ハローミスターマイハニー | ナノ
「おかえり」を言うより「ただいま」と言う回数の方が圧倒的に多い。まぁ当たり前なんだけど。俺は社会人で、なまえは学生なんだし。

だけど今日は珍しく俺の方が帰るのが早かった。そういうときは俺が晩飯を作ることもある。きっちり相談した訳じゃないけど、早く帰った方が準備をするのは普通のことだ。

俺の一番の得意料理はもちろん麻婆豆腐で、だけどこれはどれくらい辛くするかで喧嘩になるから作らない。なまえはまだ舌が子供で、料理をあんまり辛くするとずっと困ったように笑っている。「辛いから食べれない」の一言が言えないのだ。せっかく作ってくれたのに、ということらしい。そのくせ自分は食べれない辛口の麻婆豆腐を時々俺のために作ってくれたりする。ほんとのこと言うと、もっと辛いくらいが俺の好みなんだけど、いつのまにかなまえの味付けの方が好きになってた。ずいぶん浸食されてるなぁ、と苦笑してしまうけど、そんな自分自身のことが、俺は別に嫌いじゃない。


台所に立って鍋を火にかける。ハンバーグと、サラダと、スープでいいかな。あんまり凝ったものは作れないから、ごめんだけどそんなもんで勘弁してね。だけどきっとなまえは何でも「美味しいよ」って食べてくれるんだろうなとも思う。


ご飯炊いたり野菜切ったりしているうちに玄関からガチャリ、鍵を開ける音がした。お、帰ってきたな。とてとてと廊下を急ぐ足音が聞こえてきて、俺のいる台所に、入ってくる気配。

「───おかえ、り…」

振り向いて迎えてあげようとする前に、なまえが俺の背中に抱き着いてきた。思わず首だけで振り返るけど、なまえは頭をぐりぐり俺の背中に押し付けていて、表情は見えない。いつもとは明らかに、様子が違う。

「……なまえ?」

火を止めて、だけどその間も俺にしがみついて離れない彼女の、俺のお腹に回された腕をその上から握る。返事はない。「ちょっといい?」って聞いて、一瞬だけ離してもらってから、くるりと体を反転して、前からその小さな体を抱きしめてやる。すっぽり俺の腕におさまってしまうその体は、少しだけ震えている。

何かあった?とか、一応聞いてみようとして、だけどいつものなまえなら聞いてほしい話なら真っ先にするはずで、つまり答えは目に見えている。俺の胸に押し付けられた小さな頭。

「言いたくないかー」

ぽんぽん、とその背中を軽く叩く。ごめんなさい、とそこでようやくくぐもった声が聞こえて、少しだけ安心した。

何も言いたくない、けど側にいてほしい。彼女にしては珍しいお願いで、それなら聞いてやりたいと思う。

少しでもいいから俺の体温が伝わればいい。ちゃんとここにいるからな、って。あやすように、何度も撫でてやる。

「大丈夫だから」

少しでも安心できるように、言い聞かせるみたいに呟く。何があったかなんて解らないし、それを知りたくない訳でもないんだけど。だけど、俺の腕の中に、君が帰ってきてくれたから。

君が泣きたいときに選んでくれたのが俺だったから、そのことがどうしようもなく愛しいと思う。小さい体。俺の前でだけ泣いてくれるのが嬉しくて、だけど笑っても、欲しくて。すがり付くその手の強さに、守ってやりたいなと思う。世界中のあらゆるものから、君のこと、救ってあげたい。そんなの傲慢だって、解ってるけど。


「なまえ」


スガくん、って俺を呼ぶ君の声が好きだ。少しだけでも、伝わっているといいんだけど。そういうのが伝わればいいと思って、名前を呼んでは背中を叩いた。


どれくらいそうしていただろうか。
ようやくゆっくりと顔を上げたなまえが、涙で濡れた瞳で俺を見るから。その愛しい女の子に、俺は笑いかける。

「おかえり」
「……ただいま、」



大丈夫、しあわせ



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