いちまん | ナノ

図書委員の仕事は基本的に退屈だ。休み時間や放課後を図書室でただ座って過ごさなきゃいけないし、返却された本を棚に戻しに行ったりしなくちゃいけない。カウンターの中でできることは少なくて、だからそこで過ごす時間はただただ長い。だけどわたしはこの落ち着く空間がすきで、だから割と率先してカウンター業務につく方だった。月曜日と水曜日と金曜日、人より多いカウンター当番。誰かが用事で出れなくなったときには真っ先に連絡がくるというおまけつき。そうこうしているうちにいつのまにか図書の先生から全てを任されるようになってしまって、先生に「わたし抜けるけどあと任せて大丈夫よね?」と笑いかけられて、一人ぼっちで図書室で過ごす放課後が増えた。


月曜日。

ああ、またいるな、と思う。

一週間のうち半分以上の時間を図書室で過ごしていると、顔馴染みも増えてくる。図書室はいつもの校舎から少し離れた、南館の1階にある。南館に入っているのは特別教室や使われていない空き教室が多く、普段の授業でここへ来ることはほとんどない。そんな立地条件の悪さからか、うちの学校の図書室はあまり生徒たちからは人気がなく、毎日数えられるくらいしか人がこない。

そうしているとやっぱり常連っていうのが決まってきて、貸し出し業務をしているので人によっては名前まで覚えてしまうくらいだ。毎日ここで勉強するのが習慣なのだな、というタイプの人もいるし、時間をつぶさなければならないような用事があるのか毎週水曜日の放課後だけやってくる人もいる。


そんな中で、ひとつ年上の菅原先輩は昼休みだけは毎日やってきているタイプの生徒だった。恐らく進学クラスなんだろう、きちんとした受験生らしく昼休みにやってきては定位置に座り、かりかりと鉛筆を走らせていた。名前を覚えてしまったのはその定位置がカウンターの目の前だから、という理由と、その中性的な容姿にわたしが一目惚れしてしまったから、である。たまに借りていく本はやっぱりレポートに使うんだろう勉強関連のものが多かったけれど、時々、趣味なのか宇宙の本なども借りていて、何だか可愛らしいな、と思った。それを読んで菅原先輩はどんなことを思うのか、いつか聞いてみたいような気はしていた。

「これ、貸し出しお願いします」
「あっ、はい」

差し出されたのは「ブラックホールのひみつ」というタイトルの本で、思わず顔を上げたら、カウンターの前に立っていたのは菅原先輩だった。「ば、番号、お願いします」緊張してしまって、すぐに目を伏せる。声は震えてはいなかっただろうか。菅原先輩が学籍番号をキーボードに打ち込むと、パソコンの画面には「菅原孝支」という名前が表示される。間違いがあっては困るので、マニュアル上ではちゃんと名前を確認するきまりになっていた。その制度を多分知っていたんだと思う、訊ねる前から菅原先輩が「菅原です」と名乗ってくれた。

わたしは緊張してしまっていたのだ。テンパっていたから。思わず、「し、知って、ます」と口に出してしまったのだ。

あ、しまった、と思ったのは菅原先輩の驚いたような顔を見てからだった。テンパってただけで、ふだんならこんな風に挙動不審に話しかけたりはしないのに。

ところが、菅原先輩は少ししてから、ふっと空気を揺らすように笑った。

「そっか、知ってたかぁ」
「あ、えと、その、」
「俺も知ってるよ。みょうじさん」

菅原先輩がわたしの制服に付いた名札を指差して、綺麗に微笑む。その瞬間、胸がぎゅうぎゅう鳴って、そうして、どうしようもないくらい、この人のことがすきだ、と思った。それはもう、どうしようも、ないくらい。息ができなくなってしまう。何とか貸し出し手続きを片付けたけれど、その日そのあとわたしがどうやって過ごしたかはもう覚えていない。何度もあの瞬間の菅原先輩を思い出していたような、気はしていた。



火曜日。

本来なら今日は当番の日ではないのだけれど、隣のクラスの女の子が「ごめん!昼休み補習入っちゃったの、代わってもらってもいい?」と頭を下げてきたので大丈夫だよと代わることにした。
ほんとのことを言うと、昼休みなら菅原先輩がいる、ということを思っては胸を高鳴らせてしまっていた。昨日少しだけ言葉を交わしたことを幸せに思っていた。

わくわくした気持ちで図書室に向かい、期待でどきどきしながらカウンターに座っていたのだけれど、昼休み終了5分前になっても菅原先輩は図書室にやってこなかった。

昨日の今日だ、もしかしてわたしのことを気味が悪いとか思ったんじゃないだろうか。だって全然知らない後輩が。知ってる、だなんて。嫌な想像が、消えない。


その日、結局菅原先輩は図書室に姿を現さなかった。




水曜日。

溜め息を吐きながら向かった図書室。今日も菅原先輩は来ないかもしれない。わたしは馬鹿だった。何であんなこと口走ってしまったのか。泣きそうになりながら一人ぼっちの図書室。わたしの他に誰もいない図書室。

静寂に包まれた図書室で、ただ、ぎぃ、と音がして思わず入り口の重いドアを見やる。見えたのは、ミルクティー色。あ、

「あっこれ、返却お願いします」
「……す、がわら先輩」
「うん?」

思わず呼んでしまった名前にも、一昨日と同じように笑いかけてくれる菅原先輩に安心して、少しだけ涙が出そうになった。歪んだ顔に気付いたのかもしれない、菅原先輩が「どうかした?」と不安そうに眉を下げて顔を覗き込んでくれる。

「も、もう、いらっしゃらないの、かと」
「え!?何でそんな」
「昨日はどうして…」
「え、昨日?」
「い、いらっしゃらなかったですよね」
「いや行かなかったけど…何で知ってるの」
「えとあの、わたし、当番、代理で」
「あー…そっか、昨日も、みょうじさんいたんだ」

じゃあ来ればよかった、とぽつりと呟かれた言葉に思わずうつむいていた顔を上げる。あのさ、と菅原先輩が言葉を続ける。こくり、頷いてみせる。

「俺、別に毎日来てる訳じゃなくてさ」
「…え?で、でも」
「うん、月曜日と水曜日と金曜日は来てる」

そうだ、わたしの当番の日はいつもいるから、毎日来ているんだとばっかり。火曜日や木曜日に来ないのは何か理由があるんだろうか。委員会とか?木曜日に集まりがあるのは何委員だっけ、とそこまで考えたところで菅原先輩がわたしを見つめていることに気付いて、ふと頭が真っ白になる。真っ直ぐな視線が、熱を帯びている。

「ほんとはさ、昼休みは部活の自主練とかもしたいし。何も毎日ここに来て勉強する用事もないしさ。俺は特別に読書が好きって訳じゃないし、ここに来んの、週3ですら多いくらいなんだけど」
「……ええ、と」
「でも、来たら、会えるだろ」

会えるって何だろう。それはつまり。もしかして。いやでもそんなはず。目の前がちかちかする。顔が熱い気がするのは、もう気のせいなんかじゃないのかもしれない。だって。だって。そんなまさか。


「ね、昨日、俺のこと、待ってたの?」


微笑みかける菅原先輩に、言葉がひとつも出てこなくて、ただ、もう一度、こくりと頷き返す。もしかして先輩わたしの当番の日知ってたんですかって、後で、聞いてみよう。それから、この本の感想も。いつかわたしも読んでみよう、少しでいいから解り合おう。だけど、今は、とりあえず。どんどん熱くなっていくこの瞳の温度を冷ます方法を、必死になって考えている。


imaged by 鈴さん


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