いちまん | ナノ

スガが、誰かを見つめていることを知っている。その誰かを見つめるときに、きまって一瞬泣きそうな顔をすることを、知っている。多分誰も知らないそんなスガを、知ってる。
相手が誰かはよく解らない、だけどいつも躊躇うように視線を揺らして、一瞬だけそんな顔をするから、それを見るわたしもいつも何だか泣きたくなってしまう。

いつの頃からか、わたしだったらそんな顔させないけどな、と思うようになって、自分でも少しだけ戸惑った。


わたしが思うに、スガは恋をしている。やわらかい瞳の奥がそっと揺れる瞬間は、やっぱりビー玉みたいで綺麗だから。そして他の誰かに恋をしているスガのその姿に、わたしは恋をしてしまった。何ていうんだろう、こういうのって。ミイラ取りがミイラになる、みたいな。ちょっと違うか。

「みょうじって、いつも見てるな」
「えっ、…何を?」
「何ってそりゃ、ス──…」
「や、やっぱやめ!言わないでいい!!」
「そうか?」
「……なんで解った?」
「見てれば解る」
「嘘だろぉお…」

わたしの隣で苦笑している澤村は、高校に入って初めてできた友達だった。入学式の日校舎の中で迷っていたらたまたま通りかかったのが澤村で、わたしは勇気を出して話しかけた。体育館の場所を聞いた。高校で初めての先輩にびくびくしながら敬語で話しかけたら、澤村は「俺も新入生だけど」と笑った。「でもまぁ、体育館の場所は解るよ」

それ以来、わたしと澤村はとても深い関係で結ばれた友人なのです。うん、ちょっと、盛った。特別深い関係で結ばれてる訳ではない、かもしれない。でもまぁ(普段は)優しく気のいい友人です。

「…でもス、…あの、その人もずっと、見てるよね」
「え」
「誰かのこと、ずっと見てる」

そう言うと澤村は虚をつかれたような顔をして、それから困ったように頭をがしがし掻いた。あー、とか何とか、言いづらそうな声を出している。やっぱりそうなんだな。澤村とスガはとても仲がいいから、スガが見つめている誰かの話とかも、したことがあるのかもしれない。いいな、男の子うらやましいな、と思うけど、同時にもし自分が男の子だったら何だかちょっぴり寂しいような予感もする。

「…スガはな、何をうだうだやってんだか、って思う」
「……意外と厳しーこと言うんだね」
「これはあいつが悪いから仕方ないな」
「?」
「へこむなよ、って話」

こつり、優しい仕草で額をこづかれる。「へこむなよ」。今さら。澤村は優しいから、そんなことをわざわざ言ってくれるんだろう。「スガが他のやつのこと好きでも、へこむなよ」。つまりはそういうことでしょ。解ってるよ。解ってる。だって、ずっと、見てた。

「えっまっちょっ、な、何泣いてんだ?」慌てた顔の澤村がぼやけた視界に映ったとき、初めて自分が泣いていることに気付いた。あからさまに困っている澤村にごめん大丈夫、と言おうとして、でもその瞬間にまるでわたしを隠すようにわたしと澤村の間に割り込んできたその人にびっくりしてしまって、言えなかった。何で、だって、スガ、何でここに。

「何泣かせてんの」

普段の温厚な彼からは予想もできないような強い口調で、澤村にそう言ってからスガがわたしの手首を掴んで、小さく「おいで」と呟いた。そのままスガに手を引かれるままに歩き出す。教室を出る直前に振り返ったら、澤村が呆れたように笑うのがちらりと見えた。


スガの背中ってこんなに大きかったっけ、と見えづらい視界の中で思う。いつも澤村や東峰といるから目立たないけど、こうして見るとスガも十分大きかった。教室からわたしを連れ出したあと、スガは何も言わないで振り返らないでわたしの手だけを引いているから、わたしも何も言えないで着いて行く。いったいどうしちゃったんだろう。何となく、スガらしくないな、と、思う。

人通りの少ない階段裏まできたところで、スガが立ち止まる。必然的にわたしも立ち止まる。振り返る気配がして、慌ててさっきの涙を掴まれているのと反対の手で拭ったら、こっちを見たスガがこっちの手もやんわり包んで、止める。


「こすっちゃだめだろ」


スガにしては珍しく少しだけ、掠れた声で。それからさっきわたしを止めたその右手がするりとわたしの頬を撫でて、目に溜まったままの涙を優しく掬う。あんまりにも優しく触れるから、それだけでわたしはまた泣きたくなってしまうのだ。

