夏の音と恋の音




グラスに入れた氷がカランと涼しげな音を鳴らした。
芹沢は冷たい水滴を零すグラスとお茶菓子にと用意した水羊羹をお盆に乗せ、あの人がいるであろう場所へと向かっていた。
あの人とは。
俺の尊敬する先輩で、儚い音色を奏でるヴァイオリン奏者で、優雅で綺麗で、暑さが苦手な猫みたいな人。菩提樹寮の木々が作る木漏れ日は数か所あれど、その中でも一際涼しくて誰の目にも触れない場所を知っていて、その人がいつもそこにひとりでいるのを俺は知っている。
予想通り。
木漏れ日の中、淡い藤色の髪を地にまで垂らして、その人は相変わらずひとりだった。手にはヴァイオリンではなく三味線が握られていたが、その音色は奏でられることはなく、ただ夏の虫がけたたましく鳴いている。

「弾かないのですか」

俺はその人の元へと近づいて、控えめに声をかけた。
緩慢な動作で持ち上げられた瞼から綺麗なブルーの瞳が覗いて、俺の方を捕えて細められる。その一瞬、胸が鳴る。同じ男なのに何故こんなにも綺麗で艶やかしいのか。
「んー?芹沢がかわいく、『蓬生さん弾いて』っておねだりしてくれたら弾いてあげてもええよ」
「……いえ、ご遠慮させていただきます」
「ふふ、かわいくないなぁ」
ほんの僅か、副部長の笑顔が切なく見えた。
一瞬、髪の色と同じ睫毛が木漏れ日を受けて濡れているように見え、持ってきたお茶と水羊羹を差し出すのを躊躇った。実際はそう見えただけかもしれないし、本当に濡れているのかもしれない。本当のことを知るには、この距離では遠すぎる。

「副部長が弾きたいと思えるときに弾いてくだされば俺は満足です。弾きたくないときは、無理に弾く必要はないかと」
「……芹沢には、全部お見通しなんやね」
「そんな事はないですよ。俺にも分からないことはあります」
「この俺をよう見とう」
「俺がどれだけあなたと共に行動しているとお思いですか」
「俺と、やのうて千秋とやろ。それ千秋の前で言ったらあいつ怒るで〜」
「部長と、なにかあったんですね」
「……いいや、なあんもあらへんよ」

また。
何もないのなら、何故そんな風に悲しそうに笑うのですか。
軽口は簡単に叩くのに、それは他人を寄せ付けないための行為にしか過ぎなくて、それでも本心では人の温もりを求めている。不器用な人だと思う。
部長と副部長の関係は知っているつもりだ。でもそれは外見でわかる関係を知っているだけで、部長と副部長ふたりだけの時に何を話しているのか、どんなことをしているのは知らない。そこに干渉できるとも思っていないけど、俺に何かできることがあるならば何でもするつもりだ。例えば今日のように、副部長が何かに悲しんでいるのなら、その悲しみを少しでも俺に分けて下さればいいといつも思っている。

「うまいな、これ」
「えっ」
「俺好みのちょうどええ甘さや」
「……そうですか。それは良かったです」

副部長の白くて細い指が竹楊枝をしなやかに動かして、水羊羹を小さく切り分けて口に運ぶ。そんな動作ですら見惚れてしまうほど優雅に見えて、これはいよいよまずいと思った。俺は副部長に後輩ではなく、ひとりの男として見てもらいたい。こんな感情を持ったところでどうにも出来ないことはわかっている。副部長の中には部長しかいないという事もわかっている。けたたましく鳴いているはずの夏の虫の音すら聞こえないほどに、心臓の音がうるさい。
「……休憩中に長居してすみませんでした。俺はそろそろ失礼します」
思わずこの場から逃げるように踵を返した。
「待って」
しかしそれは、滅多に聞くことのない副部長の鋭い声で引き止められる。
「……はい、どうかされましたか」
「これ、まだ残ってるで。食べ終わるまで一緒にいてくれへんの?」


そう言って指差された水羊羹はまだ三分の一程しか減っておらず、副部長は俺の方をみて笑った。その笑みには先程一瞬だけ垣間見えた鋭さはもうなく、困ったような、少し切なげな笑みだった。俺は少し驚いたけれど、これが副部長の本心なのだろうかと思うと少し嬉しい。

「……わかりました。では、俺からもひとついいですか?」
「ん?」
「食べ終えてからでいいので、その三味線、弾いてくれませんか。あなたの奏でる音色が聴きたいです」
「ふふ、ええよ。いくらでも聴かせたるわ」

隣に座るようぽんぽんと促され、副部長の隣へと移動した。
近くなってよく見えるようになった副部長の綺麗な睫毛は、やっぱり少し濡れていた。










20121209



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