第11話・ディーン=メイジャー








「ドーリィ」
「<なあに>」

フランクな物言いもバイザーにテロップで流すので、直に顔を合わせながらチャットを開催しているような心持ちになる。

「・・・君、さっき俺の事呼んだ?」

ドーリィはほんの一瞬だけ黙った。いや、テロップを一時停止した。しかし表情はまるで変わらない。表情筋の一筋も動いた様子はない。

「<呼んでない>」
「・・・ああ、そうか」
「<でも、貴方はいてくれないと困る人>」
「そうなの?」
「<貴方がいないと、あのおじさんとの約束が無駄になってしまう>」

相変わらず何を考えているのか判じがたいオパールの目は曇る事もなく、とっさに俺は「無事でよかった」と思うよりも「また会えた」事に一抹の喜びを覚えた。「あのおじさん」という聞き捨てならぬワードを抜きにしても。「あのおじさん」、もといあの白衣の男がいなければ俺はこうしてこの子に会いまみえる事はなかったのだ。
俺は軋むボディで立ち上がり、動作を確認する。
確かに呼ばれた気はした。少なくとも聴覚と嗅覚は生来得た器官をそのまま使っているので、思い過ごしの可能性も看過できはしないが。

ジャック。
<ジャック>と。

ありきたりで、町であれ研究所であれそこここで聞く平凡な俺の名前。母から受け継いだ数少ない形見だと、少なくとも俺は考えている。いや、徴兵されるまではそう思っていた。戦地で馬鹿みたいに濫用され弄ばれるまでは。
なぜ今になってこんな、幼すぎる感傷が再燃したのだろうか。
先ほど「聞こえた」俺の名前、あの響きは余りにも甘美だった。耳の奥底を未だにくすぐっている。

もう一度、望み薄だがドーリィを呼んでみた。無邪気そのものの幼い子、としか言いようがない「人形のような」ドーリィ。先ほど濁流に流された警備員の肉塊が置き土産に遺した、と思われる汚濁が点々と床を汚していなければ、この子に疑いのうの字も抱く事はできなかったろうに。

「・・・ドーリィ」
「<何?あんまり呼ばれるとくすぐったい>」
「・・・あー、君はどこから逃げてきたんだ?」
「<政府>」

淡い展望はあっさり打ち砕かれた。仕方がない。あの白衣の男やお堅いアレクセイエフさん、アンジュ氏の存在を飛び越えて大層な懸念案件だ。



裏門までの経路を再度辿るつもりでいたのだが、ドーリィは頑なに下水を泳いで市街へ出る案に執着した。先ほどの決壊がそんなに楽しかったんだろうか。キメラの血をかいま見せるといっては何だが、花びらのようなエラがシャッターの向こう、ドボドボと波打つ漏水の音に合わせ、控えめにピコピコうねっている。
この肺いっぱいに空気を貯めて彼女とひと泳ぎ、というのも頷ける案だが、世界一管理が行き届いているともいえるシティでさえ、下水処理施設は危険物質の集積所だ。そんな場所で彼女のエラに汚水を吸わせるわけにはいかない。
二輪車を見たのも初めて、という彼女を後部座席に乗せるのも多少の難儀を伴うだろう。それでもこれが1番の安全策だ。
目指すは海尊街。商業区と目と鼻の先、しかし高級店が立ち並ぶブルジョワの台所とは打って変わって、あの海尊街はモノホンの繁華街だ。人種のるつぼとはあのような場所の事を指すのだろう。
そこに会わねばならない男がいる。
…男、と言い表しても良かっただろうか。最悪拳骨で済むかもしれないが、時々俺の中で「彼」の性別は混在する。