「……スガ、さっきの話、聞いてた?」
「聞こえなかった。…大地に、何されたの」

誤魔化すように訊ねると、さっきまで酷く優しい声色だったスガが少しだけ低く呟くから、わたしもちょっとこわいなんて思ってしまう。未だに掴まれたままのわたしの右手に伝わる力がほんの少し、強くなる。

「な、何もされてないよ。澤村は悪くないの、わたしが勝手に、泣いちゃっただけ」
「…ほんとに?」
「ほんとに」
「大地が何か言ったとかじゃないの?」
「ちがう!澤村は優しくしてくれてたんだけど、わたしが勝手に」
「……まじかー」

はぁー、と息を吐き出したスガが小さく「かっこわるいな、俺」と呟く。

「みょうじが泣いてんの見たら、頭のなか真っ白になった」
「…え」
「泣くなよ、頼むから」

そう言ってスガが笑う。いつも誰かを見てるときのような、あの少しだけ泣きそうに揺れる瞳で笑って、わたしを、見る。わたし、を。

残酷だと思った。その顔でわたしを見るなんて、残酷だ、と、思った。だってそれは、スガが好きな人のことを見るときの顔なのに。見てられなくて思わず目を伏せた。じくり、と胸が痛む。だけど、しばらくしてから、スガがぽつりと言葉を落とした。

「……大地とみょうじ、仲いいし」
「…?」
「ほんとは、もっと早く、連れ出したかった。ずっと、みょうじに触んなよって思いながら見てた。みょうじが泣いたから思わず出てっちゃったけど、泣かなくてもそのうち邪魔しにいったかも」

顔を上げると、スガかわたしを見ていた。あの、やっぱり揺れる瞳で。ビー玉みたいで綺麗だと思っていた。掴まれた手首が熱い。わたしはもう、泣き出してしまいそうだった。


「好きだ」







いつもまっすぐに前を見ているなぁ、とは、思っていた。

授業が終わったあと、音楽室へ向かう背中を見るのが好きだった。昼休みも、放課後も。いつだって真っ先に教室を飛び出していく。待ちきれないのだ、と、いつだったか楽しそうに笑っていた。楽しそう。いつも、笑ってる。友達に囲まれて笑うその姿をいつのまにか目で追いかけてることに気付いたのは、いつだったろうか。

こっちを見てほしい、と、思っていた。

いつも前ばっか見てるから、俺は背中ばかり見てたから。俺がどんなに見ていても彼女は気付かない。こっちを見ろよ、と、思っていた。俺はいつからかもう、みょうじしか見えてないのに。

「お前らって、どうしてそう…」
「え?」

初めてそういうようなことを話したとき、大地は呆れたような困ったような顔をして溜め息を吐いた。大地とみょうじは仲が良い。何か俺の知らない話でもしたことがあるのかもしれないけど、大地が何を言いたいのかはよくわからなかった。

「お互い様だよな」
「はぁ?」

そのあとも大地は何で気付かないかな、とか何とかぶつぶつ言っていたけどやっぱりよく解らなかったから、解ろうとするのもやめることにした。大地は大人で頼りになるいい奴だけど、時々一人で全部解ったような顔するところだけは悪い癖だと思う。







「好きだ」


そう言ったら目を丸くして、うそ、とみょうじは呟いた。


。何があったのか解んないけど、ふと見たらみょうじが泣いてた、そしたらあとはもう頭じゃなかった、体が勝手に動いていた。

とっさに掴んだ手首があんまりにも細くて、少し動揺する。自分でも何してるんだろうって思うのに、みょうじは何も言わないでただ着いてくるから、もっと動揺する。

泣かないで欲しかった。いつもみたいに、笑ってて欲しかった。
でも零す涙が綺麗だとも、ぼんやり思った。


「うそじゃない。みょうじが、好きだよ」


俺の言葉は多分、焦ってるみたいに聞こえるんだろう。実際焦ってるし。あー、何でだろう、ほんと、考えてたみたいにうまくいかない。必死だ。みょうじの前だと、いつも、必死。

じわり、掴んだままの手首に俺の汗がついている気がする。だって、熱いから。でもその細すぎる手首が俺とおんなじように熱く感じるのは、気のせいなんかじゃない気がした。


うそ、なんて言うのは、残酷だ。こんなに、ずっと、俺、おまえしか見えてないのに。ほんとにおまえだけ、見てるのに。

友人たちと音楽を奏でる姿が忘れられなかった、体育で走り回ってんの可愛いと思った、こんなに。ねぇ、こんなに、俺、おまえがすきだよ、
熱を持った目が彼女を見つめる。油断すると折れてしまいそうな手首。二人だけの空間は熱い。空気が少しだけ揺れる。目と目が合って、みょうじがぽつんと呟く。


「……わたしも、」


あ、やっと、こっち見た。




imaged by ひなのさん

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