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泣くことを許してくれたひとだった。

夕暮れの教室。大したことじゃあ、なかった。はずだった。放課後にわたしを呼び出した担任の言葉が頭のなかでリフレインする。「こんなんなら、部活ももうやめた方がいいんじゃないか。他の部員も成績が良くないようだし」。わたしは怒った。成績が下がったのはわたしの責任で、部活は関係がないはずです。わたしの努力不足です、すみません、次の試験では必ず頑張りますから。必死になって弁解するわたしをちらりと見た担任は、それから、言いはなったのだった。「あんまり入れ込みすぎるなよ、たかが部活なんだから」
進路指導室を出て、荷物を置きっぱなしにしていた教室に戻ったとき、そこには誰もいなかった。電気の消えた教室に西陽が射し込んでいて、綺麗だとぼんやり思った。
くやしかった。担任の言葉も、結局言い返すことができなかったことも、あんな言葉を言わせるきっかけをつくってしまった自分自身のことも。悔しくて仕方なかった。思い出すと涙が出てきた。こんなことで泣いてしまうなんて本当に悔しくて、悔しくて、そのことにまた涙が出てしまうのだった。泣いたら担任の言葉に負けてしまつたような気がして、そのことがひたすらにくやしかった。



「みょうじ?」

ふと、耳ざわりの良い声がわたしの名前を呼んだ。驚いて顔を上げる。
そこに、菅原が立っていた。部活の途中なのかもしれない。ユニフォーム姿のまんま、タオルを首にかけて、まんまるい目で、わたしを見ていた。わたしは自分のぐちゃぐちゃであろう顔を思い出して、慌てて手で乱暴に涙を拭っていた。そしたら菅原がわたしの近くまで来て、そっとわたしの手首を掴んだ。

「見なかったことにするから」

椅子に座ったままのわたしを見下ろして、ゆっくりそう言った。その言葉通り、菅原は動けないようにわたしの手首を固定したまま、上を向いた。わたしの泣き顔を見ないようにしてくれているのだと、すぐにわかった。

「泣いて、いいよ」

泣くことを許してくれたひと、だった。

限界だった。そんなふうに、優しくされたら。ぼろぼろと堪えきれない涙を流しながら、気付けばさっき起こったことをぜんぶ吐き出していた。支離滅裂になっていただろうわたしの話を、菅原は柔らかく頷きながら聞いてくれた。「みょうじは何にも悪くないよ」って、そう優しい声で言い置いた。止められなくなった涙を慌てて拭っていたら、少しだけ躊躇した指先が、それでもわたしの髪の毛にそっと触れた。くしゃり、と柔らかな音を立ててわたしの頭に着地したその大きな手は、それ以上動くことをせずに、撫でるでもなく、叩くでもなく、ただわたしの頭の上に置かれていた。
その手から温もりが伝わってくるようで、わたしはいつまでも泣いていた。菅原はそれ以上何も言わずに、ずっと側にいてくれていた。

恥ずかしいとこ見せちゃったね、ごめんね、とあとで言ったら、菅原は「俺は何も見てません」って穏やかに笑った。顧問に出さなきゃいけない書類を教室に忘れちゃってさ、と言った。「俺、来ない方がよかったね、ごめんね」
そんなことはない。菅原に迷惑をかけてしまったことはとても反省をしているけれど、菅原がいてくれてよかった、とわたしは思っていた。たぶん、一人でいたら気が済むまでなんて泣けなかった。悔しくて、くやしくて、泣いてしまったことも悔しくて、自分で自分を許すことができなかっただろう。菅原が、いてくれたから。わたしのことを、ゆるしてくれたから。
だけどそんなことは恥ずかしくてとてもじゃないけれど言えなかった。わたしこそごめんね、と言うのが精一杯だった。あと、ありがとう。小さい声でそう言ったら、菅原はそっと笑ってくれた。とても綺麗にわらうひとだと、思った。


▽△▽


バレー部が試合で負けた。ちょうど日曜日だったから、こっそり応援しにいった。バレーのことはそんなに詳しくはないけれど、とてもいい試合だった。みんながすごく一生懸命なことが痛いくらいに伝わってきた。最後のボールが地についたとき、いろんなことが頭をめぐって、すこし、泣いた。

次の日学校に行ったら菅原はいつものように教室にいた。当たり前だけど。何も言えなくて、だけど何か言いたくて、でも何を言っても無力な気がした。だけどそれでも、やっぱりどうしても伝えたかった。試合を見に行ったこと、本当に格好良かったことを、隣の席の彼に授業が始まる直前にこっそり伝えた。菅原は少しだけ驚いたように目を丸くしてから、すぐに笑った。

「見に来てくれたの?ありがとな」

まさか笑ってくれるとは思っていなかったから、ほっとした。もしかしたら、わたしなんかが軽々しく触れていい話題じゃないのかもしれない、なんて思ってもいたから。昨日の話をしてもそうやって笑ってくれる菅原は、本当に人間が出来ているなぁと思う。しかもお礼まで言ってくれる。すごい人だ。菅原は、まさかみょうじが来てくれてるとは思わなかった、と照れ臭そうに笑って、それから、「次も来てくれたらうれしい」と控えめに言う。次? 首を傾げたわたしに、菅原は苦笑してみせた。

