いちまん | ナノ

青。碧。あお。油絵具を筆に掬っては、キャンパスに乗せる。「乗せる」。たったそれだけの作業でわたしは世界を創り出す。

誰もいない放課後の美術室で、ひたすらにキャンパスに向き合う時間は多分、世界で一番やさしい。美術室の絵の具なのか何なのかよくわからない古くさい匂いが、心地いいと思う。

遠くの方から聞こえてくる運動部のかけ声。どこか薄暗い室内に射し込む西日。その中で世界を創り出す、わたし。真剣にキャンパスと向かい合っていたら、後ろの方でガタリと音がした。驚いて思わず振り向く。そこには、背の高い黒髪の男のひとが立っていた。校章を見ると、どうやら三年生らしい。それにしても変な髪型だ。


「…悪い、邪魔したか」

「え…と、何かご用ですか」

「今日の授業で、忘れ物したから」

「ああ」

放課後の美術室に美術部員以外で近寄る人など、普通はほぼ皆無だけれど。授業での忘れ物を取りに来る人はたまにいる。最初こそ驚いたけれど、彼がここに来た理由が解ってしまえばもう気にする理由はまったくないのだ。しばらく目の前の絵に集中する。青。みどり。きいろ。筆を持ち換えては絵の具を掬う作業。人が見ればただの絵なんだろうけど、わたしにとってこれは世界です。

しばらくしてから、もういなくなったとばっかり思っていたあの彼がわたしの真後ろに立ってじぃっとわたしの絵を見つめていることに気付いてぎょっとした。


「ど、どうしたんですか、忘れ物見つからなかったんですか」

「いや、あった」

「じゃあ何でまだここに」


そう尋ねると目付きの悪い二つの目がわたしを真っ直ぐに見据えた。


「見てたいから」

「は?」

「描いてるとこ、見てたい」


あ。

その時不意に気付いた。この人、どこかで見たことあると思ってたけど、そうだ。バレー部の部長さんだ。運動部的には主将?っていうんだろうか。何だっけ、名前。ええと。ええと。確か同じクラスの孤爪くんが、面白い呼び方をしていた。まるで猫みたいな、…タマじゃなくて、シロ、じゃなくて、……クロ。そうだ。この人。黒尾、さん。


「なぁ」

「なに…」

「講堂前に飾ってある絵、描いたのってアンタ?」

「え」


びっくりして、思わずまじまじと黒尾さんを見つめてしまった。何で。何でそれを、知ってるんだろう。

確かに講堂前の壁にわたしの絵が掲示してあった。あの場所は毎年授業中に生徒たちが描いたものの中から先生が選んだものを飾る場所で、今年選ばれたのはたまたまわたしの絵だった。それだけ。場所が場所だからなのか、あまり人の目に止まることもなく、ひっそりとそこに置かれているだけだったのだ。



「確かに、描いたのはわたしですけど」

「やっぱりな。色の使い方とか、そうじゃねぇかと思った」

「…よく見てますね?」

「まぁな。今描いてるそれは?どっかに飾んねぇの?」

「あ。ええと、これは部活で、趣味で描いてるだけなので…。一応文化祭で発表はしますけど」

「ふぅん。勿体ないな」


さらりと告げられる言葉にこっそり心臓が心拍数を上げる。勿体ないなんて、そんなこと言ってくれたのは黒尾さんがはじめてだ。

思わずちらりと黒尾さんの方を窺うと、絵を見ているものだとばかり思っていたその両目がまっすぐわたしを射抜いていた。どきり、もう一度心臓が強く音を立てる。


「…綺麗だ」


息も詰まってしまいそうな中で黒尾さんがふ、と溢した言葉。ただぼんやりと、見上げる。高いところから見下ろされている。わたしは座っていて、彼は立っているから、なおさら。だけど不思議と恐怖は感じなかった。優しいひと、だと思った。髪型は変で、目付きも悪くて、だけど、だけど。

