※燐は中学生




俺はnが嫌いだ。
nは、ほんとうに嫌な奴だ。

「なに、泣いてんの?」

また午後の授業をサボって神社の裏で寝そべっていると、落ちた枝を踏みしめるぱりぱりという足音が聞こえて、顔を上げればそこにはnが立っていた。意地悪のn。人が言われて嫌なことを、完璧なタイミングで言うことにかけての天才。昔からいつもひとりで遊んでいて、仲が良いのなんてジジィくらいなもんだった。今日だって俺を笑うために、こんなところまでわざわざ探しに来たに違いない。

「泣いてねーよ。見りゃわかんだろ。」
「強がっちゃって。」
「強がってねーよ!」
「ムキになるところがまたガキね。」

あはは、とnは笑って、俺の隣に腰かけた。随分歩いたのか、首筋に汗が滲んでいた。今日は九月の終わりにしては暑い日だった。もしかして、こんなに汗をかくまで俺を笑うために町じゅう、俺がいそうなところを探しまわったのか。ほんとうに馬鹿だしひねくれてる。

「泣いてないなら、なにしてたのよ。」
「は?お前に関係ねーよ。てか帰れ。」
「あのね、わたしがなんのためにここに来たと思ってんの?」
「俺のこと馬鹿にしに来たんだろ。」
「馬鹿、用があるからに決まってんでしょ。そんなくだらないことのためにここまで来るかよ。ずいぶん自惚れてんのね。」
「なっ……!」

ムカつく!一瞬にして沸騰したような怒りがぐらりとやってきたけれど、nが長い髪をひとつに束ねはじめたのを見ていたら、熱がすっと引いてしまった。首筋につたう汗は化粧水のように見えた。nは、美しいのだ。色が白くて華奢で、ふたえの大きな目は涼しげで、薄い唇はいつでも健康そうな色をしていた。彫刻のようだったが、nはそれよりも覇気があって、エネルギーに満ちていた。賢くて、美しくて、教会で教わった戦の女神がほんとうにいるなら、きっとnのようなんだろうといつも思っていた。

「……なんだよ、用って。」
「わたしさ、高校やめるんだ。」
「は?」
「そんで外国いくの。」
「え、は!?どこに?」
「ノルウェー。」

nはなんでもないことのようにそう言って、髪を束ね終わると、鞄から小さい水筒を出してごくごく飲んだ。聞きなれない国の名前は歌声のようだった。nがいなくなる?遠くへ行く?嬉しいはずなのに実感が湧かないのか、それに俺はまだnが嘘をついているのかもしれないと疑っていたから、舞い上がるような気持ちには全然なれなかった。急に蝉の声とか、鋭い日差しとか、夏の植物の匂いとかが目の前に押し寄せてきた。今日は真夏みたいに暑くて、さっきまで寝そべっていた背中は少し汗ばんでいた。

「いつ行くの。」
「来月。」
「なにしに。」
「色々。」
「それじゃわかんねーだろ。てかノルウェーってどこだよ。」
「神父さまに教えてもらいな。」
「ジジィは……その話、知ってんのか。」
「いま話してきたところ。」

どうやらこの話は本当らしかった。nは、ジジィのことでは絶対に嘘はつかない。昔からジジィのことを尊敬していて、いつも教会に来てはいろんなことを教えてもらっていた。そのときのnの顔はとても穏やかで、嬉しそうで、俺はそれをいつも遠くから眺めていた。

「…………悪魔って。」
「ん?」
「悪魔って、言われたんだよ。学校で。」

自分の声は消え入るようで、こんなこと、言ってしまった自分に静かに驚いていた。nがいなくなると思ったら、急に寂しくなったのかもしれない。馬鹿だと思う。でも少しでも、馬鹿でもいいから引き止めたかった。絶対に笑われると思った。でもそれ以上に、nがいなくなると知って今ようやく気づいたことは、それこそ馬鹿だけれど、俺はいつも、こんなことnに笑い飛ばしてほしいと、心のどこかで思っていたらしいということだ。

「そりゃ、あんな馬鹿力であんだけ暴れりゃ、悪魔って言われるに決まってんじゃん。」

nはぱたぱたとセーラー服に風を送りながら、静かな声でそう言った。いつもの、俺をあざ笑うときのとは違う、穏やかな声だった。てっきり大笑いされるのかと思っていた俺は動揺して、うっせーな、と言った声は弱々しく、蝉の声の隙間に消えてしまった。

「でも馬鹿ね。」
「だ、だからうっせーよ!」
「馬鹿、あんたじゃないよ。あんたのこと、悪魔って言った奴。」
「は?」
「こんなに心優しい悪魔がいるかって話よ。」

目の前のnは、いつもの覇気があって、なんでも蹴散らせるような戦の女神ではなかった。遠くから見ていた、普通の、十七歳の女の子だった。俺はあっけに取られて、もしかしたら見とれていた。

「あんたが悪魔だったら、わたしはなんだろうね。魔王?」

nは鞄を持って立ち上がると、スカートを払いながら冗談めかして笑った。そうして笑いながらこっちを振り返ったnは、もういつものnだった。

「……魔王ってお前、なにそれ、強そうすぎ。うける。」
「わたしは強いんだから、あたりまえよ。」
「なあ、お前いつ帰ってくんの。」
「わたしに帰ってきてほしいわけ。」

nは切れ長の目で、すべてを見透かしているようだった。俺の心も、自分の心も。聡明なnにわからないことなんて、ないように思えた。俺は言葉に詰まって、結局なにも言えなかった。馬鹿な俺にはわからないことだらけだった。nは少し微笑んで、燐、と囁くように俺の名前を呼んだ。

「……なに。」
「元気で。」

nは俺の頭をくしゃりと撫でて、俺が表情を読みとる隙も与えず、すぐに踵を返して眩しい緑の中へ消えて行ってしまった。

nを追いかけてその手を取るのは難しく、あるいはとても簡単だった。俺はnに、ずっと優しくしたかったのだ。



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