ハローミスターマイハニー | ナノ
授業が終わって、外に出たら空の色がちょうど変わるような時間だった。夕暮れ。夏の夕焼けは、なんだか切ない気持ちになる。最近は暑さもやわらいで、夕方にもなると少し涼しい風が吹いたりしていて、なおさら。一緒に授業を受けていた友人たちとぽつぽつ言葉を交わしながら、今日の夕飯は何にしようかなぁ、とぼんやり考える。何だかお米が食べたいような気もするなぁ。友人の一人が「わたしはパスタかな」と笑う。

「なまえ」

正門を出たところで、ふと聞き慣れた柔らかな声がわたしの名前を紡いだ。えっ、と思って、そちらを見やる。微笑みながらこちらに向かってゆるやかに手を振るその人は、何度見てもやっぱり。薄い色素、細身の体。見間違えるはずもない、え、何で、どうして、

「…スガくん!?」

駆け寄っていって「どうしてここに」と焦った声で訊ねると、ふふっと笑って、待ってた、と一言だけ囁いた。待ってたって、だってそんなこと一言も。びっくりしてただその人を見つめていると、後ろから「なまえ」と控えめに呼ぶ声がした。ああそうだ、友達が一緒なんだった。

「なまえ、なまえ、もしかしてその人が噂の彼氏?」
「えっなまえの彼氏!?あの!?」
「あ、えと、そう、彼氏の…菅原孝支さん、です」
「こんにちは」

嬉しそうに騒ぎ立てる友人たち(くそぅ、こいつら面白がってやがるな…!)にスガくんを紹介すると、彼も友人たちに目をうつしてから、ぺこりと頭を下げた。

「いつもなまえがお世話になってます」
「あっいえそんな、こちらこそ!」
「いつもなまえがお世話になってます!」

なるほど、友人と恋人が向かい合うっていうのはこういうことか。とても気恥ずかしい。自分のことで挨拶をされるのは、いつだってどうしていたらいいか解らなくなる。はしゃいだようにいつもより高い声で、口々にスガくんに声をかける友人たちによって、その気恥ずかしさは助長される。そのうち今度は友人たちの対象がわたしに向かって、ひそひそ声で話しかけられた。

「ちょっとなまえ、どうやってあんないい男捕まえたの!」
「ていうか、ほんとにイケメンじゃん!わたし8割方あんたの身内贔屓なのかと思ってた!」
「ね!すごい優しそうだし!」

矢継ぎ早に繰り出される言葉の数々をうんうん、と適当に受け流して、「そんな訳で悪いんだけど今日はここで」と切り出したらみんなが次々にわたしの背中を叩いた。「もちろん二人にしてあげるって!」「この幸せ者!」少しだけじんじんする背中をよそに、友人たちは軽くスガくんに頭を下げて、じゃあねー!と帰っていった。嵐のようだ。


いい友達だね、とその背中を見送りながらスガくんが笑うので、わたしもこくり、頷いておいた。そうなのだ、みんな、いい友達なのだ。

「ていうかそれより、急にどうしたの!」

でも今はとりあえず、それどころではない。そもそもどうしてこんなことになったかって、こんなところにスガくんがいるからだ。スガくんに向き直って訊ねると、スガくんは少し眉を下げた。

「ごめん、やっぱ、迷惑だった?」

困ったように頭をかくスガくんに、何だか胸がぎゅうっとなるのを感じた。スガくんはいつだって、人のことばっかりなのだ。

「そうじゃなくて、そんなの、嬉しいに決まってるけど。すっごくすっごく嬉しいけど!でもだって何も言ってなかったのに」
「仕事が早く上がることになってさ。せっかくだから一緒に帰るべーと思って」

するり、とスガくんの右手がわたしの左手をとる。歩き出す。スガくんはいつも、何も言わずに車道側を歩く。わたしはやっぱりそういうところが大人だな、と思うし、わたしには勿体ないくらいの人だな、と思う。すきだ。とっても、すきだ。

