第4話・愛娘アンジュ








 ノーマンは旧市街の郊外一角に宅を構えている。郊外とは言っても比較的新旧商業区に足運びの良い立地で、今なお賑わいは慎ましくも健在だった。彼が家路についた頃には冬入りの濃い霧雨が街に迫っていたが、赤い煉瓦塀と素焼きの洋瓦が宵闇に光り、古い街並みを際立たせた。

現在、そんな街角の一角にて、ノーマンは屋根裏付きの古いアパルトマンに落ち着いている。単に住宅事情のごたごたに乗じてその部屋を借り受けたので、本人にとっては愛着と縁遠い一室だった。ロフト付きのワンルームのように夏は暑いし冬寒い。それでも屋根裏を臨む天窓は住人に似合わず質素に真円の空を切り取り、彼が凱旋した日には曇りを除かれにわか英気を取り戻し、時々この部屋に訪れる数少ない客達をその洒落た趣で惹きつけた。

古風な真鍮の鍵に手をかけたノーマンはしばし考え込み、くすんだドア目がけてどすんどすんと拳を振り下ろす。
返事の代わりというように室内で物音が聞こえた。磨いた筈の窓を思い出して軍曹は開錠を待つ。「そういえばあの窓から内部を捕捉して斉射、といった制圧方法は可能なのか」とルートをイメージしてみた。実際にはそのような事態まで把握してこの部屋を借りたわけではないが、焦土と化した街路を幾度となく踏みしめてきた身としては背筋に奇妙な迸りを感じずにはいられない。
またあそこに行きたい。同じくかの内戦で背を預けた戦友たちは皆、爆散したか、心身に一生傷を残して花火の音にすら怯える余生に身をやつしている。しかしこの軍曹は爆炎や閃光を真正面から浴びる熱狂を恋しく思っていた。この街のこの平穏と、あの乱戦は何もかもが違い過ぎた。


「開いてるっての!近所迷惑よ!」

しばし戦地に心が飛んでいたノーマンは力いっぱいドアを開け放つと、

「誰の許可かっさらって上がり込んでんだ!このクソガキ!」

煌々と明るいリビングに向け、怒号を突き出した。

「誰って?管理人さん!」
「…またあのぼんくらバアチャンか…」
「大丈夫。私の事はきちんと覚えてくれてたからまだ大丈夫っぽかった」

女の子だった。まだ10代に差し掛かった頃合いの。ぱたぱたと大人用のスリッパを鳴らして屋根裏から降りてくる。

「そりゃ、イワンみてえなデカブツ連れてりゃ誰でも一発で覚えるだろ」
「何よ。人の事おまけみたいに」
「イワンがお前の保護者兼番犬だから…いや、お前らどっちも保護者が必要な身の上だってな、とりあえず分かれ」

ノーマンは苛立ちまぎれに、いつの間にか床を占領していた大きな毛玉を蹴飛ばした。
もこもこと盛り上がって、いや身じろぎしたかと思うと毛玉からのっそりと、骨ばった足とボールのようなどでかい肉球が飛び出した。続いてぶわっと立ち耳がひっくり返り、ひょいひょいと音を追ってはためく。こちらは犬だ。狼かと見紛うばかりの立派な軍用犬がもぐもぐと、確かに人語に近い寝言を発している。

「起きろ、イワン。このクソイヌ、なめして足ふきマットにすっぞ」
「アニキー…あれ、アニキ?久しぶり?」
「起きろ!」

ごく自然に口をきいて、180p超えのノーマンから見ても相当に巨体なイワンは豪快に欠伸をかました。一介の将校にしてみれば、昼間のごたごたがその大口に噛み砕かれたような心持がした。
アンジュは未だ裏返ったままの犬耳を整えると、緩やかにカーブを描いてふわふわとくすむイワンの腹にすっぽり身を収めた。灰色の毛皮に幼い子の緩やかな金髪がこぼれて、ノーマンは思わず目を眇める。

「メールで言ってたイワンの冬用ブラシ買えた?」

今までこの部屋に住んでいたとばかりに少女は馴染みくつろいでいた。

「いちいち送信名を歴代大統領の二つ名にする悪ふざけをやめたら買ってきてやる。今度こそ『アンジュ』って記入しろ」

視界の端で金色の猫っ毛が不機嫌そうに揺れた。居間に降り立ちアンジュはノーマンに舌を出して、すすけた雑巾を片手に洗面所へと引っ込んでしまった。彼女の華奢な膝小僧もやはり黒く汚れており、軍曹は長く部屋を空けた事を少し後悔した。
現在、アンジュが在籍している寄宿舎はこの住宅地と新商業区を挟んでいるため、どのような路地を縫ってきたかは定かでないが、街の塵芥を浴びたおかげで1人と1匹の連れ合いは全体的にくたびれていた。

「お前ら、ここまで歩いて来たのか」
「そうだよアニキ。俺みたいな軍隊系のイヌモドキだとチューブはまだ無理なんだって」
「口輪もはめてもらってから駅員さんと交渉したのに。何かっていうとリフジンなのよ」

