四
「安葹(アンシ)、いるか」
孟鐫は馬を引きながら堰から少し離れ、小さく呟いた。
「ここにいます。謄蛍殿に、伝える事でもありますか」
先程木の上から聞こえた声が、今度は背後から聞こえた。 孟鐫は振り返り、姿を確認して微笑む。 声の主の男は背が高く、この国の人間の髪色と違い、少し茶色がかっている。 聞いた所によれば、海よりも遥か西の奕(エキ)と言う国の人間なのだと言う。 元々父親が交易を営んでこの国に来たらしいが、今は何故だか孟鐫の下で働いている。
「堰を壊す……しかるに、川から少し離れてもらいたい。移動が完了した後、狼煙で合図を」
「了解しました」と安葹は頭を下げ、その場を立ち去った。 今回のように伝令紛いな事から、間者のようにまで立ち回ってくれる男で、その存在は孟鐫の中でも大きい。 剣の腕も立つようだが、あまり戦場に立たないので見る機会が少ないのが残念だ。
二刻程待っていると、南東の空に一筋の白い煙が立ち上る。これで準備が調った。 堰の丸太数本に縄を括り付け、合図を出して思い切り引っ張る。 以外や簡単にその丸太は抜け、淀んでいた水がごぅっと大きな音をたてながら、残りの丸太を飲み込んで、一気に下流へと突き進んで行く。 今まで押し止められていた鬱憤を晴らすかのように、その濁流は濁竜の如き動きを見せた。
「これで、賊の水計は打ち砕いた……謄蛍殿の所へ戻るとしよう」
孟鐫は再び馬に跨がり、隊を率いて堰のあった場所を後にした。
果たして、雪解けの水で嵩が増えているとしても、これだけの水で水計など出来るのだろうか。 左手に流れる濁流を横目に、孟鐫は思案を廻らせた。 何か、別の意図があるように思えてならない。何か、別の……。 戦力を裂く事が目的ならば、賊徒のが寡兵である。堰の守備に兵を分けるのは得策とは思えない。 もし裂く事に成功したとしても、我々の部隊だけなら戦闘に支障は全く以て無いと言い切れる。 水計が目的でないとすれば、他に何の意味があるのだろう……。
「孟鐫様、空を」
安葹の声が、孟鐫の耳に入った。 言われた通りに空を見上げると、いつの間にやら黒い雲が立ち込めている。
「一雨来るかな」
雨が降れば、また水嵩が増す。あまり好ましい事ではない。
「そうじゃありません。南の空を、ご覧になって下さい」
孟鐫は木の上にいる安葹の指差す方向へと目を遣った。 すると如何だろうか。 しゅるしゅると、竜巻のような細長い物が、黒い雲の中へと吸い込まれて行く姿が見えた。
「黒龍が現れたのです。孟鐫様、見逃してしまわれましたね……」
安葹は言いながら苦笑している。 龍などと言った物は滅多に見られる物ではなく、吉兆の前触れとされる事が多い。
――我らの吉兆か、それとも……。
孟鐫は険しい顔で馬を進めた。
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