「安葹(アンシ)、いるか」

 孟鐫は馬を引きながら堰から少し離れ、小さく呟いた。

「ここにいます。謄蛍殿に、伝える事でもありますか」

 先程木の上から聞こえた声が、今度は背後から聞こえた。
 孟鐫は振り返り、姿を確認して微笑む。
 声の主の男は背が高く、この国の人間の髪色と違い、少し茶色がかっている。
 聞いた所によれば、海よりも遥か西の奕(エキ)と言う国の人間なのだと言う。
 元々父親が交易を営んでこの国に来たらしいが、今は何故だか孟鐫の下で働いている。

「堰を壊す……しかるに、川から少し離れてもらいたい。移動が完了した後、狼煙で合図を」

 「了解しました」と安葹は頭を下げ、その場を立ち去った。
 今回のように伝令紛いな事から、間者のようにまで立ち回ってくれる男で、その存在は孟鐫の中でも大きい。
 剣の腕も立つようだが、あまり戦場に立たないので見る機会が少ないのが残念だ。


 二刻程待っていると、南東の空に一筋の白い煙が立ち上る。これで準備が調った。
 堰の丸太数本に縄を括り付け、合図を出して思い切り引っ張る。
 以外や簡単にその丸太は抜け、淀んでいた水がごぅっと大きな音をたてながら、残りの丸太を飲み込んで、一気に下流へと突き進んで行く。
 今まで押し止められていた鬱憤を晴らすかのように、その濁流は濁竜の如き動きを見せた。

「これで、賊の水計は打ち砕いた……謄蛍殿の所へ戻るとしよう」

 孟鐫は再び馬に跨がり、隊を率いて堰のあった場所を後にした。

 果たして、雪解けの水で嵩が増えているとしても、これだけの水で水計など出来るのだろうか。
 左手に流れる濁流を横目に、孟鐫は思案を廻らせた。
 何か、別の意図があるように思えてならない。何か、別の……。
 戦力を裂く事が目的ならば、賊徒のが寡兵である。堰の守備に兵を分けるのは得策とは思えない。
 もし裂く事に成功したとしても、我々の部隊だけなら戦闘に支障は全く以て無いと言い切れる。
 水計が目的でないとすれば、他に何の意味があるのだろう……。

「孟鐫様、空を」

 安葹の声が、孟鐫の耳に入った。
 言われた通りに空を見上げると、いつの間にやら黒い雲が立ち込めている。

「一雨来るかな」

 雨が降れば、また水嵩が増す。あまり好ましい事ではない。

「そうじゃありません。南の空を、ご覧になって下さい」

 孟鐫は木の上にいる安葹の指差す方向へと目を遣った。
 すると如何だろうか。
 しゅるしゅると、竜巻のような細長い物が、黒い雲の中へと吸い込まれて行く姿が見えた。

「黒龍が現れたのです。孟鐫様、見逃してしまわれましたね……」

 安葹は言いながら苦笑している。
 龍などと言った物は滅多に見られる物ではなく、吉兆の前触れとされる事が多い。

 ――我らの吉兆か、それとも……。

 孟鐫は険しい顔で馬を進めた。

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