あげなどが入っていた。
 新月。それは月のない夜ではなくて、本来は朔のあとに初めて見える月のことを指す。月立ちの夜は、少し昏い。雲が流れても、雨がアスファルトを濡らさなくても、漆黒の空には星が微かに瞬(またた)くばかりで、夜の王様は宇宙の向こうにほんのひと時、隠れてしまう。
 雲間から顔を出さない夜空の王様。
 黒子は赤司と歩いた帰り道を思い出していた。ふたりで共にした帰路。あの時、空の一番高いところから赤司を照らしていた光のみなもとはどんな形をしていただろうか。満月ではなくて、どこかしら欠けて歪んだ円を描いていた気がする。
「暗月ですね」
「……星だけだと何だか心許ないな」
 空を見上げながら、真夜中の寒さに耐えてシンと冷える宵闇の中を歩く。オリオン、シリウス。冬に見ることができる星の名前を指折り数える。ベテルギウスとシリウス、プロキオンを結んで冬の大三角形を楽しんだ。オリオン座を繋いでどんどん点と線を伸ばせば赤い星、アルデバランに辿り着いて、欲を出してもっと遠くまで行くとすばるがある。星の名前は、少しずつ赤司に教えてもらった知識だった。大きな星を見つけると赤司は星の名前を導き出す。黒子はその名前を大切に覚えておいて、どんな星なのか、どんな神話が隠れているのか、宝物を探すように書物に訊いた。
 月がない日はこんなにも闇が深いものだっただろうか。黒子は心の中で疑問を投げる。吐き出さない疑問は、答えが導き出されることもない。きっと赤司なら正確に答えてくれるだろう。しかし、何故だろう。ぽつりと浮かんだ疑問を投げかけることはしなかった。
 氷の底のような寒さの走る夜に外に出ている理由は、温かいものが食べたくなったという、黒子の隣を歩く人物のわがままのせいだ。彼――赤司の好物である豆腐は冷蔵庫に常にストックしてあるし、季節柄、いつでも湯豆腐が食べられるようにだし昆布だって常備してある。もっとも、赤司は季節を問わず湯豆腐を食べたがったが、そんなことは今は問題になりやしない。すっかり彼を虜にしたこたつ。ぬくぬくしながらあたたかいものが食べたいとぼやくので簡単に湯豆腐でも作りましょうか、と言えばおでんが食べたいと彼は言った。材料もないし湯豆腐で我慢してくださいと言っても、どうしてもおでんが良いのだと駄々をこねる口ぶりは幼子のわがままのようだった。
 高校を卒業し、大学も半ばに差し掛かった頃、二人はどちらからともなく生活を共にするようになった。
 自然と。いつの間にか。気付いたら。
 そんな言葉が適切なようで、間違っているような気もする。暮らしを同じくした時、黒子が初めて作った晩餐は、彼なりに奮闘して調理したおでんだった。大根は火が通り切っていなかったし、こんにゃくは全然味が染みていなかった。初めて食した時に赤司が手間取った餅巾着は芯が残ったまま固く、調味料の分量を遠慮しすぎたのか全体的に味が薄かった。
 手料理と言える代物なのかわからない。しかし初めて過ごす二人の部屋で、黒子がおでんを振る舞ったのは確固たる事実だ。成功したのは唯一、ゆで卵くらいだったのも真実。「ゆで卵なら負けません」と言ったあの言葉は嘘ではなかったと証明できたが、その場に赤司はいなかったのだからその主張もさして意味はない。あの時赤司は何も言わずに、薄味というより殆ど無味に近いおでん――だしに浸かっただけとも言える具を食べきった。鍋敷きの上に置いた鍋が目の前に鎮座しているというのに、持っていた器を黒子に差し出して「おかわり」などとのたまうものだから、黒子は「どこの亭主関白ですか」と呆れたように笑ったのだ。

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 あの頃とはいつのことだろう。赤司は黒子と出会った時から今までの記憶を辿る。いつか共にした帰路を脳裏に浮かべて、月明かりの眩しさを思った。初めて口にしたおでんの味。赤司らしい中学生に似つかわしくない、ややもすると可愛げのないふてぶてしい感想を、黒子は柔らかく笑んで受け止めたことを憶えている。
