新しく派遣社員としてやってきたこの会社で、既に二時間が経過していた。頭の中をくるくる回るadminのスペル、このフロアにいる人間も、ムダに分厚いマニュアルもアテにならない現実。「パスワードが違います」と何度も跳ね除けてくる画面に、そもそもアドミンってなんだっけ?と思考を放棄し始めた脳内。
「これ、追加ね。入力よろしく」
棒付きキャンディを咥え、一枚も減っていない山をさらに高くする上司。思わず「アドミンってなんですか?」と声をかければ「管理者だろ」と呆れ顔が返ってきた。はぁ、そうですか。管理者ですか。
「初日なんだし、もっと肩の力抜いていいんだぞ。ほら、コーヒーでも買ってこい」
なかなかの強さでバシッと背中を叩かれ、思わず目尻に涙を浮かべながら廊下へ逃げ出す。どうしよう、財布はロッカーの中だ。遠目に日下部部長を伺えば目が合って、休憩してこいと口が動いた。
「仕方ない、よね」
アドミンとは一体なんなのか。思いつく限りの組み合わせで入力し続けたが、解決には至らず。今日はログインできないのだ、仕事にならない。システム課の彼を信じるのなら、明日には私専用のIDとパスワードができるはず。今もなお増え続けているであろう仕事を思うとため息が止まらないが、脳はすっかり疲れ切っている。
ふらふらと歩く廊下の先に見えた赤と青の目印に、トイレはここなんだと吸い込まれるように中へ入る。入ってすぐに鏡の中の自分と目が合って、思わずふっと笑ってしまった。疲れすぎでしょ、私。
「お疲れ様っス!」
見られていた、だろうか。突然同じ鏡に映った金髪ショートカットの女性は、私の顔をマジマジと見つめて小首を傾げている。
「もしかして、新しい派遣さんスか?」
「あ、はい。ミョウジと申します」
「申し遅れたっス、総務の新田明っス」
ニコッと笑って自己紹介をする新田さんにつられ、口元が緩む。総務課ということは、今朝案内してくれた伊地知さんと同じ部署。
「今日から配属だったんスね、てっきり来週かと思ってたっス!」
「えっ」
「ん?どうかしたんスか?」
「いえ、システム課の方も似たようなことをぼやいていたので」
「システム課・・・、この時間は禪院さんっスね」
禪院さん。
新田さんの口から飛び出した新たな名に、脳裏をよぎる不機嫌な男の声。そうか、彼は五条さんではなく禪院さんだったのか。
「どうっスか、商品課の仕事。やっていけそうっスか?」
期待を含んだ、真っ直ぐな眼差し。初対面の、しかも総務課所属の社員にクレームをつけるわけにはいかない。かといって過度な期待を持たせてしまったら、更新のタイミングで辞めづらくなる。
「まだ初日なので、なんとも」
この場をなんとか誤魔化してしまえばいい、総務課の彼女とはそう関わる機会もないだろう。そう思いつつも、曖昧な私の答えにしゅんっとしてしまった新田さんに、心がチクリと痛む。
「あの、私は私にやれることを精一杯やろうと思ってます」
心の中で「初回の更新までは」と補足し、できるだけ安心させるようにと笑顔を作る。罪悪感から逃れるためとはいえ、見る間に変化した新田さんの表情に、言わなければ良かったと後悔するがもう遅い。
「ミョウジさんがやる気あるタイプでよかったっス!なにか困ってることあったら、いつでも言ってくださいっス!」
はて、やる気あるタイプとは・・・・・・?
思わず固まってしまったが、今にも立ち去りそうな新田さんをそのまま見送れるはずもなく。考える間もなく口走っていた。
「あの、アドミンをご存知ですか?」
* * *
「システム課ははぼ外部SEで構成されてるっス。勤務形態もウチとは違うんで、連携がうまくいかない時もあって。IDの件、申し訳なかったっス」
「い、いえいえ。そういうこともありますよね」
システム課へ肩を並べて歩きながら、他愛ない会話をしつつ感じる気遣いとさりげない優しさ。部署が違うとはいえ、いい子がいてくれてよかった。もう少し仲良くなったらランチでも誘ってみようかな。
「ついたっス!ここがシステム課っス」
エレベーターで五階まで上がった後、いつくかの部屋を通り過ぎた先。薄暗い廊下の突き当たりにある、どんよりとしたオーラが漏れる扉。フロアマップを元に一人で乗り込む考えもあったが、新田さんに出会えて本当によかった。
「お疲れ様っス、総務の新田っス」
コンコンと軽快なノック音が響くが、中からは反応はおろか、人の気配さえない。席を外しているのだろうか。
「入るっスよー」
よくあることなのか、気にも止めずに扉を開けて中へ足を踏み入れる新田さん。後に続こうと一歩踏み出したが、室内から漏れ出した匂いに思わず脚が止まる。
「禪院さん、いないんスか?」
間違いなくアルコール、しかも焼酎の匂いだ。でもありえない、こんな真っ昼間にこんなに強い匂いが残ってるなんて。残り香なんて可愛いものじゃない、ついさっきまで誰かがここで一杯やっていたような匂いだ。
「あの、少し匂いませんか?」
「?」
「そこに一升瓶もありますけど」
「あぁ、いつものことなんで大丈夫っス」
私が指摘した焼酎瓶を持ち上げて軽く振ると、酒が切れたから買い出しに行ったのでは?と推測する新田さん。勤務時間中に酒盛りした挙句、困っている人には塩対応、私のIDは明日に回して自分は私用外出・・・・・・。立て続けに起きる信じられない出来事に、呆れて言葉が出ない。
「もう一つ、手がなくはないんスけど」
新田さんが指差す、部屋の奥。
ポツンとある扉には大きく『仮眠中』と書かれた紙が貼ってある。システムエンジニアは激務で泊まり込みも珍しくないと聞いたことがある。今日一日我慢すれば、明日には解決する話なのだ。わざわざ起こすのも申し訳ない。
「いえ、そこまでは。大丈夫です、ありがとうございました」
「結局アドミンは未解決っスか」
「もう一度、日下部部長に相談してみます。付き合わせてすみません」
「困ったことあったら、いつでも相談してほしいっス!」
あぁ、なんていい子なんだろう。笑顔が眩しい。この会社で働く上で、新田さんという存在は希望の光だ。
「頼りにしてます」
明日になればなにもかも解決する、与えられた仕事を淡々とこなす日々がやってくる、これ以上問題は起きようがない。
ポキッと折れていた心はみるみる活力を取り戻し、システム課を新田さんと共に後にする。
私はまだ知らなかった。
この日は波乱のはじまりでしかなかったことを。