五
謄蛍の陣営には一刻と経たずして戻る事が出来た。 陣内はやはり、先程安葹が現れたと言っていた黒龍の話題で、やや騒然となっていたが、孟鐫は見向きもせず謄蛍のもとを目指す。
「昂孟鐫、只今帰りました」
孟鐫は謄蛍を前に、拱手をして畏まる。 謄蛍は馬上で、川の彼方を眺めていた。
「孟鐫か、大儀であった。対岸の賊徒どもは、現れた黒龍に辟易しておる。叩くのならば、今だな」
謄蛍は振り返る事なく、目を細めながら遠くの敵影を見詰めている。 孟鐫はその隣に歩み寄り、同じように視線を彼方へと移した。
「黒龍など……ともかく、敵の策は打ち砕きました。いよいよ、出陣の御命令を」
ふっと謄蛍は孟鐫の方を向き、にこりと微笑む。
「今回の指揮は、そなたに任せよう。その為に呼び寄せたのだからな」
言われた孟鐫は目を丸く見開き、あんぐりと口を開いて唖然とした様子を見せた。 然もありなん。 孟鐫の兵は二千を越える事は無い。 対して、謄蛍の預かる兵の数は一万。 そのような大軍を動かした経験など、無いのだから唖然として当たり前なのだ。
「なに、気負う事は無い。始めから大軍を扱うに、玄人などおらぬよ。私も昔は素人だったのだ」
「それはそうですが……」
と孟鐫は意地悪く微笑む謄蛍に向かって、溜息混じりに呟いた。 勿論、良い機会であるとは思うのだが、己のような若輩者には少々荷が重いではなかろうか。
「若い内は経験だ。さぁ、存分に指揮を振るえ」
反論しようとも、敵わぬ相手か。 孟鐫は諦め、謄蛍に突き出された指揮棒をゆっくり受け取った。
副将として謄蛍の友人である歴戦の士、惟嵩(イスウ)を向かえ、騎兵中心の部隊編成を行う。 川は馬で渡るのに調度良い嵩まで納まりつつあるが、徒歩では流れが速過ぎる。 騎兵だけでも全体で六千はおり、川辺に並んだ姿は圧巻と言えた。
「川を渡る。敵は先程の黒竜出現に動揺していて動けない。反撃体制が整う前に叩くぞ」
孟鐫は剣を振り上げ、息を巻く。 だが、せせら笑いを浮かべる将が目に入り、キっと睨む。
「この命は謄蛍殿が下した命と同等。聞けぬとあらば、ここで切る」
若人だと侮って見る輩が多いのは解っている。だが、一度受け取った指揮権だ。やり遂げねばならない。
「背水の陣とはまた、我々よりも脆弱な陣を破るのに必要とは思えませぬが」
孟鐫が睨んだ男は、意に返さず言い放っつ。勿論、孟鐫も引き下がる訳にはいかない。
「背水の陣を取るつもりはない。私は唯、川を渡ると言っただけだ。しかし、相手を脆弱と侮っておられると、後々痛い目を見まするぞ」
言って孟鐫は馬の踵を返した。
「孟鐫殿、あの者の言葉などお気になさらずに……」
すかさず近くにいた惟嵩が声を掛ける。 孟鐫は気になどしていないが、惟嵩の言葉は有り難かった。 惟嵩は四半世紀以上謄蛍と共に戦場を駆けた仲で、初代皇帝とも面識がある男だ。 本来ならば、指揮を振るうのはこの惟嵩でも構わないのに、孟鐫の副将として文句一つ言わないでくれている。それだけでも心強い存在だ。
「惟嵩殿、有り難う御座います。何としても、見返してやります」
孟鐫が低い声で力強く言うと、惟嵩はニッコリ微笑み、馬を引いた。 ← | →目次
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