目と目が合ったのは一瞬で、彼はふと視線を外して、「そろそろ行かなきゃなんねぇから、行くわ」と呟いた。そうだ、そういえば部活もあるのかもしれないし。


じゃあな、と後ろを向いたままでひらり、手を振る黒尾さん。あ、行ってしまう。どう答えたらよいものかと迷って、「ありがとうございました」と小さく言った。そう言うのも変な言う気もしたけど、でも、だって、褒めてくれた。「綺麗」って言ってくれたのが、どうしようもないくらい嬉しかった。

美術室から出ていくその背中を見送っていると、ドアに手をかけた黒尾さんがそういえば、と振り返った。


「アンタ、知らないみたいだから教えといてやるけど」

「?」

「三年は美術の授業はねェよ」

「……えっ?」

どういう意味ですか、と尋ねる前に黒尾さんは今度こそ美術室から出ていってしまった。一人取り残されたわたしには、その真意がつかめないまま。だけど何だか、やっぱり鼓動は馬鹿みたいに速かった。






ピシャリと背中でドアを閉めた。何も解っちゃいなさそうなあの、表情。思い出すと少し笑えてきて、同時に少しもどかしく思う。でも、まぁいい、今はまだ、それで。



講堂前に飾ってある決して大きくはないその絵が目に留まったのは、他でもない、自身が一番興味のあるものがそこに描かれていたからだった。「青春」と題されたそれは、紛れもなく、バレーボールをしている少年たちの姿だった。珍しいな、と思って、だってフツウ、バレーの絵なんか描くか?野球サッカーバスケ、せいぜいメジャーなスポーツなんてそんなところだと思っていたから。
でもそこに描かれていたのはやっぱりバレーで、素直にうまいな、と思った。それから優しい、と思った。うまく言えないけど、優しい絵だった。その色使いがすきだった。何時間でもこの絵を見ていたい、とすら思った。ただの絵を見てそんな風に思うのは初めてだ。


絵の下に、白い紙で名前が貼ってあった。描いたヤツのものだろう。2年3組 みょうじなまえ。

その名前を忘れることは、もうないような気がした。




偶然なんかじゃない、と体育館へ向かう足で考える。焦がれていた。ひたすらに、もう、ずっと。焦がれて、いた。

2年3組といえば研磨と同じクラスだよな、とか、でもアイツがクラスメートのこと把握してる訳がねぇよなとか、あんだけうまけりゃ美術部とかなんじゃねぇのか、とか。色んなこと考えたんだ、これでも。どうやったらあれ描いたようなヤツと近付けるか、それをずっと考えていた。それぐらいにはあの絵に惹かれていたし、入れ込んでいたし、


持っていかれた、多分表現としては、それが一番近い。あの絵と出会った、瞬間に。ぜんぶ持っていかれた。



美術室に行ったのは何かヒントぐらいはあるんじゃないかと思っただけで、まさか本当に会えるだなんて期待はそんなにしていなかった。それが。キャンバスに向かって絵を描くあの後ろ姿を見つけた瞬間、俺がどんだけ嬉しかったかなんて、彼女は知らないんだろう。何回だって見たからわかる、あの絵の作者と、同じ色。やさしさ。

忘れ物だなんて嘘吐いて、だけどそんな分かりやすい嘘でさえ信じてしまうような純粋さも、ぜんぶ、絵のまんまだと思った。絵を描いているときの幸せそうな顔が好きだと思った。さっき美術室を出る直前に見た、あのぽかんという間抜け面も悪くなかったけど。さてこれからどう攻めていくかな、と軽く伸びをする。顔は分かった、居場所も分かった。思わずニヤける口元を片手で隠す。廊下は蒸し暑くて、さっきまでの静かで涼しい空間がもう懐かしかった。ああ、夏が来る。もう一度みょうじの柔らかな表情を思い出すと、何だか少し、目眩がした。




俺が美術室に通いつめるようになって、なまえがバレー部の試合を見に来るようになって、それから、休みの日に二人で出かけたりするようになるのは、これからもう少し、先の話。





imaged by 香音さん

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