それにしても、とわたしと目を合わせて、スガくんがくすりと笑った。

「噂、なんだ?」
「え?…あ!いや、ちが、あ、あれは…!」
「どんな噂されてんのか気になるなー」
「だめ!内緒!」
「え、悪口?」

楽しそうにくすくす笑いながらこちらを見ていたスガくんが、急に不安そうにこてん、と首を傾げるので思わずそんな訳ないでしょ!と大きな声で返してしまう。

「ちがうよ、格好よくて優しくてわたしには勿体ないとか、そういう、話だよ」
「………そっか」
「……そ、そこで照れないでよ」
「あー、えーと、うん、だよね、ごめん、ちょっと」

思ってたより、嬉しくて。そう言いながら繋いでるのと反対の手で口元を隠すように覆う。その顔が真っ赤なのは、暑さのせいなんかじゃないんだろう。ああどうしよう、わたし、この人のことが、ほんとにすきだ。そんな反応をされると、こっちが照れてしまうなぁ、と思いながら繋いだ手に少しだけ、力をこめる。

「勿体ないのは、こっちの方だよ」
「え?」
「若くて可愛くて料理も上手な彼女が、羨ましがられない訳ないじゃないですか」
「え…え!?」

少しだけ早口で告げられた言葉に、わたしは咄嗟に混乱してしまった。その意味を考えて、瞬間。顔が赤くなっていくのが解る。それは、つまり。わたしと同じように、お友達にわたしのことを話してくれてる、ってことなんだろうか。どうしよう、嬉しい。

「…スガくん」
「ん?」
「わ、わざわざ来てくれて、ありがとう、ございます」

お互い何となく赤くした顔で、繋いだ手が少しだけ汗で湿る。どちらの汗かなんてもう全然わかんない。夏は終わったとばかり、思っていたけれど。ふたりの手の間にだけ、まだ残っていたみたいだね。
ちらりと隣を歩くスガくんを見上げてみれば、こちらを見ないままの彼が少し言いにくそうに呟いた。

「あー、うん、ちょっと憧れもあったんだよね」
「…?」
「俺も学生だったらよかったのになぁとか、さ。たまーに、思うからね。そしたら毎日一緒に登下校して、一緒に昼飯食って、一緒の講義取ったりして、もっと一緒にいれたのになぁって」

まあ一緒に暮らしといて贅沢なんだけど、と目を伏せるスガくんの横顔に、何だかもうどうしようもなくなって思わず抱きついてしまった。

「な、ちょっ、なまえ、ここ外」
「うん」

歩みを止めた二人で、生ぬるい夕方の空気に包まれながら、それでもこの腕を放せなかった。スガくん。焦ったように背中をぽんぽん、と叩く仕草は「離れなさい」の合図だ。わかってる。わかってるのに。

「…うん」

ぎゅうっとその広い背中に回した手を握りしめる。すごく細く見えるけど実はちゃんと男のひとの形をしている、その体がすきだ。色素の薄い、髪も。覗き込むとこちらを映してくれる、深いブラウンの瞳も。すきだ、すき、ぜんぶ、すき。

「スガくん」
「なぁに」
「わたし、すぐに大人になるからね」
「何だよ、それ」

軽やかに笑う声が鼓膜をくすぐる。スガくんが諦めたようにそっとわたしを抱きしめ返してきた。ここ外ですよ、とスガくんの肩におでこをくっつけたままで言ったら、「まあいいべ人通りも少ないし」と返ってきた。まあいいか。たまには。バカップルでも。

「すき」
「……あー、そういうのは外じゃなくて家で言ってください」

勿体ないから、と抱きつくわたしの両腕を優しくふりほどきながらスガくんが言う。「ほら、帰ろ」そうしてもう一度繋がれた手。あ、わたし、しあわせだなぁ。



未来も唇もぜんぶぜんぶあげるよ



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