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「あ、もしもしみょうじちゃん?」
「……今何時だと思ってる」
「3時だけど」
「そうだね午前のね」

深夜、電話の着信音に叩き起こされるのにももう慣れた。携帯電話の向こう側から聞こえてくる、へらへらした声。わざと出してるんだろう軽い声が寝起きの耳に飛び込んで、苛立つ。わかってんのか、こんなん他の奴にしたら今頃ぶん殴られてるからな。

「そんなこと言いながら絶対に出てくれるからみょうじちゃんスキだよ」

わかってやってんだろうな、と思う。及川徹というこの男は、妙に気の付く人間だから。岩泉にしたら本気で怒られるだろうことが、わたしだったら許されると思っている。そうしてこいつの読み通り、わたしはなんだかんだ言ってもゆるすのだ、及川を。強くて、よわくて、意外とセンサイな我らがセッター様を。

「お前のせいでわたしはしょっちゅう寝不足だよ」
「寝不足になっても出てくれるなんて愛だね」
「うるせぇぶん殴るぞ」
「なんで!?」
「顔がむかついたから」
「いや電話だよね!?顔見えてないですケド!」

もーほんと最近岩ちゃんに似てきたよね。そうやって、けらけらとわらう。
及川が、深夜に電話をかけてくるようになったのはいつからだったろう。もう忘れてしまった。すぐに夜更かしするんだ、わるいやつ。だけど電話の向こう側ではいつも、キュッキュッと体育館の音がするから、わたしも強く出られなかったりする。

「……またビデオ見てたの」
「んー」
「…早く寝なよ」
「んー…」

これはもうある種の病気だ。及川徹はいつも、満足できなくて、恐怖に耐えられなくて、だからこうやって夜遅くまで、対戦相手の試合のビデオを見たりする。繰り返し、繰り返し。おまえは一体、なにをそんなに怯えているの。思うけど。

「ほら、もう寝るよ、明日も早いんだし」
「わかってる」

わかってないよ、及川。おまえ全然わかっていない。
中学で何となくマネージャーを始めて、このめんどくさい男と出会って。昼間は岩泉が、夜はわたしが。こいつのオーバーワークを止めてやるのが、いつからかまるで決まった役割みたいになって。放っておくといつまでもバレーのことをやってるような、そんな男だから、放っておかない誰かがいつだって必要なのだ。手のかかるセッター様。わたしじゃ、岩泉ほどきちんと止めてやれないけれど。

「みょうじちゃん、いつもありがとネ」
「本当にそう思うんだったら早く寝ろ、ばか」

それでも、おまえが電話をかけてくるから。
きっとこれは一種のSOSなんだろうと、わたしは思っている。だからわたしは、どんなに夜遅くたって、絶対にこいつからの電話には出ると決めているのだ。
難儀な男。顔も良くて、人当たりも悪くなくて(性格は悪いけど)、器用で、頭の回転も悪くなくて(馬鹿だけど)、きっと、他のことをやっていればもっと楽に生きれただろうに。バレーボールに出会ってしまったばっかりに。
だから隣で見ていてやらなきゃいけないね。へらへらしているくせに、脆いところがある人間だから。昼は岩泉が。夜はわたしが。違えることない、役割分担。仕方ないやつ、ずっと見ていてあげるから。





「俺、アルゼンチンに行くことにした」

高校3年生の夏、及川が初めてそう言ったとき、ふざけてんじゃないかと思った。いつものジョーダン。だってふざけた男の言うことだ。そうでしょ。でも、それを言ってる横顔がやたらまっすぐなもんだから、それが冗談じゃないってことがすぐにわかってしまう。嫌でも。
走馬灯のように頭の中をいくつもの場面が駆け抜けていく。何度も監督と二人きりで話していたこと、憧れの選手について語る及川、お守りのように大切にしていたサポーター。ああ、と思う。思い当たってしまう。これでもわたし、6年間、ずっと隣に立っていたからね。真夏の体育館で、汗がぽたり、落ちていく。

「…おまえ、アルゼンチンがどこにあるかわかってるの」
「ヒドイ!」

俺だって世界地図くらい見たことあるんだからね、とか、何とか。いつものその、むかつく顔。「わかってるよ」と微笑む、綺麗な唇。腹立つ顔。
馬鹿野郎、おまえ、相変わらずなんにもわかっちゃいない。アルゼンチンと日本の時差知ってんのか。12時間だぞ。わかってんのか。アルゼンチンの深夜はこっちの真っ昼間だ。おまえが深夜、ひとりで電話したくなっても、わたしは日本で真昼間だから出られないよ。わかってんのか。

「……ごめんね」

だけど、わたしが何を言っても、及川がそうやって眉を下げるから。
馬鹿野郎。ばかやろ。なんで謝る。そう言ってやりたいのに。おまえ。おまえが。おまえがやけに静かでいるから。いつも一人でうるさいおまえが、ただそこに立っているから。ばかやろう。熱いものがぼろぼろと頬を伝っていく。止められない。

本当に離れられないのはどっちだ。深夜の電話を、本当に必要としてたのは。

次から次へと零れ落ちてくるものを右手で拭う。知っていた。知っていたよ。及川は、もう、とっくに、大丈夫なんだって。わたしがいなくたってずっと立派に立っている。
及川がわたしの知らないところで何か吹っ切れていたのを知っている。及川が変わった、そのきっかけを、わたしは知らない。だけどおまえが変わらず電話をかけてくるから、わたし、知らないフリしてたんだよ、突然鳴り出す電話の時間がいつのまにか深夜じゃなくなっていることも。本当はちゃんと、気付いてたけど。
及川。おまえ。おまえが。

「ばか、」
「うん」
「わたしも、岩泉も、いないんだからな」
「うん」
「ちゃんと夜は寝るんだよ」
「うん、もう、大丈夫」

ひどく優しい顔して及川がわたしの涙に触れる。何よりも大切な指先。及川が、人生をかけて守って、磨いて、整えてきたもの。むかつく。むかつく。及川が、いつもの、むかつく顔をしてないから。ひどく、優しい顔をするから。むかついて、もっと泣けてくる。覚悟の決まった顔だ。
おまえがおまえを諦めないって、おまえがおまえの限界を決めつけないって、それはそれは途方もなく、苦しい道程だろうけど。でも、おまえが、おまえを信じると、決めたんなら。大丈夫だって、おまえが言うなら。もうこの手、離さなければいけないね。大事な大事なセッター様。

「今まで、ありがとね」

そうやって、最後まで。人のこころ、持ってく術をぜんぶ知ってるみたいなやつだ。わかってやってんのかな。わかってやってんだろうな。おまえのそういうところ、大っ嫌いで、だけどすこしだけ、すきだったよ。絶対に、一生、言わないって決めてるけど。だからおまえは、一生知ることはないんだろうけど。
ああ、おまえ、キレーな顔してんのに、泣いてる顔はぶさいくだなぁ。



△▽△




高校を卒業して、及川がアルゼンチンに単身で渡って、2年が経つ。もう電話はかかってこない。時々、ふざけたような写真が地球の裏側からポコンと届く。それを見て、わたしはすこし笑う。烏野の日向くんと写った写真が送られてきたときはあまりにもびっくりして、それから爆笑してしまった。運命だなぁ、と思う。
及川、おまえが選んだその道で、おまえがもう深夜まで起きずにいられることをいつまでも祈ってるよ。遠い地球の裏側から。






きみの知らない街で生きてる


title : 草臥れた愛で良ければ

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