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「旭さん」

彼女は胸に造花を咲かせて、俺を見た。まぁ随分と綺麗に着飾っている、ように見える。いつもとおんなじ制服姿のくせに。もう見慣れたはずのブレザー。履き潰されたローファー。少しだけ大きいんだよ、このローファー。いつだってそう言ってとんとん、とならしていた。そのくせ買い替えようとはしなかった、結局最後まで。

「これが最後だね、とか、ポエミーなこと言うのはやめてね」
「…なんで」
「泣いちゃいそうだからだよ」

ゆるゆると細めた目元が、やっぱり俺を見る。両手いっぱいに抱えた花束は多分後輩からの贈り物だ。部活をいくつか掛け持ちしたり助っ人に入ったり精力的に委員会活動をしたり、忙しい人だったから。たくさんの後輩に惜しまれて、今日、この女の子は烏野高校を卒業する。俺も一緒に。

「旭さんはこのあとどうするの?」
「え。えーと、とりあえず謝恩会行って、二次会とかは行ってから考えようかと」
「ちがうよ」

これから先の未来を君はどう歩いていくのかって聞いてるんだよ。

ポエミーなのはどっちだ、と思わないではないのだけど。言わない。言えない。後輩に囲まれて、笑っていたくせに。そんな寂しそうな顔をするのは反則だ。決めたのは自分だったくせに。

「みょうじは、東京に行くんだろ」
「知ってたの」

知ってたよ。
彼女と担任の話がたまたま耳に入ってしまっただけなのだけれど。東京の、誰もが知っている有名大学だ。うちの学校から合格者が出るなんてほとんど奇跡だと、担任は彼女の手を取り、言っていた。なるほど確かに進学クラスだったと、俺はその時ぼんやりと思い出していた。

「俺は就職だよ。地元で」
「就職先見つかって良かったねぇ」
「ああ、うん、それは。運が良かった」
「ねぇ、旭さん」

お別れだね、と。こっちを見据える真っ直ぐな瞳が静かに笑う。

東北の3月は寒い。宮城の3月だって寒い。マフラーだってまだ手離せないし、もちろん桜なんか咲きやしない。まだしばらく、春なんか来そうにない。のに。

行ってしまうんだな、と思った。
旭さん、と柔らかな声で俺を呼んでいた、この女の子は。遠くへ行ってしまうのだ。今や東京なんか新幹線で二時間だとか、そんなことはどうでもよくて。そういうことではなくて。もっと、とおくだ。

「旭さんは繊細だからなぁ」
「みょうじに言われたくないよ」
「旭さんは、優しいから」

心配だよ、と落とされた言葉。いつだって曖昧なことしか言わない女の子だった。春高予選の前日もふらりと俺の前に現れて、笑った。「夢は叶えるためにあるなんて言うけれど、あんなの嘘だと思わない?」。激励でも何でもない、だって彼女は頑張れの一言すら言わなかった。いつだって何が言いたいのか曖昧で、だから何となく理解した気になることしかできなくて。

「ねぇ旭さん、わたしがいなくなっても、泣かないでね」

別に恋人でも何でもない、ただの同級生。今ここで二人で過ごしていることの方が不思議なくらい、俺とみょうじの間には何もなかった。それでも。お互い何も言わないし何も聞かない。それでも。多分。

「泣かないよ」

とくべつだった。ただ、ただ、とくべつだった。

優しい色をした目。綺麗に伸びた背筋。きみのぜんぶが、とくべつだったよ。俺の中にはきみに言えないことばかりが溜まっている。これが多分いわゆる恋だったってこととか、ほんとはきみに行かないで欲しいと思っていることとか、多分今日、家に帰ったら涙が出てしまうことも。きみに何ひとつ、話せなくて。

旭さん、と俺を呼ぶ、声が好きだったと言ったらどんな顔をするんだろうか。「旭さん」。同級生なのに変な呼び方だと言ったら「そう呼ばれるのは嫌い?」と聞かれた。ずるいやつ。嫌いだなんて言える訳がないの解ってるんだろ。その呼び方を俺が少し気に入ってること、知っているから、微笑んだんだろ。ずるいやつだよ。本当に。

「出発、いつ?」
「明日」
「…随分早いね」
「名残惜しく、なるからね」

こういうことなら出来る限り早めに済ませてしまうのがいいと、両手いっぱいの花束を抱え直した。きらきらと、少しだけ西に傾いた太陽が彼女の髪の上で反射する。「東から昇るから、あさひなんだね」と言っていたのは、そうだ、彼女だった。そういえば彼女が俺を旭さんと呼ぶようになったのはあれからだった。

だからもう行かなくちゃ、と。とんとん、と彼女はローファーをならした。ぶかぶかで、彼女の足には少しだけ合わない革靴。その靴で東京へ行くのだろうか。見慣れた仕草。

「旭さん」

きみは明日になったら一人でこの町を出て、俺の知らないとおいとこまで。お互いにきっととくべつで、だけど多分もう二度と会わない。好きだったんだよその声が。その姿が。曖昧なとこだって、ぜんぶ。名残惜しくなるからね、そう、きみは切り捨てたけど。だからやっぱり何も言えずにいるのだけれど。

それなのに「またね」なんて言うから、ほんとう、ずるいやつだよ。また会う気なんかないくせに。ずるいやつだ。泣かないでね、ついさっきの彼女の言葉が反響している。泣かないよって言ったけど、ああ、だめかもしれない。風が吹いた。ひやりと頬を撫でていく。やっぱり、春はまだ来ない。のに、なぁ。




∴ やさしい君のこれからが何より幸福でありますようにと祈っていたのは嘘じゃないよ


20140301


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