「俺、引退しないよ」
「え」

わたしをまっすぐに見据えた目。バレーにはまだ三年も出れる大会があるんだ、と語ってくれた。諦めたくないんだ。そう言ってわたしを見つめてくる強いひとみ。穏やかそうに見えるのに、どうしてこのひとはこんなに強いんだろう。こんなこと、言いたくないけど、だって、進学クラスだ。菅原は成績だっていいはずだ。わたしはバレー部よりも一足先にIHの予選で負けて、引退が決まっていた。受験生として、これから勉強一本で頑張っていかなきゃな、と、そう決意を固めたところだった。それなのに。

どうしてこんなに強いんだろう。前だけを見つめる菅原が、わたしにはとても眩しくて、羨ましかった。



放課後になって、図書室でも行って勉強しようかと思いながら廊下を歩いていたら、「失礼します」と聞き覚えのある声が聞こえた。顔を上げたら、進路指導室からちょうど菅原が出てきたところだった。

「菅原」

あの色素の薄い綺麗な髪の毛が揺れて、わたしの方を向いた。その瞬間、わたしは思わず息を飲んだ。菅原はわたしが今まで見たことのない顔をしていた。少しゆがめられた綺麗な瞳。眉間には珍しく皺が浮かんでいた。堪えきれない何かを我慢するような。初めて見る菅原は、なんだかすこし、泣きたいように見えた。

あ、そりゃ、そうだ。
だって。菅原だって。ふつうの。高校生だ。

それは、頭を殴られたみたいな衝撃だった。
強いだけの人間なんているわけなかった。菅原だって、泣きたいときがあるのだ。昨日の今日で、菅原がふつうに笑えるから、すごいだなんて。菅原が、どれだけの覚悟で笑っていたのかも知らないで。菅原だって、いつもただ穏やかな気持ちで笑っていられるわけじゃないのだ。そんなこと、当たり前のはずなのに。知っていたはずだったのに。

「みょうじ」

だけど菅原はわたしの顔を見ると、いつものようににかっと笑ってみせた。「みょうじも進路指導室に何か用事?」そう軽やかな声で聞いてみせる菅原は、いつもの菅原だった。いつもの菅原みたいに、見えた。でも。そういう時期だもんな、と微かに笑う菅原は。もしかして。もしかしたら。

「何かあった?」

思わず尋ねてしまったのは、どうにも我慢が出来なかったからだ。あんまりにも綺麗に笑うひとだから。その笑顔で、すべてを隠してしまうんだろうな、と思ったら、どうにも、たまらなかった。だって絶対、苦しそうだった。進路指導室。負けたバレー部。俺は引退しないよ、って、諦めないよ、って、まっすぐに言った強いひとみ。進学クラスの中でも優秀だった成績。彼が今ここで何をしていたかが、何となくわかってしまう。わかってしまうからこそ。菅原。すがわら。

「ううん、特に。ちょっとセンセイとお話してた」

ああ。いつも通り、そうやって笑ってみせる菅原に何だかすこし泣きたくなる。やっぱり菅原は、なんにも言ってくれないまま。なんにも言ってくれないから、わたしもなにも言えなくなってしまうんだよ。
菅原はなんにもなかったみたいに、笑っている。軽やかに。見てるこっちが元気をもらうような、つられてしまうような、いつもの顔で。この笑顔の意味にも気が付いている。心配しないでいいよ、って、きっとこれはそういう笑顔だ。わたしが不安そうな顔をしたから。菅原が傷付いているんじゃないかって、勝手だけどそう思って、たぶんそのことに菅原が気付いたから。だから菅原は笑うのだ。心配しないでねって。優しいから。やさしい、ひとだから。

だけど、ねぇ、菅原、そうじゃないんだよ。わたし。わたしは。

「菅原」

泣いて、いいよ。泣いても、いいんだよ。
いつも強くなくたっていいよ。いつも、綺麗に、わらうけど。でも、つらいことだってあるんでしょう。いつでも楽しいことだけじゃあ、ないんでしょう。いつも笑っていなくていいんだよ。苦しいときは泣いていいんだよ。許してくれたのはあなただったでしょう。菅原。ねぇ、すがわら。

「泣いて、いいよ」

こっちが泣きそうだった。だってぜんぶ隠すから。何一つ、見せてくれないから。わたしは菅原が泣くのを許してくれたあのときから、ずっと。ずっと。特別なのに。救われたのに。あの日、菅原に、たくさんたくさん、救われたのに。
泣いてほしかった。笑わないでほしかった。いつだって、誰かのために、わらうひと。たまには自分のためだけにもっと泣いてほしかった。彼が少しでもつらいなら、側にいたかった。あの日にわたしを救い上げてくれた菅原に、恩返しがしたかった。わたし、菅原がいてくれたから、今、こうしていられるんだよ。

「ありがとう」

だけど、菅原は。あの、いつもの笑顔で、笑うのだ。穏やかに、溶けるように、笑ってみせるのだ。心配ないよって。強いひとみを、やわらかく細めて。そうして。やっぱり、とても綺麗にわらうひと。


「でも、だいじょうぶだよ」



そうして淡く柔くわらうきみである



∵「少女と砂糖菓子」さまへ提出

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