崩壊の音(1/5頁)
※無理矢理 拘束 薬 洗脳 ハピエンではありません 注意
崩壊は、音も立てずに。
時計が示しているのは、もうすぐ日付が変わる時刻。
静かに部屋に戻ると、兄さんは小さな寝息を立て、穏やかな表情で眠っている。
ギシリとベッドを軋ませ、布団を半分ほど剥して上半身を晒させると、体重をかけないように布団ごと兄さんの腰に跨った。
アンプルの中の液体を注射器へと移す。
注射針の先から空気を抜くと、月明りに照らされた白い首筋を見降ろした。
「…さよなら、今日までの兄さん。」
そう小さく呟いて、注射針を兄さんの首筋に突き立てた。
チクッとした痛みと、冷たい何かが体の中に流れ込んでくるような、そんなよく分からない感覚に目を覚ました。
「ゆ…きぉ…?」
すぐ目の前には雪男が居て、けれど窓から差す僅かな月の光だけでは表情までわからなくて。
また僅かな痛みと共に、首筋から引き抜かれた何かが、月明かりにキラリと光った。
「おはよう、新しい兄さん。」
すぐ近くで、息がかかるほどの近くで、雪男が優しく笑う。
「な、に…?」
『あたらしい にいさん』って。なんだ、それ。
寝起きで回らない頭を必死に動かして考えるけど、答えなんて出るはずない。
ゆっくりと、けれど一瞬でゼロになった距離。
微動だにできないまま、雪男の唇が、自分のそこに重なった。
「っッん!ぅ!?」
何を間違えたのか、弟に、キスをされている。
必死に抵抗するように暴れさせた手は、すぐに雪男の手に捉えられて、シーツに縫い付けられた。
いつの間にか追い越された背。いつの間にか自分より逞しくなった体。
ぎりぎりと手首を押さえつけられて、純粋な恐怖が生まれる。
壊して傷付けてしまう自分とは違う、その力。抵抗を封じる力だ。
意味が分からなくて涙がぼろぼろと零れる。
歪んだ視界で、近すぎて焦点の合わない視界で、雪男の眼が俺を射抜く。
冗談なんかとは程遠い、熱を孕んでいた。
「ぅう…!…ッは、」
顔を捩って逃げれば、雪男が黙ってジッと俺を見る。いやだ。雪男が何を考えてるのか、全くわらからない。怖い、怖い。なんだか頭がぐらぐらする。
「…足りないのかな…」
小さく聞こえた言葉さえ、何のヒントにもならない。
また近づいてきた唇を避けるように横を向いて固く唇を噛みしめた。
す、と離れた温もり。放された手首。
去っていく熱に、詰めていた息を吐いて、うっすらと目を開けてみた。
カタン、とベッド下に手を伸ばして何かを置くと、しゅるりと何かが擦れるような音がした。
暗闇に紛れる雪男が何をしているのか見えないが、腰の上に圧し掛かられたままで動けない体を捩る。
「っなに、」
ぐいっといきなり腕を掴まれて上半身を起こされると、そのまま抱きしめられるようにして、両手を後ろにひっぱられた。
「い、いたいっ!雪男っやめろよ!!」
雪男を押し退けるために伸ばそうとした手は、くんっと何かにひっかかったように動かなかった。ざらりとした何かに引っ掛かって、その手を動かすたび、逆の手は引っ張られるように引き攣れる。
「なんだよ…これ…っ」
きしきしと布が引き攣れるような音が聞こえる。同時に、ずんっと重くなる腕。
「暴れてもいいけど、特殊な縄だから暴れるほど辛くなるよ?」
馬鹿力と言われるほどの全力をもって戒められている縄を引き千切ろうとしたが、逆にぎりぎりとまるで縮むようにキツくなる。おまけに、縛られているそこから痺れてきて、どんどん腕が重くなる。
「や…ほどけよっ…ゆきお!!っわ…、なにっ…!?」
今度はしゅるりと回された縄で、胸の辺りを腕ごと縛られる。なんだよこれ。まるで時代劇に出てくる罪人みたいな扱い。冗談にしてもひどすぎる。
「なあっ、おれ、何かしたか?ゆきお、っ」
痺れる腕からだんだん感覚がなくなってくる。とんっと軽く押されただけで、俺はまたシーツの上へ転がった。
「っぅぐ、」
腕を後手に縛られたまま背中からベッドに落ちた俺は、自分の腕に背中を叩きつけることになって思わず息が詰まった。
背中を反らすような態勢から少しも動けなくて、唯一僅かに抵抗できる足をばたつかせた。
「暴れるんなら足も縛ろうか。」
焼かれるような熱い眼に射抜かれながら、凍りつくような冷たい言葉が体に刺さる。
「なんっで…っこんな、こんなこと、っすんだよ、ぉ…」
怖いのと、痛いのと、苦しいのと、分からないのでぐちゃぐちゃになって、情けない声が漏れた。
「…7つの時から僕は兄さんに、兄さんのために生きてきた。ずっと、何も知らない兄さんの隣で。」
ひくりと喉が揺れる。
数ヵ月前にやっと知った、弟の人生。ずっと気付きもしなかった、苦悩にまみれた人生。俺のために、普通の生活を捨てざるをえなかった、人生。
覚醒して、やっと弟のことを理解できたんだと思った。…思ってた。
「俺のこと、憎いなら、そう、言えよっ…こんな、こんなっ」
堰を切ったように溢れだした感情はどんどん増して、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。ひっひっと子供みたいに喉が勝手にしゃくり上げる。
「何言ってるの、兄さん。僕は兄さんを愛してるよ。」
『愛』。そんな優しい言葉を、俺が一番欲しい言葉を囁きながら。
俺の存在が疎いなら、罵声を浴びせればいい。殴るなりすればいい。
でもきっと、これが雪男の考えた、復讐なんだ。
父さんそっくりの大きな手が、髪を撫でる。
また目頭が熱くなって、視界が滲んだ。