比翼
 いつもならば決して近付かぬような裏道を、しかも陽はとうの昔に傾き去った暗闇の中。周顯岐は馬に跨り、従者一人と帰路を急いでいた。
 危うく役人の接待に引きずり込まれそうになった所を辛くも逃れられたのは良いが、予想よりも遥かに時間を喰ってしまった。
 最近この街の治安は良くない。
 物騒と言う程では無いにせよ、何か得体の知れない力の動きを感じるようになった。それは人間の憎の類いであるような気がする。
 特にこう言う裏道にはそう言った黒い何かを強く感じるものだ。
 だが、近道でもある。
 顯岐は迷わず裏道を取った。
 霈帝の没した当時の都の混乱時から比べれば、この程度の闇などまだ明るいものだ。

 不図、言い争う声に馬の歩みを止めた。
 どうして今宵はこうも危険に近付く選択をしてしまうのか、自分でもよく解らない。

「それで、お代も払えないのに俺を指名したって言うのか」

「お前が男だなんざ聞いてねぇ。男に支払う金はねぇ!」

 影から見ると、松明の下に二人の人影。すらりと背の高い色白の、どう見ても女にしか見えない者と、体格の良い無法者と言う風体の大男が言い争っている。
 どうやら娼と客のいざこざらしい。
 良くある話だ。
 顯岐は帰路を再び行こうと視線を戻した。

「てめぇが何者かくらいは知ってるぜ。東門守衛長サンよ。酒かっ喰らってこんなとこで女漁ってて良いのかい?」

 言われて大男の表情が強張る。
 顯岐は再び視線を二人に向けた。

「女漁って目星を付けたのが男で残念だったな。これがお上に知られたら大変だぞ……」

 美形が白磁のような腕を伸ばし、大男の懐を弄る。
 着物から出てきたその腕には、しっかり大男の財布が握られていた。

「口止め料としてもらっておいてやる。この程度で済んで良かったと思え」

 悪戯っぽく目を細め、美形が立ち去ろうと顯岐の方に向いた。
 目が合う。
 しまった。
 顯岐は真面に瞳を合わせてしまった事を後悔した。
 美形はじわりと顯岐の方へ歩み寄る。

「これはこれは、太常卿どの。貴方みたいな人も、こんな所に来るんですか。お供が一人で、お忍びかな」

 何故このような一般の人間が、役職にある人間の顔を知っているのだろう。疑問と、興味が同時に湧いた。

「仕事の帰りだ。嫌な人間から逃げてきたのだよ」

「それはそれは。急いでいなければ休んでいきませんかと誘う所だが、どうやら急いでおられるようだ。残念だが、引き留めはしない」

 一瞬顯岐の背後に目をやると、美形はふいっと踵を返した。
 顯岐も振り返ってみるが、何もない。

「君は何者だ? 何故私の事を知っている?」

 華奢な背中に声をかける。
 頂点近くから垂れ下がる長い黒髪が松明の灯りに照らし出され、艶やかに煌く。

「俺は一度、科挙に合格している。だが、今は見てのとうりさ。家柄やそれまでの役職に拘らないと謳いつつもその実、俺のような得体の知れぬ輩は仕官が出来んのだ。……あんたの事は、試験会場で遠目に見たんだ」

 合格したのに落とされた。
 はて、近年そのような人間が出たのは何年前の事だったか。

「君は、いくつだ?」

「俺は十六。科挙は三年前の事……」

 あぁ、そうか。

「あの時君は若すぎたんだよ、郭翼。今年の科挙は終わってしまった。どうしてもう一度受けようとしなかったんだい?」

 ぴたりと郭翼の歩みが止まる。
 そしてくるりと上半身だけで振り返った。

「俺は、まだ科挙を受ける資格があるのだろうか」

「ある。次の三年、私の元に来ないか。その間、このような仕事をせずとも暮らせるよう取り計らってあげよう」

 郭翼はふっと笑いながら俯いた後、小さく頷いた。
 

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