それはむしろ地下鉄乗車というミッションの難易度を底上げする所業ではないか。駅員も驚いて交渉にならなかった可能性が大変に濃い。
ノーマンは幼い子と逞しい犬を軽く見比べて、自分の分を用意するついでと台所に向かった。当たり前というようにノーマンと歩調を合わせてアンジュとイワンは台所に押し入った。
行く先には既に人用ココアと犬用ミルクの飲み残しが鎮座していたので、ノーマンは脱力してソファに足先を定めた。

「ねえ、ノル、また冷蔵庫の中が酒とドット食品ですごい事になってたけど?」
「るっせえ。どっちも文民軍人御用達のフレキシブル・フードだろが」
「でもよーアニキー、やっぱりそのドット…食い物からこんな臭いしないよー!隣の部屋にいても臭うよ?!お酒とドット混ぜたとか?」
「流石にそりゃねえわ」

大型のイヌモドキはベッドサイドに避難した後だった。ヒュンヒュンと哀れっぽく鳴る鼻先が間接照明を浴びて柔らかく輝く。確かに冷蔵庫を開けてみると開封済みの四角い固形食品が自己主張を強めており、それほど家を空けていた自覚はなかったものの、ノーマンも黙ってそれらをゴミ箱に連行した。
また彼の視界の端で金髪が踊る。台所を出るとアンジュがソファに座って大人用のウェアラブル端末を引っ張り出しているところだった。フルフェイスのメット仕様で10歳になったばかりの少女は急に容積の増した頭をゆらゆら揺らす。
中々の旧式なので音漏れが激しかった。18時のニュースが始まったようで、軽妙なOP曲に合わせてイワンの耳も踊る。

「…ところで、アンジュ。そのかばんの中身はまた紙製諸本か」
「………前買った分よりは安く上がったわよ」
「買った!?借りたんじゃなく!」
「ガクギョーへのトーシは!おこたりません!」

アンジュは端末を装着したまま大慌てでかばんを追い掛けた。はるかに上背のあるノーマンはかばんを天高く掲げる。知識欲豊富な愛娘、もとい彼の養子はぽんぽん飛び跳ねた。その躍動に合わせて音漏れやイワンの目線が忙しなく上下する。

「どっから毎回そんな金が出てくるんだ!言え!」
「自分の制服は売ってないわよっ、とりあえず!まだ!」
「…ついでにどっからその悪知恵を捻り出すのか白状しろ。思春期序盤のガキが良いのかそんなんで」
「更年期に言われたくない!」
「俺まだ34!」
「オレは換毛期ー」
「イヌまで参戦すんじゃねえ!撃ち落すぞ!」

イワンは再び壮大なあくびを繰り出した。首元で音の鳴らないお飾りのベルと大き目のドッグタグを揺らし、再びブランケットの上に丸く落ち着いた。
いつの間にかベルの電子表示は静かに形を変え、寄宿舎の棟名をゆったり流している。簡略化されたロゴから察するに、明日イワンが番をする棟の名は「しなりウオの尾」らしい。イワンも長らくアンジュと共に寄宿舎に住まい、看板犬と番犬を兼業して暮していた。

「アニキー」
「何だ!」
「メシ」
「ドッグフードは置いてねえぞ?」
「そうじゃなくて。大家のばあちゃんがさ、アンジュとアニキの晩飯作ってくれるってさ」

イワンは気だるげに首元を伸ばしてベルのロゴを示した。良く見れば職務と色分けしてカテゴライズされた私信が投影されている。イワンの脳とリンクした特注のベルで、アラームの他に簡易的なメッセージ機能なども備えた便利な品だった。

「あ、そうだ、ノル!」
「は?何だよアンジュ」
「おかえり!」
「ただいまー!なんて言わねえぞ断固として」
「何で?」
「この前言ったばっかだろうが」
「いつも通り、断じて!固いわね!」
「お前大丈夫か、顔が林檎みてえに破裂しそうだぞ」


アンジュがそろそろ息切れを起こし、ノーマンが飽きてきた頃にはイワンもすっかり目を覚ましていた。頃合いだ。ずっしりと重たい紙製諸本の数々は、後程ノーマンが直々に検閲をかける事とした。どうせノーマンにはもう理解不能なジャンルばかりなのだろうが。何を目指してるんだか、と不思議になるほどにこの娘は知識に貪欲だった。

「…メシ、せっかくだし行くか」
「行かなくても持ってきてくれるんじゃないかな、いつもみたいに」
「そりゃ無しだ。最近足悪くしてっからな、あのばあちゃん」



大家のおばあさんは懸念していたよりずっとかくしゃくと、剛健な笑い声を立てながら彼らを出迎えてくれた。足の具合はアンジュからの手紙で推していたのだが、古風なキッチンには細やかな気配りが目に見えるようである。我が家のようだ、という言い回しは孤児たるノーマンには余りなじみがないのだが、このような場所で使うに不足はないだろうと思えた。

