log | ナノ

「スガさん」と俺を呼ぶ声がすきだった。透き通る声。だけど暖かさのにじむそれは、まるで春みたいだと思った。そうだ、みょうじなまえという人間を例えるのなら、それは正しく春だった。


高校で部活をやっていた当時のマネージャーは同学年と一つ下に、一人ずつ。クールビューティ、と形容された清水とは対照的に、みょうじはいつも可愛らしさを漂わせていた。特別美人って訳じゃあないけど、愛嬌があって、常に笑顔で、常に人のことを考えているような子だった。バレー部の女子マネといえば他の部の誰もが羨んだものだ。田中や西谷のガードが固くて他校はもちろん、うちの高校の中でもバレー部以外の男子は近寄りがたかったみたいだけれど。今思えば、あいつらのこと、褒めてやりたいと思う。当時は「またやってるよ」と笑って見ていたものだけれど、俺たちが卒業してからもきっとあいつらはみょうじをナンパなんかから守ってやってたんだろう。まったく、頼りになる後輩だと思う。



「…何してるの?」
「えっ、あ、スガさん」

珍しいこともあるもんだなぁと思った。あれは確か、いわゆる受験生になったばかりの春。とはいえ実感なんかは湧かないままで、もちろん部活もまだ続けていたし、毎日部活に明け暮れていたし。それでも少しは焦りもあって、とりあえず赤本でも見てみようかなんて、学校の図書室に向かった。

そしたら、普段そんなところで見かけたことのなかった後輩の女の子が一人で懸命に棚の上の方に手を伸ばしているところに出会った。真っ白なシャツ。精一杯の背伸び。どうやら一番上の棚に取りたい本があるようだった。

「とろうか?」
「あ、ええと、……お願いします…」

みょうじは始め、先輩に対する遠慮やら何やらでどうしようか迷っていたようだけれど、しばらく俺と自分の背の高さを見比べたあとで観念したように頭を下げた。

「どれ?」
「あ、それです」

言われてやたらと分厚い本を手に取る。ずしりとした重みと古い本の匂いが俺に触れた。「はい」「ありがとうございます」ちらりと見やった表紙には「純粋現象学及現象学的哲学考案」だの何だの書いてあって、俺にはとてもじゃないけど理解できそうにない。こんなに分厚くて難しい本を読もうとするなんて、みょうじは意外と読書家なんだなぁと思った。だから「こんなの読むなんてすごいな」と声をかけてみたのは当然の流れで、だけどみょうじはそれを聞いてきょとんと目を丸くしてから、「あはは、こんな難しそうなの、わたしに読める訳ないですよ」と笑ってみせた。

「え?じゃあ何で、」
「先生にここで一番厚い本は何ですかって聞いたら、それだって言うから」
「?」

「押し花しようと、思ったんですよ」


春みたいな女の子だった。


ほら、とみょうじは振り返って、つられて俺もそちらに目を向ける。そこから見える窓は淡い桃色でいっぱいだった。風が吹いて、舞い上がったのは、そうだ、花びらだ。白く日射しが差し込んで、それはそれはまるで映画のワンシーンのように、すべてが輝いていた。

思わず見惚れた。目を伏せて、その大きな瞳の上にのっかった睫毛は長くて、それから、ゆっくりと。「桜が、綺麗でしょう」そう、笑うから。綺麗だと思った。可愛いと思った。その瞳に俺のことも映してくれればいいのにって思った。切実に、思った。






「孝支くん?」
「…ん、ああ、ごめんちょっとうとうとしてた」
「こんなとこで寝たら風邪ひくよ」

ふと目を覚ますと、両手いっぱいに洗濯物を抱え込んだなまえが俺を覗き込んでいた。よく晴れた日曜日。窓から差し込んだ太陽の光が俺をあたためていて、どこかあの日と似ていた。だからあんな昔の夢見たのかな、なんてぼんやり考える。

スガさん、と俺を呼ぶ声が好きで、それはいつからか「孝支くん」と呼ばれるようになってからも何も変わらない、むしろ愛しくなってく一方だ。関係性が変わって、お互いの呼び方も変わって、ついでに彼女の名字も変わって、だけどそれでも。暖かさのにじんだ透き通る声。春。彼女は何年経っても春そのものだ。

「なまえ」
「なぁに?」

座り込んで洗濯物をたたみ始めた彼女を手伝いながら声をかけると、真っ直ぐな目でこちらを見上げた。くそ、上目づかい、可愛いな。何だってこう、いつまで経っても俺はこの人に勝てないんだろう。もう新婚って年でもないっていうのに。

「…今日、花見にでも行こっか」
「これから?」
「だめかな」
「ううん、嬉しい」


桜、綺麗だから。



10年前のあの日をひたりと重ねて、なまえが笑う。洗濯物をたたんでいるから必然的に伏せられた目。相変わらず睫毛長いし。綺麗だ。ああもう、やっぱり、綺麗だよ。


思わず抱き寄せた肩は細くて、だけど柔らかくて、…だから俺は思春期の男子かっつーの。中学生じゃあるまいし。腕の中で一瞬驚いたように体を跳ねさせた彼女は、それからこつりとその頭を俺の肩にのせた。体温。俺に身を預けるその姿が、可愛いと思う。そのままの体制で呟くから首筋が少しむずむずしたけれど、我慢する。

「孝支くん」
「ん?」
「うちにある中で一番厚い本って何かなぁ」

急にそんなこと言うから、俺は思わず吹き出してしまって参る。変わったもの、たくさんあるけど。関係性とか、お互いの呼び方とか、君の名字とか。でも君は変わらないから。

「もう、何で笑うの」
「…可愛いから」

ああ、だから俺は、やっぱり一生君に勝てやしないんだろう。


暖かいベビーピンクブルー


∵「いつか、もしくはある日のはなし」様へ提出

×
「#ファンタジー」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -