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※影山くん高校卒業後1〜2年目くらいの話




綺麗だなぁ。
その姿を見て、かけようとしていた声を思わず飲み込む。しゅっ、しゅっ、と静かに音を響かせて、丁寧に爪を削る、綺麗な存在。何だかその光景がひどく神聖なものに見えて、思わずぼーっと眺めてしまう。

今日の練習が終わってしばらく、見回りに来たら更衣室のドアの隙間から明かりが漏れているのが見えて、「そろそろ閉めますよ」と声をかけようと中を覗き込んだところ。そこには我がシュヴァイデンアドラーズ期待の超大型新人であるところの影山飛雄くんが一人、椅子にかけて爪の手入れをしていた。彼はいつも、練習後も、試合後も、本当にいつも、欠かすことなく丁寧に爪やすりで指先の手入れをしている。それはきっと彼にとって特別なことでも何でもなくて、もうずっと続いてきた日常のひとつなのだろう。そうやって紡がれているのが、彼のあの正確で美しいトスなのだろう。

「…みょうじさん」

やすり終わったらしい爪を何度か手で撫でた影山くんが、ふと顔をあげて、入口に立っているわたしを見た。静かにわたしの名前を呼ぶ。どうやら人の名前を覚えるのが苦手らしい影山くんが、一番最初に覚えたスタッフの名前が多分わたしだ。別にわたしが特別だからとかではなくて、単にいろんな雑用を引き受けているうちに、いつのまにか影山くんのお世話係みたいになってしまっていただけなのだけれど。
影山くんはいつも澄ました顔であんなに鋭いプレーをするのに、中身はどこか抜けているところがあって、最初は特に苦労させられた。
目を離すとすぐに迷子になってしまう影山くんに、毎回付き添って次の練習場所や次回の試合会場への行き方なんかをレクチャーしたり、放っておくと取材でも言っちゃだめなことを口にし出す影山くんに後ろから身ぶり手振りでNGを伝えたりしているうちに、なぜかいつのまにか影山係と呼ばれるようになってしまった。わたしは、ただの、広報なんですけど!

「お疲れ様。終わった?」
「ハイ」

声をかけると、影山くんはこくりと頷いた。スタッフ的にはすこし困ったところのある男の子だけれど、それらはすべて悪気があるわけではない。根は本当に素直ないい子だ。

「そろそろ閉めるから、片付けよろしくね」
「ハイ」

パチリ、中に入って窓の鍵を閉める。影山くんはわたしに言われた通りに爪やすりをしまい、荷物を整理し始める。ついでに更衣室の床やベンチを見て、忘れ物や落とし物がないかチェックしていると、静かな部屋に影山くんの声がポツリと落ちた。

「…あの」
「ん?」
「みょうじさんって、コイビトいるんですか」
「…は?」

コイビト、が恋人、に変換されるのに数秒かかった。突然影山くんの口から、彼に似合わない単語が飛んできたので、わたしはぽっかりと口を開けてしまった。影山くんがそういう俗な話題に興味を持つイメージがなかったし、単純にびっくりしてしまったのだ。でもまぁ、彼もまだ若いしな、確か19か20くらいだったはず、まぁそういうことに興味くらい持つこともあるだろう、と自分を無理やり納得させる。一人でうんうんと頷くわたしをよそに、影山くんは話を続ける。

「えっと、この前、鈴木さんが、みょうじさんくらい綺麗な人だったら絶対カレシ?がいるだろって話してて」

えっ、今、さらっと綺麗な人って言った?鈴木くん、かわいいとこあるな。運営スタッフの後輩の顔を思い浮かべる。でも知らないところでそんな話題の種にされてるのは正直複雑というか。まぁ本人がいないところの噂話としてはまだマシか。とつとつと喋る影山くんの声を聞きながらぼんやりと考えていたら。

「それが本当なら、なんつーか、こう、嫌?だなって思って」
「……は?」

もっと衝撃的な言葉が影山くんから落ちてきて、今度こそわたしはぽかーんと口を開けたまま、何にも言えなくなってしまった。だって。影山くんは、冗談を言わない。影山くんから出る言葉はいつも本当だし、本心だ。思ったことをそのまま口に出してしまう人だと、知っている。(そのせいで、取材の度にいつも胆が冷えている!)