「<すごい>」
「そうだね」
「<ねえ、あれは何。光ってる。クラゲみたい>」
「よそ見したら落ちるぞ!」

同じ人間を集めても、商業区とは違いこのような混沌がひしめくものかと、ここに来るたび俺は毎回感嘆せずにいられない。この治安で商業区とほぼ隣接している情勢も無論懸念事項にのぼるのだが、よくもまあ均衡を崩さず毎日お祭り騒ぎをしているものだ。
一言で言うならこの街は「極彩」。ありとあらゆる色を一見無秩序にしか見えない乱雑なパターンに従って配置し、見る者を圧倒する。この色の洪水を楽しめるようになれば、晴れてこの街から抜け出せなくなった、この街でしか生きていけなくなったものと見做される。
名の通り海尊街は「海尊ハイズン」達が無理やり自治を敷いた地区だ。世界中を見ても人間の居住が適う清浄な地域は限られる為、各地で起こる諸々の内乱、外乱、争い事の根源はその清浄な領地争いに発端を兼ねる場合が多い。その混乱に乗じてこの海尊街はいつの間にか根を張り草を這わせ、大きくど派手に帝国の一端を制したのだ。
俺ももとはと言えばそういった領土争いに参加すべく少年兵となった。無論自ら志願して正式な兵士となりキャリアを積み、それがどういうわけか今は偽造IDを伴って繁華街を2ケツで走り回っている。



「<ねえ!>」
「何!」
「<…IDを貴方に教えてなかった>」

俺は慌ててハンドルを切って裏路地に停車した。彼女の顔を、厳密にはバイザーを直に見られない状況においてドーリィは頑なに電子音声での会話に興じていたが、彼女が電脳化しているという発想がそもそも俺の中に今の今まで無かった。
ドーリィは黙ってバイザーからコネクタを引き出し、俺にそっと、今にも自壊するとでも言うかのようにゆっくりと手渡した。
慌てて俺が顔を上げれば、彼女の目線は遠くに飛んでいる。電脳手術のキャンペーン広告だ。空中に投影され、本来なら見えるであろう星々も覆い隠して、派手にちらつくホログラムは電子の宇宙を地上に張り巡らせる呪文のようだ。俺は無理くり納得し、ドーリィの首筋をそっと確認した。ここに来るまでにも何度か見ていたが、エラを収納した肉のたわみの他は至って無傷である。

「電脳手術も政府関係の施設で?」
「<電脳は持ってない。このバイザーがその代わり>」
「何だって?」

ドーリィは俺がコネクタをつまむ様子を視認する。そっとコネクタにもう片方の青白い手を覆い被せて、

「<電脳化はできなかった。私の体質じゃダメ>」
「…無理にIDを教えなくても話は出来るよ」

今更だが、電脳手術の広告が見えないようにドーリィを俺の影に誘導してみる。繁華街の輝きに目を白黒させていただけなのに、突然ある種の殺傷力を孕んだ光線を浴びせられたような気分だったのかもしれない。
ドーリィのセルロイドを思わせる両手が、ちょっとした振動にすらひび割れるような幻惑を抱いた。先ほどまで、この危機を楽しんでいるかのようなつかみどころのないあどけない無表情を閃かせていたとは思えないほど、彼女は電脳という言葉に恐れを発露させた。少なくとも俺にはそう思えた。
恐れ、というより悟りに近い透明な感情がこの人工の目にも「視えた」気がした。

「<教えなければ、>」
「教えても教えなくてもどうにかなってしまうなんて、そんな事ないさ。必要になったら俺から伝える、」
「<いずれは教えたかった。これから危険を共有してもらう貴方には>」

何となく、今度こそ理解できた気がした。少ない情報から推量するに、彼女はこの冒険を打破する何かしらの力は有している。俺には到底計り知れない相当な何かを。そう考えた方が得られる策は自然。サイボーグ警備員が起こした突然のブーストや、急にリミッターを外されたように動き回った俺のボディも余す事なく説明がつく。彼女が追われる理由にも何らかの示唆を与えるのではないだろうか。少々サイバー・ミステリの読み過ぎではないかというツッコミは傍に置いて考えてみたい。
濁流の向こうで泳ぎ着く俺を待って佇んでいた姿はどこまでも美しく、決意に満ちて己に降りかかる困難を前に真っ直ぐな銀のまなざしを向けていた。今もその凛とした佇まいは変わらず、俺に純粋で平等な問いを投げかける。貴方はついてきてくれるのか、と。