 丁度あの時も、こんな寒さ染み入る二月半ばのことだった。握りしめたこぶしの強さも、吐いた息が触れる仄かなあたたかさも、まつ毛が凍るかのような凍てつく風も、赤司は昨日のことのようにありありと思いだせる。鮮明な記憶は、鼻の奥をツンと突くと何処か乾燥した冬の匂いまで蘇らせていて、描いた景色はあまりに鮮明だ。
 あの頃。黒子は自分から時期を正確にはしなかったが、赤司はなんとなくどの時期を指して「あの頃」と言ったのかを理解している。青さと、ぴたりとはまらないピース。誰が悪かったわけでも、誰が正しかったわけでもなく、或いは皆で道を外した訣別の少し手前。揺りかごのような柔らかさにあたたかさと、何処かこそばゆい感覚をおぼえた、虹霓(こうげい)が重なっていた一時。そしてまだ重なり合う為の準備をしていた出会って間もなかった頃。そんな時期のことを言っているのだろう。
 黒子に感じた一種の素質は嘘でも偽りでも、はたまた同情でも憐憫でもなかったし、でなければ二人はこうして幾年も共に時を重ねたりしていないだろう。指折り数えて、痛ましかった記憶がいつの間にかシーグラスのように角が取れ丸みを帯びていることからどれほど年月を重ねたのかを知る。
 結局、あれから赤司は黒子の家で夕食を共にすることはなかったし、黒子も黒子家のおでんの味――もといゆで卵の腕を披露することもなかった。理由は言うまでもなく、ステンドグラスが太陽の光を浴びて乱反射させるかのような彩り鮮やかな日々があっけなく終わりを告げたからだった。

「君はボクの狭い世界の、小さな神様でした」
 ムッとしないでください。身長のことを言ったんじゃありませんよ、と黒子は鳥が謳う様に心地よいトーンで言葉をつむぐ。赤司の身長は黒子よりも多少高いし、高校に在学していた頃よりも幾分か伸びている。中学時代の試合を共にしたキセキの面々よりは身長が低いことは認めていたが、それを気にしたことも、嘆いたこともない。当時バスケ選手として小柄であることは自覚的だったが、それがプレイの支障になったことは殆どなかったし、ダンクだってなんだって大抵のことは身長を理由に出来ないことの枠に入れたりもしなかった。別にムッとなんてしていない、と言えば、ハイハイとおざなりな返事が返ってきてそれこそ赤司はムッとした。
「君にはできないことなんて何一つない、全知全能を体現したような人間なんだと錯覚していたんです」
「……オレにだってできないことくらいあるさ」
「あの時も同じことを言っていましたね」
 ふふ、と黒子は笑みを漏らす。
「謙遜だなあ、と思いました。君は分かり易いから、嘘を言っているわけではないとすぐに分かりましたけど」
「おや、心外だな」
「ボクの台詞を取らないでください」
 ぶすくれたように言うその癖、内心、微塵も怒っていないことなど声色で筒抜けだ。
「分かり易いと言っても、そんな風に思えるようになったのは最近なんですけど、」
 言葉を大切に選び取るようにして、呼吸を置けば続きが途絶える。黒子は一瞬、薄縹色の澄んだ瞳を伏せると、何も持っていない空いたてのひらを真っ黒な空に翳した。月明かりのない夜では照らす光源もないけれど、黒子の青白く透けるような手の甲は極める寒さ故か肌の奥底から血色が滲んで赤みを帯びていた。
「あの時、君が珍しそうにおでんを見る姿とか、餅巾着に格闘する姿を見て、なんだか可愛いなあって思いました」
「可愛いと言われても嬉しくはないな」
「いつもボクに言ってるでしょう。そういうものです」
 仕返しだ、とばかりに黒子は朗らかに言う。黒子には可愛いという表現が似合っても自分には可愛いなんて表現は似合わないだろう、と思えば心を読まれたみたいにボクだって似合いませんからね、と言葉を投げかけてきた。