だから、影山くんが「嫌だ」と言ったら、それは「嫌だ」ということなのだ。その意味がわからないほど、わたしはもう、子どもではない。

「みょうじさん、カレシ、いますか」

混乱しているわたしとは反対に、影山くんは真顔のままで、わたしをまっすぐに見て、落ち着いた声で聞く。
いないけど、とかろうじて答える口は、もうカラカラだ。そんなわたしのことなんて全然知らないみたいに、それを聞いた影山くんは淡々としたいつもの顔のまま、「よかったです」なんて言う。待って、この流れは、まずかったかも。

「あー、えーと、影山くん」

だめだよ。相手はまだ若くて、5つだか6つだかも年下で、大事な大事なうちの選手で、わたしは立派な大人で、彼を守るべき立場のスタッフで。だからだめだし、そもそも、そんな風に見たことなんて一度もない。のに。
影山くんは、いつもこちらを真っ直ぐに見つめてくる。その強い瞳に射抜かれるみたいに、わたしは何も言えなくなってしまって。

「みょうじさん」

わたしを呼ぶ影山くんの瞳の奥で、熱いものが揺れてる。
あ、と思う。
わたしを真正面から見つめる影山くんの手が、わたしの方に伸びてきて、そっとわたしの手に触れる。思ったより熱くて、思った通り大きくて、硬い、手。その瞬間。思わず、触れられた手を勢いよく引っ込めてしまう。
10分前に見ていた光景がフラッシュバックする。静かに、淡々と、いつでも爪を整える影山くん。

だめだよ、その、手は。

チームに入ってから瞬く間に正セッターの座を勝ち取ったきみのその指先は、もうとっくにわたしたちシュヴァイデンアドラーズの命そのものだ。わたしたちの行く先は、きみのその手に握られている。
きみの手は、その指先は、バレーボールに触れるための、とてもうつくしくて、神聖な。そんな手に、触れてはいけないと思う。大事で、大切で、替えのきかないわたしたちのいのち。何よりも壊したくないもの。

「影山くん、だめだよ、影山くんの手、大事にしてるじゃない」
「大事に、かはわかりませんけど、手入れはしてます。感覚、わかんなくなるんで」
「そうでしょ、だから、だめでしょう」

わたしはなぜだか少し泣きそうだった。その手に触れるのが怖かった。とんでもなく大切なものを、わたしが汚してしまうんじゃないか、って。なのに、影山くんは不思議そうな目で、やっぱりわたしをまっすぐに見る。

「? なんで、だめですか?」

だってその手は、ボールに触れるために、磨いて、整えて、大切にしてきたんでしょう。わたしなんかが気軽に触って良いものじゃあないでしょう。

「…?」

何を言われているのかわからない、というような顔をしながら首を傾げたあと、影山くんはわたしを見つめた。みょうじさんの言うこと、よくわかんないすけど、いろいろ手入れはしてます、だから。

「大事なもの、触るための手です」

そう言ってもう一度まっすぐ伸びてきた手を、もう拒むことはできなかった。彼のうつくしい手が、わたしの手を、彼の言葉通りに、壊れ物を扱うみたいにそっと優しく包む。そんな殺し文句言えるなんて聞いてない、と思ったけど、何か喋ったら涙がこぼれ落ちそうで何も言えなかった。だめなのに。影山くんはまだ若くて、5つだか6つだかも年下で、大事な大事なうちの選手で、わたしたちの命で、だから。
わたしの頭の中をぐるぐると巡るそういうものを全部溶かしていくみたいに、好きです、と近くで囁くような声がした。




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