『祓魔師って大変なのね。』
この間会ったときに彼女に言われた言葉をふいに思い出した。
腕時計は17:29を示している。僕はほどほど混んだ電車のつり革につかまって、さっき夕日が沈んだばかりの街を眺めていた。広がる住宅の屋根には太陽の余韻だけが映り、東の空にはもう星が光りはじめている。
彼女は、何気なく僕にそう聞いたわけではなかったと思う。僕の考えすぎかもしれないけれど。
開けてある部屋の窓からは、夏の終わりの涼しい風が流れ込んできていた。僕は畳に座って本を読み、彼女は窓の近くで爪を切っていた。
僕がページから顔をあげると、彼女は僕の方を向いていたけれど、目は見ていなかった。逸らされた視線の先にはたぶん、僕の左腕があった。その日の4日前、任務で軽い怪我をしたのだ。
「急にどうしたの。」
「どうもしないよ。忙しそうって思っただけ。」
彼女はすぐに手元に視線を戻してしまったけれど、言おうとしていたことはすぐにわかった。
今までにたくさんの人に何度も言われてきたことだ。わかる。彼女じゃなくたって。
ぱちん、ぱちん、
爪を切っていく音がさっきよりも大きく聞こえる。
電車を降りてから、歩いて7分。図書館の脇を抜けて人通りの少ない坂を上がれば、彼女のアパートが見えてくる。
彼女の住む3階の部屋のインターホンを押すと、扉の向こうからあわてたような足音が聞こえて、それからすぐに汚れた鉄製のドアがギギギと音を立てて開かれた。
「こんばんは。」
「どうしたの?」
「遊びに来たんだ。はい、これ。」
僕は手に持っていた大きな袋を彼女に差し出して、玄関の重い扉を後ろ手に閉めた。
玄関の棚では相変わらず、所狭しと並べられた外国のポストカードや、お香の入った小さい袋が薄く埃をかぶったままになっている。
「わ、なあにこれ。」
「おみやげだよ。」
「甘い匂い。ケーキ?」
「タルト。とびきりおいしいやつ。」
「本当に?ありがとう。私大好きなの。」
「そうだと思って買ってきたんだ。」
彼女は嬉しそうに袋をテーブルに置くと、ビニールの中からガサガサと紙の箱を取り出した。
狭い部屋の隅、この間まで扇風機の置いてあった場所に、小さなオイルヒーターが置かれていた。
「えっうそ。キルフェボン?」
「そうだよ。」
「やだ、高かったでしょ。こんなに大きいタルト。」
「まあ。」
大きな箱から出されたタルトはさっきまでの店のショーケースのとは違う、ダイニングの安い蛍光灯に照らされて、てかてかと光っている。
「半分出すよ。いくらしたの。」
「いいよ。それより紅茶を淹れてよ。」
「本当にいいの?」
「本当にいいの。」
彼女は少し不服そうな表情のまま、しぶしぶと白い食器棚を開けた。中にある大きい海苔の缶に、色んな種類のお茶がたくさん入れられている。
彼女の、裸足のままの足が冷たそうだ。
「ねえ。」
「ん?」
「こないだの話の続きだけど。」
「え、なんか話なんてしてたっけ?」
せまいキッチンを横歩きしながら、マグカップをふたつ食器かごから出した。順番に紅茶のティーバッグを入れていく。
僕は椅子に座って、キッチンに立つ後ろ姿に語りかけた。
「祓魔師はやっぱり大変だし、危険もあるし、学生との両立はすごく難しいよ。」
「そうでしょうね。」
「でも、いいことある。」
「例えば?」
「例えば、祓魔師は給料がいい。」
お湯が沸いた。彼女はコンロの火を止めて、底の焦げたステンレスのやかんを持ち上げた。
「だから君に会うときに、おみやげに高いタルトを買っていける。」
カップにお湯が注がれると、部屋中に紅茶のいい香りが広がった。
お揃いでも色違いでもないふたつのマグカップを、彼女が振り向いてテーブルに置く。
ビニール製の緑のテーブルクロスの上。タルトは無機物のように白い蛍光灯の光を反射している。
彼女は僕の目を見ていた。
「…美味しそうだね。」
僅かの間、カレンダーの横の時計の秒針の音が、部屋に大きく響き渡った。
勘のいい彼女は、僕の言おうとしていることに気づいたはずだ。
「そうね。」
彼女は薄い唇で小さく笑うと、食器かごから取り出した包丁でそのふたりには多すぎるタルトを丁寧に切り分けはじめた。
窓の外は、もうすっかり暗くなっている。
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