「読心術か何かか?」
「それもボクの台詞でしたね」
 懐かしいですね、と黒子は白い息を漏らしながら笑んだ。細めた視線の先には、壊れた硝子細工の日々があるのかもしれない。赤司は、緩めた瞳が何処を見ているのかを、確かめたりはしなかった。
「君の優しさに、僕は理由を見出せなかったんです」
 あの時は、君の感情が見えるようになっても、その喜怒哀楽の真意も経緯もわからなくて理解に苦しんだものでした。黒子はそう、ぽつりと零す。
 感情に理由や本当のところなど、必要なのだろうか。赤司は思案する。理由など、探せばいくらでもあるが、どれも後付けにしかならないような気がした。
 こうして二人で並んで歩いていることすら、赤司にとっては未だ夢見心地なところがあった。何でも持っているのに、何でも可能にすることができる力を持っているのに、赤司は本当のところで他者から愛される自信がない。他人から羨まれるものをたくさん持っていたとしても、それは赤司が心から渇望するものではなかった。
 家柄や能力、肩書きに容姿、全て赤司の持ち物であることは間違いないし、何もかもをひっくるめて赤司だ。しかし、赤司の根っこの部分にある、何処か不安定で揺らぎやすい、繊細で神経質な部分を受け入れてくれる人間はとても少ない。通常、赤司のそんな部分を見抜くことすら容易ではないのだから、それを許容するなど前提からしてもっと至難のことだった。
 黒子に愛されている。赤司はそのことをちゃんと知っている。疑う要素など、一つもないだろう。鉄仮面が時折柔らかく緩む瞬間を見るのも、寝汚い朝を共にするのも、くだらないことで喧嘩してお互いに小さないたずらを仕掛けるのも、ひとえに黒子が赤司を許容しているからに他ならない。それでも、巣食う不安はなんだろう。自分のことほど、自分ではよく見えないという話もあれば、自分のことなんて自分が一番わかっているなんていう言葉もよく耳にする。日本語は便利で矛盾だらけだ、と赤司は一人マフラーの下で笑った。
「オレのことを優しいなんて言うのは黒子くらいだよ」
 優しい、と言われるのに赤司は何処か照れくささを覚える。本質を、あまりに激しく偏った頃の自分を知っている者に優しいと言われるのは初めてのことではないだろうか。
 こそばゆさと感じた気恥ずかしさから、苦し紛れに発した言葉に黒子は微笑む。視線を向けずとも、表情がわかるのは吐息がおだやかな色を含んでいるからだった。
「ボクのことを分かり易いとか、見ていればわかるなんて言うのも赤司君くらいですね」
 存在感が異常なほど希薄な黒子の表情を奪ったのは他でもない赤司だ。鉄仮面。無表情。感情を秘める術を教えた。秘められた闘志と引き換えに、芒洋とした瞳は誰よりも雄弁に感情を語る。ウルトラブルーの瞳はいつだって生真面目で、真実のみを映し出していた。情感、心情、それらの起伏を隠す術を手ほどきしたのは赤司である。その赤司がどうして黒子の感情を知ることに苦難を覚えるだろう。もっとも、黒子の心の中を覗くことができても、溢れる彩りや寄せては返す波を全て理解することができるわけではない。だから、一度は離れる道を選んだこともあるし、こうして過ごす時を迎えるまでには時間がかかった。
 あの頃。
 黒子の口にする今と同じ季節のいつか過ごした過去。その時だって、差し出されたおでんの意味も、黒子が自宅に招待してくれると言った約束の真意もわからずにいたのだ。
「青峰君に、君はボクに対してだけ当たりがきついって言われたことがあるんです」
 寒い空気にこぼれる言葉を拾って、過ごした僅かな季節を思い返す。バスケだけでは気が合わないと言った紫原ですら、稀に体育館の真ん中でばててしまう黒子を安全な場所へと引きずりながら運んでやっていたし、苦手だとか人事を尽くしていないと黒子のことを評した緑間だって今日のラッキーアイテムはどうだとか、水分はマメに取るべきだとか母親かと思うほどに口やかましく世話を焼いていた。
