六花の (1/5頁)

「…ゆきお、っ」

僕の名を紡ぐ兄さんの声すら、今は苦しかった。



最後の賭けに負けた、否、負けることすらさせてもらえなかった。

優しく残酷な拒絶。

そっとベッドを降りると、黙って部屋を出ていく。

兄さんの声から逃れるように。










「おや…奥村先生、こんな夜更けに珍しい☆…どうかなさったのですか?」

全てを見透かすように、けれど全て覆い隠すような笑みをたたえ、気配もなく隣に降り立った男に視線を送る。

フェレス卿がそう言うのにも無理はない。日付も変わったこんな時間に、塾に居ることなどまず無い。

「…なにも。」

「ふふ…なにも、という顔ではなさそうですが?」

この男はどこまで知っているのか。
どこまで見ているのか。

月明かりは残酷にもいつもと変わらず美しい。

「フェレス卿、…どうしても手に入れたくて、どうしても手に入らないものがあるなら…あなたならどうしますか。」

不敵な笑みを浮かべ、彼は哂った。

「私なら…そうですねぇ………壊してしまいますかね。」
そう言って彼は、くるくると楽しげにその場で回転し、道化師のようにぺこりと一度だけお辞儀をして、すうっと影に消えた。

残された冷たい廊下で、また月を見上げる。
まるで僕を拒絶するかのように、雲が月を覆い隠した。










―壊してしまいますかね―

フェレス卿の言葉がぐるぐると頭の中を巡る。

ざわざわと血液が沸騰して逆流するような感覚。

まるで、悪魔の囁きすら聞こえそうなほどの、暗闇。

ふらふらと覚束ない足取りで、自分の研究室へと入った。



兄さんを守りたくて、始めた祓魔師の勉強、訓練。

何も知らない兄さんに、ただ尽くし続けることに疲れ果ててしまいそうになったのも、一度や二度ではなかった。

壁にぶつかるたびに弱音を上げそうになって、それでも兄さんの寝顔を見るたびに踏みとどまって。


中学に入った頃、兄さんを待ちうける運命のことをより深く知った時。僕はとてつもない恐怖と絶望と悲しみと共に、喜びと安堵を得た。

今の僕ではサタンの力に対抗しきれないという恐怖、世界中が兄さんを否定する絶望、本当は人が好きな兄さんが孤立する悲しみ…それと同時に生まれる、僕が祓魔師になる意味が証明される喜びと、兄さんには僕と神父さんしか居なくなるのだという安堵。

そうだ、安堵したんだ。あの時。

確信したその日、任務から帰って硝煙の匂いを落として。
まだ何も知らず眠る兄さんに、初めて口づけた―――



研究室の机に並ぶ、月明かりに照らされた試験管の中。
きらきらと輝く液体を眺めた。

僕が液体になってここに混ざることができないように、兄さんの心の中には「弟」以外の席がなかった。
「弟」として以外、兄さんの心に混ざることはできないのだ。


手を離せば、かしゃん、と高い音を立てて簡単に試験管は砕け散った。


壊してしまいたい。壊して手に入るのならば。


纏う硝子の壁を壊されても、未だ少しも変わることなく机の上で無垢に輝く液体に指先で触れる。
割れた破片でぷつぷつと指先が切れて流れた血は、決して液体と混ざることはなかった。

「…でも、混ざれないんだね…ぼくは…にい、さんに、っ…っ、」

ぼたぼたと醜い涙が流れる。


僕は初めて戻りたいと思った。
兄さんを、「兄」として尊敬していたあの日に。
兄さんを、「兄弟」として守りたいと誓ったあの日に。


見たことがなかった表情を、声を、涙を見た日、僕は喜びに満ちていた。
兄さんの知らないところなんて一つもなくなればいいと思っていた。

だけど違うんだ。


「ぼくは…にいさんに、っ、りん、に、あい、されたい。」


家族として、兄弟として、――奥村雪男として。




けれどもう、あの日のような「兄弟」には戻れないのだ。


欲張った僕が受ける罰は、




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