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「邪魔をする。元才が帰って来たと聞いた」
都の片隅、昼間から賑わう酒家に、一人の男が足を踏み入れた。 声は、小さいながらも朗々と響き、店の奥にいた店主の耳にもしっかりと届いた。
「これはこれは。私が帰って来た事をもう知っていらっしゃるとは、お耳が早い」
店主がひょっこりと顔を出す。 尋ねて来た男のきっちりとした服装とは対象的に、店主の服装は旅人のそれで埃っぽくて薄汚れている。
「疲れている所すまないが、話がしたい」
「私もお話する事が沢山あります。諸国の旨い酒も仕入れて来ました。ゆっくりしていって下さい」
男は頷くと、店主に促されて階段を上がった。
「東方の戦線は、あまり芳しく無い状況のようですね」
元才と呼ばれた店主は言いながら盃に酒を注ぎ、俯いたままの男は、無言でそれを受け取った。
「私が口を挟むべき事ではありませんね。……それと、旅先で張韻殿に会ってきました」
「叔母上に?」
男は久しく顔を上げ、目を丸くした。 元才は男の正面に腰を下ろし、小さく頷きながら言葉を続ける。
「陛下の事を気にしてらっしゃいました。最近、体調が優れないとの話が、あちらまで流れているようです」
男は一瞬目を伏せ、思い立ったように立ち上がり、窓辺へと足を向ける。 窓は閉まっているが、それでも近くに腰を下ろし、外の通りを覗けた。 眼下には、街の片隅とは言えそれなりの人通りがある。 男はその人影を追いつ、小さく溜息を吐いた。
「令寧、余の命は長くない」
元才は「あっ」と小さく息を飲んだ。
「本来ならば、この場に立っている事すら奇跡と言えよう。幸い、身近に名医がいてな……痛みを感じなくしてくれている」
麻酔の類いに長けた女医がいると、風の噂で元才も聞いてはいた。 だが、痛みを取るだけでは、根本の原因の解決には程遠い。 それで名医と呼べるのだろうか。
「治る病ではないと聞いた。それで、最期に頼み事をと思ってな」
「最期など……いつでも宮中にお呼び下されば――」
元才は言葉を止めた。 冗談で言っているのではないと、雰囲気が物語っている。
「我が息子を頼めるか」
「太子を……私に?」
「頼めるのは、外の人間だけだ。宮中は皆……解るな」
こくり、と元才は頷く。 宮中の人間は皆、信用ならないと言いたいのだ。 いつからそうなったのか、多分誰にも解らない。だが、明らかに皆、面従腹背の様相を呈している。 あと一歩まで迫った統一の夢が、足元から崩れ行く間際にあるのだ。
「信用出来る人間は皆、いつの間にか戦線にある。今頼めるのは、お前しかおらんのだ」
男はゆっくりと立ち上がり、盃の酒を呷った。
「話したい事は話した。邪魔をしたな。もし……もし、天が許す事があれば、また、酒を飲もう」
病を持っているとは思えない程しっかりとした足取りで、男は部屋を後にした。 どこかでその病を見た事がある。 だが、元才がその事を思い出すまで、暫く時間がかかった。
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