 それに比べて赤司はどうだったかと言えば、黒子がばてたとしても手を貸すことに良い顔をしなかったし、倒れるたび、ハードな練習に嘔吐するたび、言葉少なに自分で立ち上がるよう告げるだけだった。帝光時代に一番親しくしていたと言っても過言ではない青峰からすれば赤司の行動は冷たく、きつく見えても仕方がなかったのかもしれない。
「君の優しさが、ボクの今を作っているんだと思います」
 目に見える労わりや、柔らかな言葉が優しさだけとは言えないでしょう。黒子はそう言って、反芻する過去の赤司を優しかったのだと言い続ける。真っ正直で、真っ直ぐで、真摯に物事に立ち向かう黒子に対して甘言を囁いたことはなかったが、やはり優しいと称されるのはどうしてもむず痒さが勝った。
「寒いな」
「そうですね」
 動揺に揺れる柔らかな部分を隠すように、苦し紛れに、遠い冬の黒子の言葉を真似れば、意図に気づいた黒子も同じように赤司の言葉をなぞった。
 これから緩むであろう寒さは今が絶頂期だ。深夜に連れ出したのは赤司だが、二月半ばの真夜中はどうしても冷え込む。いつの間にか黒子が朔の空に翳したてのひらは下げられていて、寒さに固く握り込んだ空いている赤司の手に黒子の指先が触れる。代謝が違うことや、元より黒子が末端冷え性気味なことも相俟って、合わさった指先は赤司のものより随分と冷たかった。
 冷えた指の腹をなぞって、あたためるようてのひらを重ねる。
 駄々をこねれば渋々ながらも聞き入れてくれる距離を幸福というのなら、赤司は確かにしあわせを享受していた。隣で、相槌を返してくれる、冷える肌を共有できる関係を、これ以上に愛しく思えることはないだろう。手を伸ばすことのできなかった白い空間は、今はもう存在していなくて、どう転んでも寒い外気の中でもあたたかく感じるのは黒子が隣にいるからだ。
 あの時、一番近くて遠かった数十センチの距離は、どこにもない。今日も二人は手袋を持ってきてはいないけれど、かじかむ指先をすり合わせることはしなくて良かった。スポーツバッグを握りしめていたてのひらは、今ではゆるく互いの手を重ねて指を絡めることができる。
「ずっと君に訊こうと思っていたんです。お豆腐が好きなんですかって」
 訊く前に、君と過ごすうちにその答えは知ってしまいましたけど。黒子は絡めた指先にほんの少し力を込めながら、ぽつりぽつりと吐息混じりにその心の内側をこぼしはじめる。
「何が好きか、どんな味が良いのか、訊くまでもなくいつの間にか分かってしまって、ボクはその距離が嬉しい」
 食卓に並ぶのは、黒子家の味ではない。当然、おでんが夕食に並んだことのない赤司家のものでもない。ではどんな味だというのか。一時京都に住んでいた赤司の味覚を尊重しつつも、黒子の好みやネットで評価の高い隠し味などでアレンジを加えた二人だけの味付けだった。料理の要領も、包丁の使い方も、野菜の切り方や味付けも、全部と言って差し支えないほど赤司の腕の方が大抵のことに於いて腕が数倍上だが、ゆで卵だけは絶対に黒子の仕事だ。初めての晩餐で披露されたゆで卵の腕前は、豪語するだけあって天下一品だった。黒子がゆで卵を腕によりをかけて振る舞うと言ったことも、初めて食べた黒子のゆで卵の味も、赤司は忘れてはいない。
「ボクのゆで卵の腕前はどうでしたか?」
 今日も豆腐を入れよう。返事にもならない具の提案をすれば君はそればっかりですね、と呆れた声を滲ませる。しかし、きっと黒子はリクエストに応えてくれるだろう。知らなかった味。二人は、二人だけの食卓の味を少しずつ作り上げている。
 綺麗なお月様が見えないので、今日のゆで卵は半分に切りましょう。答えの代わりに黒子は軽く繋いだ腕を振ってそう言った。
 神様はもう、黒子の隣にはいない。

【初出:2016.02.15 ふにこさんお誕生日企画合同誌へ寄稿その2】