「こんばんは白布君、受験勉強はどうかしら」
俺が塾に行く頃には、彼女はもう席に座って勉強に打ち込んでいる。彼女が１番で、俺が2番目に教室へ入る。変わらない、いつもの事だ。彼女の隣の席の椅子を引く。
「いつもと変わらず。ああ、本条少し聞きたい問題があるんだけど」
「なにか、引っかかる様な問題あったかしら」
「昨日の授業のこの問題、応用してこういう問題とか出てきそうなんだけど」
「ああ、応用問題ね。これは…」
静まり返る教室に響く文字を書く音。じっとノートに目を落とす。本条は何の迷いもなく文字を書き進める。「じゃあこの問題は、この式をこうして…ここを当てはめると…」本条の声が耳を擽る。「ああ、成る程」俺はその言葉に頷く。彼女の教え方はもしかしたら、塾の講師より解りやすいのではないかと思うくらい上手い。1分後にはすっかり理解出来るようになっていた。
「ありがとう本条」
「いいえ、このくらいどうと言う事はないもの」
それ、ウチの入試の過去問よね。その言葉に頷く。本条は過去の入試問題も把握済みのようだ。
「ちょっと暇つぶしに5,6年分の過去問を解いてみたの」
「暇つぶしにやる様なもんじゃないだろ」
「他にやる事がないんだもの」
つまらなそうに、彼女は言った。暇だから過去問をやる、だなんてどれだけ勉強に力を入れている学校なのだろうか。意識の高そうな生徒ばかりいそうで少し顔を顰めてしまった。その様子を見ていた本条が少し笑う。
「大丈夫よ、こんなつまらない性格私くらいだもの。他の生徒は、きっと余所と変わらない普通の生徒よ。それに、白布君は別に勉強なんかをするために白鳥沢(うち)に来るわけじゃないのでしょう？」
その言い方は栄えある白鳥沢学園の生徒の一員として、どうなのだろうか。まぁ、スポーツがしたい故に入ってくる生徒も居るだろうが、なんて言ったって白鳥沢は学業でもトップクラスの学園だ。「勉強なんか」なんて言っていいのだろうか。しかも本条は、現在中等部の首席だと聞くが。
「白布君は凄いわね」
「…何が？」
「スポーツなんかするために、今猛勉強して白鳥沢に」
「本条は何でもかんでも「なんか」とか「そんなもの」とか付けるの止めろ」
「…ああ、ごめんなさい。そうよね、気分が悪くなるわよね」
「俺は慣れたけどな」
最初こそは確かに気を害したけど、慣れてしまえばどうということはなかった。「なぁ本条」と口を開いたところでざわざわと廊下から人の声が聞こえた。もうそろそろ、塾生が集まる時間か。俺は口を閉じる。彼女も「なに？」とは聞いてこなかった。
「…さっむ…」
塾が終わる10時過ぎ。外に出ると酷い寒さだった。首に巻いたマフラーを持ち上げ口を覆う。息はすっかり白い。雪こそ降っていないが、最早時間の問題だろう。
「随分冬ね」
「そうだな。お前、寒くないのか？」
「え？」と首を傾げる本条。そう不思議そうな顔をしないでもらいたい。制服だけでなんでコートを着ていないんだ。「それより白布君、そんなに着込んで暑くないの？」なんて言われる始末だ。
「見てるだけで寒くなる」
「じゃあ見なきゃいいのではないかしら」
「なんだその捻くれた返答は。風邪ひくぞ」
「寒くないから平気よ」
くしゅん。と小さく聞こえた。…いや、なにが寒くないだ。首に巻いていたマフラーを取り本条に渡す。「なあに？」という本条に「いいから巻け」と言うと要らないと突っ撥ねられるものだから俺は無言で本条の首にマフラーを巻き付けてやった、少しきつめにめ。
「…もごもごする…」
「文句言うな」
「…あったかい」
「やっぱり寒かったんじゃないか」
「寒くは無いわ。でもまぁ、うん。いいんじゃないかしら。それより白布君、寒くないの？」
寒いに決まってるだろ、そう言うと何故か本条は笑った。本条の笑いどころはまるでわからない。「そう」と満足そうに微笑む本条を前に、何やら複雑な気分になった。