まあ分かるさ。それでも、だ。

「…会って間もない男にIDを教えたりしたら、俺の通ってた学校なら道徳違反を食らってるな」
「<道徳って何?>」
「…えー」

ドーリィは顔を上げた。銀の目を縁どるまつ毛も銀色で、ほのかにその瞳を覆う髪は淡いミントグリーンの光沢を帯びる。この先日の光は彼女にとって毒かもしれないと、海尊街で衣類を整える算段が脳裏で駆け巡る。

ドーリィは間違いなく、俺を呼んだのだ。何故かは分からないが。IDを教えてもらうことがあったら個人間通信で聞いてみようと思う。


「<ここ、すごい>」
「ああ、凄いね」
「<いつまでも見ていたい>」

残念ながらそういうわけにもいかない。俺だってこの街をじっくり観光してみたいのだが、いつもここに来る時は決まって野暮用を背負っての事だったので、中々それも叶わずにいる。
その傍ら、あれは何、これは何をしているの、あの人が背中にコネクトしているコードは何のため、とドーリィは幼くも耳聡い性格を惜しげもなく物語り、俺を束の間楽しませてくれた。

「<ジャック、迷子になってしまう>」
「大丈夫、と言いたいけど俺も未だに怪しいからはぐれちゃだめだよ」

言ったそばからドーリィは、全身を余すことなく改造した爬虫類系キメラに釘づけだ。一応彼女には俺のパーカーを羽織らせて、あの豊満なエラが見えないよう配慮したつもりだった。それでも遺伝改造にオープンな海尊達からしたって、彼女の「完成度」の高さは目に余るものがあるだろう。
俺は慌ててドーリィを引き留めた。今から向かう路地はここよりもっと治安が悪い。そしてこらから会う男、いや、オカマの腕っぷしはその路地を牛耳るに飽き足らず、世界に振り下ろしてもそん色ない豪の者そのものだ。

「<ジャック>」
「何?」
「<オカマって何?>」
「…定義はオカマによって違うんだ。君たちキメラの生き方がそれぞれユニークなように、彼らの生き方は千差万別なんだと思う」


ドーリィにはそう説明した、と「彼」に伝えたところ、俺はピクルスの保存瓶で盛大に殴打された。少し前に会った時よりも筋肉が発達したように見受けられて、無論生身の頭部には鈍痛が走った。

「ディーンさん、場所を選ぶ話なのでどうか、」
「うっさい!うーっさい!!そんな所で突っ立ってるあんたが悪いの、な〜にしたり顔で釈迦みたいな顔してんのかしらねもう!あ〜!あったま来る!ヤサ男の癖してヤサグレちゃん!で、何しに来たんだっけ?」
「中に入らせてもらえれば本題に、」
「だーめーに決まってんでしょ?!今かき入れ時よ?見ての通りの酒盛りタイムよ?2階の部屋貸したげるから寝てから出直しなさい!」
「しかし今は時間がない、」
「そんな可愛い子を夜中に連れまわして!美容の大敵アワーを送らせてるあんたに時間を語る資格は〜…」

ディーンさんは酒精と煙草とスパイスと違法ドラッグでむせ返りそうな空気諸共、アルコールを煽って、

「なーああい!!」

気合一発の怒号で俺を殴り飛ばした。

言っておくが俺の決意そのものは揺らいでいない。しかしこの人を前にすると出張るもの飛び出すものすべてがなぎ倒されてしまう。
表からそっと覗く程度、人ごみに紛れて彼女の食堂をこそこそと訪れたところまでは良かったのだ。ドーリィなどいよいよ目を輝かせて、「素敵な場所」とため息を零していたが。
この店を真正面から眺めてここまでうっとりするような子も珍しい。良くある大衆食堂を限界までどぎつくしたような、何が起きて誰が出入りしているのか分かったものではない危険な香りが充満する、安普請の小汚い店だ。ここを切り盛りする「おかみ」ことディーン・メイジャーを頼りに俺は彼女を、敢えてドーリィを連れ回したていである。
名残惜しそうなあの子が人目に触れぬよう、あるいはあの酒場特有の喧噪に巻き込まれぬよう裏口をたぐったまでは良かったのに、何とディーンさんは店の最奥、カウンターの向こうから俺たちを認めたと言うからおっかない。
先に連絡を入れておいて正解、と言えば正解だったはずである。しかし「彼」もとい「彼女」、「姉御」の洗礼は避けようがなかった。


