「ささやかだけど。」

突然電気が消えて、あわてて手元のスタンドライトを点けると、かろうじてその明かりの届くラボの入り口に、仕事を終えたばかりの彼女が立っていた。その左手の指先は、もう暗闇でほとんど見えなくなってしまっている電気のスイッチに添えられている。

「なに、ささやかって。」
「自分の誕生日も忘れるほど忙しいの?」

ブーツの踵を鳴らしながら、彼女がゆっくりと歩いてくる。暗くて顔が見えなかったけれど、きっとからかうときにはいつもそうするように、唇の右端をあげて微笑んでいるのだろう。

「覚えてるさ。頭がいいからな。」
「ばかね、その頭のせいでこんなことになってるのに。」

彼女が目の前までやって来ると甘い匂いが鼻を掠めて、もしかしたら、と一瞬期待した通り、彼女が丸い皿に乗ったフルーツタルトを目の前に差し出した。

「お誕生日おめでとう。リーバー班長。」

ほらはやく片付けて、と彼女に急かされるように書類をまとめて脇においやると、彼女はウェイトレスのように、丁寧にタルトを机に置いた。彼女は煙草を吸うときと同じようにジーンズのポケットからマッチ箱を取りだして、少し遅刻ね、と腕時計を見る。もう、夜の三時半だった。一本だけ立てられた蝋燭に火を灯し、スタンドライトのスイッチを切るとさっきよりも暗くなって、その辺から椅子を持ってきて隣に座った彼女の顔は揺れるオレンジ色の光に照らされている。

「今日外に行く用があったから、ついでにロンドンで買ってきたの。」
「そうだったのか。」
「なあに、もっと喜ぶかと思ってたのに。」
「あ、いや、まさかおまえが祝ってくれるとは思わなくて。びっくりしてた。」
「わたし科学班じゃないけど、記憶力はいいのよ。前にマリア様とお誕生日が一緒って、教えてくれたでしょ。」

そんな話、したのかもしれないけれど覚えていなかった。けれど彼女の誕生日が七月十五日で、聖スウィジンの祝日(この日に雨が降るとそのあとの夏はずっと雨になるの、と彼女は言っていた)だと覚えていたから、きっとそのときに話したのだろうか。彼女とは、知り合って九ヶ月になる。去年のクリスマスパーティーのとき、出席したはいいもののシャンパンも飲めず、それに前の晩は徹夜で疲れていて、バルコニーのベンチで座っていたところに声をかけてくれたのが彼女だった。俺は彼女の名前や彼女が通信班であることを知り、それきりもう親しくなることはないかと思っていたが、二週間後、新しいゴーレムを開発するチームで一緒になった。夏になるまでは週に三度は顔を合わせて、ゴーレムが完成してからは昼休みに会えば一緒にランチに行った。重そうなヘッドフォンを着けて何百もボタンのある機械をいじったり、素早く信号を打ったりする彼女は少し勝ち気でかっこよくて、けれど髪を切るたびに似合ってると俺が言うと照れくさそうに笑って、なにも言わずにわざとらしく肩を叩いてくるところが好きだった。そういえば、七月の彼女の誕生日にはなにも贈れていなかった。なにしてたんだっけ。仕事かな。

「はやく吹き消して。」
「そしたらなにも見えなくなっちゃうだろ。危ないぞ。」
「じゃあ、危なくないように。」

彼女はそう言うと、俺の手をきゅっと握った。柔らかい手のひらは俺よりもほんの少しだけ冷たく、どうしてこれで大丈夫なんだと笑って手を握り返すと、はぐれないでしょ、と彼女も笑った。なんだよそれ、と、その顔をちゃんと見てから火を吹き消した。

「おめでとう!」
「真っ暗だ!」
「でもほら、月が明るいから。」

彼女の言うとおり窓の方を見ると、外から満月の光が漏れて、青白い光がぼんやりと広い部屋を照らしていた。そういえば、俺の誕生日にはいつも月が明るい夜ばかりが訪れるのだった。

「満月って不吉だけど、きれいね。」
「祝ってくれて嬉しいよ。ありがとうn。」
「どういたしまして。」
「今度おまえの誕生日も祝ってやるよ。すごい遅刻だけど。」
「それなら今日がいいわ。」
「今日?」
「……顔が見えないと素直に話せるっていうのは本当かしら。」

暗闇の中で彼女の髪が揺れたのが見えた。俺と繋いでいない方の手はシャツの襟をいじっているみたいだった。段々目が慣れてきて彼女の輪郭が浮かび上がり、それはまっすぐ自分を見つめているようだった。素直にって、なにか隠していることがあるのだろうか。それとも嘘でもついていたのだろうか。俺がなにか言う前に彼女はまたさっきと同じように明るく、けれどさっきまでよりもゆっくりと話しはじめた。

「部屋にワインがあるの。あなたがお酒飲めないのは知ってるけど、お祝いのひとくちだけ。どうかしら。」
「ワインかあ。」
「わたし、あなたに部屋に来てほしいの。ねえ……ためしてみない?」
「…………それは、」

どういう意味。全部言い終わらないうちに、彼女はもう片方の手もそっと俺の手に添えた。自分の声は途端に頼りないものになってしまい、それからためしてみないって、そういう意味。男にそういうことを言うもんじゃないと情けない声でようやく言うと、彼女はしれっと、あなたにだけよ。と言った。そして俺の左腕から肩、首、と順番にゆっくりと手で辿り、頬に手をそっと添えて、わたし、あなたのことちょっと好きみたい。と、掠れた声で囁くように言った。

「……それって、誕生日プレゼントはわたし、みたいなやつ?」
「ばか、あげないわよ。わたしがもらうの。おじさんみたいなこと言わないでよ。」
「ひどいな。」
「満月が人をおかしくするのも本当だったのね。」
「……ケーキ、おまえの部屋で食べてもいいか。」

そう言うと彼女はなにも言わずに、わざとらしく俺の頬をつねったので、きっと照れているんだろう。彼女の手を握って立ち上がり、それから手探りで彼女の肩を抱いて、ケーキも忘れずに手に持った。今さら顔に熱が集まってきて、だから暗くて本当によかった、もう蝋燭に火をつけることはせず、誰にも見つからないように、夜に隠れるように、ふたりがはぐれないようにして、部屋をでた。



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