すきなひとがいます。 髪の毛は栗色。男の子にしては中性的な顔立ちをしている。泣きぼくろが色っぽい。綺麗だ、と、思う。いつも重そうなエナメルを背負っているから、多分、運動部。この辺で学ランということは、烏野に通っているらしい。 知っていることは、それだけ。 (──あ、) 今日も。 プシュー、と音を立てて止まったバス。いつものバス停で乗り込んでくる彼。ちらりと視線を走らせてはそっと目をそらす。あまりまじまじと見てはいけないような気がする。 毎朝同じバスに乗っているだけの、名前も知らないその人のことが、わたしはすきだ。まるで漫画みたいだ。そんなことが現実にも起こり得るんだなぁとわたしは他人事のように思っている。 彼は毎朝わたしの乗るバス停の、三つあとで乗ってくる。降りるのはわたしが先だから、彼の降りるバス停は知らない。だけど烏野生だとすれば、二つ先のバス停で降りているのだろう。 「──降りるの?」 一度だけ聞いた、あの涼やかな声を忘れることなんてできやしなくて。 その日、いつものバスは混んでいた。新学期だったのかもしれない。いつもそれなりに人がいるとはいえやはり朝早いので、満員なんてことはなかったのだけれど。その日はどんどん人が乗ってきて、わたしのようなチビは完全に人の波に埋もれてしまっていた。こんなことは初めてだった。 それでも何とか頑張って耐えつつ乗っていたところ、わたしは大変なことに気が付いてしまった。 ──このままでは、おりますボタンが押せないのである。自慢じゃないけどわたしは背が高い方では決して全くこれっぽっちも、ない。加えてただでさえ身動きがとりづらいほどの人だ。わたしの手はどこの方向にも遮られてしまって、停車ボタンを押すところまで到達できない。もうすぐでわたしのバス停に着いてしまう。困った。一つ先のバス停は人がたくさん降りる。これはもう一つ先のバス停で降りて、歩いて戻るしかないか、と覚悟を決めた、ときだった。 「降りるの?」 わたしの右隣に立っていた優しそうな男の子がわたしの方へ身をかがめて、言った。 わたしは何が起こったのかわからないままにこくこくと何度も首を縦に振る。その様子を見てその人はふはっ、と柔らかな笑いを落としたあとで、「待ってて」と相変わらず小声で言って、それから。かがめていた体を起こして、高いところにあるおりますボタンを押した。わたしには手が届きそうもない場所に楽々手を伸ばすその人を見て、背が高いんだなぁとぼんやり思った。 わたしは慌てて「ありがとうございます」と頭を下げた。いやいや、と胸の前で手を軽く振るその人はよく見ると見覚えがあって。あ、いつも同じバスに乗ってる人だ、とそういう風に思って、そのうちにバスがゆっくり停まる。最後にもう一度だけ軽い会釈をしてバスを降りようとしていたら、「気を付けてね」と、彼が囁いた。 単純かもしれないけど、簡単かもしれないけど、その瞬間からわたしは彼に恋をしている。 次の日、わたしはびっくりしすぎて叫び出しそうになる声を必死になって堪えた。 いつものように帰りのバスに乗ったら、彼も乗っていたのだ。普段彼と一緒なのは行きのバスだけだ。部活(しかも、多分、運動部)をやっているらしい彼とはそもそも根本的に帰る時間が違うのだろうと思っていた。 嬉しい。会えたからってどうする訳でもないけど。彼は後ろの方の席に座っていて、その一つ前の席が空いていたけど、何だか気恥ずかくって座れなかった。だってあの人の前なんて。逆だったら絶対座るなぁ、と思いながら降車ドアの前に立つ。 今日はどうして早いんだろう、と思いながら、とりあえず今日掃除当番じゃなかったことを感謝した。こんな幸運あるんだろうか。 彼のことをのぞき見する勇気もなく、ただどきまぎしながら立っているうちにあっという間に彼の降りるバス停に着いてしまった。それから、自分がドアの前に立っていることに気付く。このままでは、彼がすぐ近くまで来てしまう。どうしよう、と思う間もなく彼はやってきて、わたしの隣でドアを降りていく。いつもよりもずっと近い距離。そんなことだけで緊張して死んでしまいそうだなんて、我ながらどうかと思うけれど。 その時、不意に目の前の彼が何か落とすのが見えた。あ。彼はもうバスを降りてしまった。思わず拾う。黒い生徒手帳と一緒になった学生証。 「あ、あの!」 落としましたよ、と全身全霊の勇気を込めて呼び掛ける。ドアの向こうの一段低いところにいる彼に学生証を震えながら握りしめた手を伸ばす。振り返った優しい色の彼がわたしを見つめる。それから、手が伸びてきて、 意外にも力強いその手が、わたしの手の中の学生証を通り越して、わたしの手首を、掴んだ。 え? 驚く間もなくその手首をぐいっと引っ張られて、弾みでわたしもバスを降りてしまった。 え? わたしが地面に降り立った瞬間、もう待てないとでもいうようにバスはぷしゅーっと音を立てて扉を閉めた。 バスが走り去ったあとで、わたしはびっくりして、あれほど焦がれていた横顔を真正面からただただ見つめるだけ。バス停に二人きり、静かな中でやっぱり綺麗な顔だなぁ、とぼんやり思った。 「ごめん」 「え」 「学生証、ありがとう」 もう二度と忘れるもんかとあの時誓ったその声とやっぱり同じ声色で、彼がわたしに言う。また、声をきけるなんて。 でも、と柔らかく彼がまた口を開く。 「わざとだ、って言ったら、怒る?」 「え、な、ど、どうして」 わたしの口は緊張とドキドキでからからに渇いていて、もう全然上手になんか回ってくれない。まだ彼が掴んだままの手首は、熱くて。熱くて。溶けてしまいそう。栗色の髪の毛がこんなに、こんなに近くに。 彼はどうしようもない状態のわたしを見て、それから、ゆっくり、綺麗にわらった。 「拾ってくれるかなぁと思ってさ」 わたしの口からはやっぱり「え」しか出てこなくて、馬鹿みたいで、泣きたくなる。だけど彼はやっぱり穏やかに笑っているから。綺麗だと思う。思うまま。どういう意味ですか、とか、ずっとすきでした、とか、言いたいこといっぱいあるのに何も言えなくて、もう一度「え」と呟いたら「驚きすぎだよ」と彼が可笑しそうに笑った。 わたしのすきなひと title:魔女 ×
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