「あんた…組織の名前を通信だろうがその口からであろうが、迂闊に出すんじゃないって何度言ったら分かるのよん」

綺麗な模様を剃りこみで描いた青髪はこの街でもよく目立つ。よくここまで鮮やかに染まるものだ。

「急を要する、と話をつけておいたはずですが」
「この街であんたみたいな杓子定規な坊ちゃんなんて、すぐ野垂れ死にのあぶく銭よ!全く、暫く顔見せないと思ったらトラブルこさえるのだけは一丁前よね〜」
「お言葉ですが」
「はいっはいはいはい、急なのよね!まずはご飯よ、大急ぎでご、は、ん。ああ〜んそういえばお嬢ちゃんは未成年よね?あたしお手製の健康ジュースが良いかしら、それともハーブティー?」

この店で。ハーブティー。
疑念を口に出すまでもなくまた頭頂を殴打された。



この店に特別な用で出入りするならば、まず合言葉が必要である。きつく暗号化を施したメッセージでディーンさんには事のあらましをかいつまんで伝えておいた。あくまでかいつまんで、だ。研究所で起きた事件については所長の言を借りるなら「他言無用」であったし、何よりこれはドーリィを守る為だ。俺は言葉を選び、ドーリィの横顔を時々確認しながらディーンさんに俺の要求を伝えた。

「…あんたね、軍で鍛えても研究所でお勉強してもその甘ちゃんは直らないのね」

どう言われようと構わない。それも事実である。しかしだ。
俺はドーリィには特別な力があると踏んでいる。全貌を看過できたわけではないし、確証も心もとないが、政府に追われているという彼女の証言と手元にあるプロフィールデータに俺は手ごたえを感じていた。
ドーリィのくだんのデータを丁寧に読み解きながら、ディーンさんは大きなため息をついた。

「ま、偽造かどうかは置いときましょ。あんたってホントに甘ちゃんのトラブルメーカーねえ…」
「ドーリィは政府に監視されていた、もとい作られた子である可能性はとても高い、と見て間違いはない筈だ。何かに違反したからではなく、何か政府が公に出来ない力を持っているせいだとしたらだ…」
「待ちなさい、そういう話も面白いけど?ちょ〜っと飛躍し過ぎじゃない?まあ、私なら『この子は知り過ぎてしまったキメラっ子』説を推すわね。可哀想な事を言うようだけど、ドーリィ、」

ディーンさんはスムージーを美味しそうに味わうドーリィに向き直った。ドーリィはいつものバイザーで

「<私のDNAが何かを知っているのだと思う>」

と答えた。ここに来てずっとディーンさんの手料理に舌鼓を打っていたが、とりあえず話は追っていたらしい。

「でしょうねぇ…あなたみたいな可愛い子、あたし初めて見たもん。お店で雇いたいくらいだわ」
「それなら組織で雇った方が、」

今度はトカゲのオイル漬を満たした瓶が飛んできた。

「か、彼女の安全の為にも」
「顔は良いのにデリカシーゼロってどっからどう見ても損よ!このアホ!」
「<良いの、メイジャーさん>」
「あら、ディーンで良いのよ。あたしの性分はDメジャーの響きみたいに朗らかなんだから。どんと飛び込んでらっしゃい」

ドーリィは実に楽しそうに笑い、すすめられた魚のマリネをつまんだ。ツンとこない柔らかな果実酢の香りは彼女の笑みを一層深く、さわやかにしてくれた。

俺はドーリィの笑顔をバイザー越しとはいえ、時を忘れて堪能した。同時に計画の一端をドーリィも交えて話した事を後悔する。
彼女の能力。あの警官たちを肉塊に変えた何かしらのエネルギーを彼女が発しているとしたら。それを不安材料としてディーンさんに提示したところ、まあまんざらでもなさそうだった。そこに彼女のデータ、もといDNAが政府由来のものだとしたら。
有り体にいえば金になるのだ。彼女を使った取引など考えたくもないのだが、それを実行するに至らぬまでも彼女をディーンさんの有する「組織」で匿えば利は後からついてくるだろう。

幹部ディーン・メイジャー属するレジスタンス、プルゴ・グラディウスの利潤に。

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