カルバリの丘 後編 (5/5頁)
ふ、と。目蓋を開けると、視界は薄暗く。
「っ…ぅん…?」
だんだんと覚醒していくと、体が動かせないことに気付く。
後ろから、熱い体に抱きしめられていた。
(――ゆき、お…?)
首の下にまわっている腕と、背中に密着している体から、とくり、とくりと、雪男の音が聞こえる。
とても、優しい音だ。
ふいに、さっきから感じている違和感のことを考えた。
雪男の体温が、俺より高いはずがない――
「っ雪男!?」
体を抜くようにして腕の中から出て、雪男の額や首に触れると、いつもよりずっと高い体温があった。
脳裏に、高熱を出して苦しんでいる、小さい頃の雪男の姿が浮かぶ。
「そうだ、薬…っ…?」
くん、と腕をひっぱられて、ベッドへと戻される。
「ごめん、起こしたか?すぐ薬持ってくるから。」
「…ぃ、」
「ん?」
「い、らな…ぃ」
苦しそうな声で雪男が呟いて、俺を見上げた蒼い瞳が不安げに揺れていた。
「雪男、でもっ、熱が…」
「…にいさ、…」
「そのままじゃ苦しいだろ。何か、食えるか?」
「ぃ…かな…で…」
眼鏡をかけていないその表情は僅かに幼く、不安そうに見上げてくる表情は、昔のままで。
汗で額に張り付いた前髪を、指で避けてやると、その手を掴まれた。
「大丈夫だって。お粥作って戻ってくるから。な?」
「いや、だ…!に、ぃさ…っ」
「っ、ゆ…きお?」
ぽろぽろと。次々と零れ落ちる涙に動揺する。
俺の手首を掴むその指は小刻みに震えていて。
「い、かな…で…!…どこ、にも…っ…」
しゃくりあげるようにして涙を流す雪男に腕を引かれ、震える腕できつく抱きしめられた。
とくり。
不意に自分の中で沸き上がった感情は、とても優しい温度で俺の中に染みていく。
「ゆき、…泣くな、大丈夫だ。」
「っにいさん…、にぃ、さ…」
「うん。…どこにも行かねーから。な?」
そう言って俺は、雪男を出来るだけ優しく抱きしめ返した。
きっと、どんなことをされたって拒めきれず、逃げ切れず、嫌いになれないくらい、俺は雪男が大切なんだ――
頭がぐらぐらして回っていて、暗い。
暗くて暗くて、必死に手を伸ばす。
自分よりも一回り小さな体を、縋るように抱きしめた。
兄さんが僕の熱に気付いて、兄さんが離れていった瞬間、とてつもない恐怖が僕を襲う。
「ぃ…かな…で…」
視界が滲んで、水滴が頬を何度も伝う。
カラカラの喉が引き攣れて痛い。
痛いけれど、僕に背を向ける兄さんが、怖くてたまらなかった。
行かないで。
傍に居て。
何もいらないから――
コントロールを失った体が、勝手な言葉を吐き、勝手に水分を零し、勝手に抱きしめた。
縋るように手を伸ばした僕を、逃がさないように抱きしめた僕を。
柔らかい腕が応えてくれた。
ねぇ兄さん。
僕はずるいんだよ。
だって今、熱が出てよかったって思ってる。
兄さんが、どこにも行かないと言ってくれたことが、
兄さんが、僕を抱きしめてくれたことが、
苦しさを越えて僕にしみ込んだ。
――確かにそれは、愛情の温度をしていた。
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