イワンがノーマンの長い足をくぐってキッチンへと踏み込み、アンジュがそれを真似して追いかけた。こういう時こそ子供や動物は見ていて気持ちの良い顔をするもので、食欲をかきたてる空気に鼻を鳴らし、目をきらきらといっぱいに輝かせる。
30も後半が近づくノーマンにしても、テーブルに広げられた手料理に思わず嘆息が漏れた。ボリュームたっぷりのハンバーガーや色とりどりの野菜のサンドイッチ。搾りたてのレモンが躍るレモネードに、カラフルで素朴なゼリー菓子まで、わざわざこの日に合わせて作ってくれたという。ノーマンの帰還を祝して、またアンジュやイワンの勤勉さを称えて。と、大家さんは笑顔を添えた。

「良いんですか、こんなに沢山」
「あらー、いつも丸ごと綺麗に平らげるのに。今日は具合でも悪いの?」

余計な皮肉で返すのは野暮と、イワンの目配せも受けてノーマンは二の句と唾を飲み込んだ。いつも貴重で質の良い食材を揃えてこんな豪勢な料理を出してくれるのだから、それこそ幾らでも腹が鳴るというものだ。パンをお代わりした先日の食卓をきちんと覚えていてくれたのか、この上品で新鮮なパンをふんだんに織り込んだメニューは心にくる。

「アンジュちゃん、髪の毛束ねなくても大丈夫?」
「平気よ、おばあちゃん、実は毛先を少し切ったの」
「自分で切ったのね?」
「え、わかる?」
「そりゃあね、だってあんなにたくさん本を買ってたらアンジュちゃんの事だから…」

「いただきます!」と少女は慌ててハンバーガーにかぶりついた。紙製諸本を振り回した先ほどをぶり返したくなかったのか、しかし口に溢れたチーズソースの香味を前に、表情はすぐに緩んでいく。肉汁を残してほろほろと崩れる合いびき肉はシティ郊外にて生産されているはずだが、近頃また値が上がったと聞く。アンジュは緑も鮮やかなレタスを器用に口先でつまみ、後を追って飛び出すピリ辛のピクルスに目を白黒させている。
イワンもその様子を確認してから餌皿に鎮座する塩分抜きのハンバーガーを頬張った。思うほどに大家さんには頭が上がらないなと、ノーマンも一口野菜のサンドイッチをつまみ束の間の安息を味わった。ドレッシングであえたキュウリだけの質素なサンドイッチだ。しかし見た目にそぐわず野菜から滲む水分がパンと絶妙に調和して、西部に住んでいた頃によく口にした懐かしい瑞々しさが舌先に広がる。

「いつもすみません、俺の分まで」
「良いんですよ。軍人さんでも偉いお役人さんでも、ずっと身近な人の為に働いてる人はきちんと食べなきゃ」
「オレも働いてる「人」に入ってる?ばあちゃん」
「もちろん。いつもここまで歩いてくるアンジュちゃんも…ああそうだ」

急に大家さんの柔らかく皺を称えた顔が引き締まる。ノーマンは「またか?」と身構えた。大きなイヌモドキも察したようで、すっと姿勢を整えて鳴らないはずのベルを振る。

「カーライルさん、折角だしもっと学術区の近くに引っ越してみたら?アンジュちゃん、毎日のようにこの辺まで歩いてくるのよ」

ぎょっとしてただでさえ大きい灰色の目がこぼれそうになった。

「…毎日?アンジュ、お前、」

喉まで出かかった言葉たちを慌ててレモネードで飲み下す。毎日だって。帰還する日取りはいつも担当の教師づてに伝えているはずなのに。だが詰問はしたくなかった。自分はこの子の実の親ではない。踏み入ってはいけない気がして、いつもノーマンはあと1歩のところで彼女を思い遠のいた。
アンジュは丸く輝く紺碧の瞳を不安げに潤ませる。何を待っているのだろう。この子は俺に何を求めているのだろうか。

「…勉強はどうしてるんだ」

虚をつかれた。というにふさわしくアンジュは少しのけぞった。子供らしくはつらつとしていて、どこか危うく、ノーマンは彼女がそれ相応の歳月を重ねてきた事を知った。

「ちゃんとしてますー。成績表この前送ったでしょ?」
「成績表…?」
「あらー早いもんね、もうそんな時期なの?ばあちゃんにも見せておくれ。あたしのここ1番の楽しみなんだ」

アンジュはほころぶような笑顔を見せて大家さんに飛びついた。一気に所在がなくなる、もとい、目の置き場にも困るというか、ふとイワンを見ると既にアンジュの膝に頭を乗せて、参加準備万端の意向だった。ただし黒いつぶらな瞳だけはこちらを向け、ないはずの眉を器用に釣り上げて「知らないぞ」と語り掛ける。

『いっつもこれだもん、アニキは』
『るっせえ』

電脳化しているのはこの1人と1匹のみ。老婆と見目麗しい初等学校生は実に楽しげでとりとめもない会話に夢中だった。

学校の事。今の、昔の街の事。友達。趣味。いつか読んだ本のイメージ。


ノーマンにとっては何もかもが遠くて馴染みの薄い、どこか遠い異国の都市伝説を聞くに等しい耳あたりであった。


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