小説

「今日からお世話になります、スマイル派遣のミョウジナマエと申します」
自己紹介を促した部長の隣で、覇気のない社員たちの顔を眼球の動きだけで追いながら、つらつらと定型文を読み上げる。この人たち、家に帰れてないのかな。シワの寄ったスーツにヨレヨレのシャツ、しなびて元気のない緩んだネクタイ。誤魔化しようのない濃いクマに、こけた頬、縦じわが目立つカサカサの唇。
「不慣れな点が多くご迷惑をおかけするかと思いますが、ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いします」
言葉の終わりと共に頭を下げれば、乾いた拍手の渦に包まれる。同様にくたびれた革靴たちを眺めながら、時給の良さに目が眩んだことを早速後悔する。とりあえず三ヶ月、最初の更新確認までは我慢しなきゃ・・・!
「それじゃ、派遣さんはこっちに」
「はい」
「デスクはここを使って、辞めた派遣の子もここを使ってたんだ。パソコンの使い方は分かるよね、これが入力してもらいたい資料。これがマニュアルだから」
「はい、やってみます」
「分からないことがあったら、マニュアル読むか、システム課に電話して聞いて。前の派遣もそうしてたから」
「はい、ありがとうございます」
じゃ、よろしく。と戦場に帰っていく部長を見送りながら「私にはミョウジナマエという名前があります」と心の中で呟く。ここは働く場所であって、仲良しごっこをする場所じゃない。正規社員と違って、短期間で入れ替わる派遣社員の名前をいちいち覚えてもキリがない。分かっていてもモヤッとはしてしまう。
「よし、とりあえずやってみよう」
目の前のノートパソコンを立ち上げ、起動準備の間にマニュアルを開く。素人が作ったものかと思っていたら、ちゃんとしたシステム会社が作ったのか、目次やよくある質問までついた、真っ当なマニュアルでほっとした。
「このマニュアル、分厚すぎ」
複雑なシステムなのか、はたまた作り手が完璧主義者なのか。パラパラとページを捲り、最後のページへたどり着くと、そこに書かれた可愛らしい女性の字にギョッとする。

『システム課には極力、頼らない方が身のためです』

「なに、これ」
弾かれるように少し離れた場所に座る社員たちへ視線を送るが、パソコンの画面にかじりついているか、忙しなく手を動かしている。中には頭を掻きむしっている者まで。
「マニュアルを頼りに自力でなんとかしろ、と・・・?」
視線は自然と机の左側へ、これでもかと山積みになった資料の日付は数ヶ月前。前の派遣社員が退職してから後任が見つからず、ずっと溜まりっぱなしということか。
先日、正規社員で働いていた会社を退職したばかり。定時で帰れるし、仕事内容も簡単、辞めたくなっても更新のタイミングで円満退職できる。なにより自分好みの条件で働けるから最高だと、かつての同僚であった派遣社員に聞いていたのに。
甘すぎた考えに頭を殴られつつ、絶望していても仕事は減らない。こちらは準備万端、パスワードを入力してくださいと問いかけてくるパソコンに答えを入力することもできず、全ての机の引き出しを開けてみたり、隅々までマニュアルを読み込むことしかできない。これは非常にまずい・・・!
意を決して立ち上がり、遠回しに「俺に質問するな」と圧をかけてきた部長の元へと向かう。真剣な表情で書類と向き合っているものの、だるそうに頬杖をついている姿からは、とても仕事ができる人間には見えない。
「日下部部長、すみません」
「ん、どうした?」
「ログイン用のパスワードはご存知でしょうか。マニュアルも一通り目を通したのですが、システムのことしか書かれていなくて・・・」
「あー、引き継ぎ書は?」
「机の中は空でした」
「マジかよ」
どうすっかなー、と天を仰ぐ部長は、真剣に考える気はなさそうだ。のらりくらりと言葉を交わしつつ、適当に周辺の書類をめくっては、あれでもないこれでもないとボヤくだけ。
「システム課に聞いてみます。番号を教えてください」
「おっ、そうしてくれると助かる。おーい、誰かシステム課の番号知ってるヤツ」
日下部部長の声掛け虚しく、しんっと静まるオフィスに呆れて言葉も出ない。ダメだ、この会社。定時がきたら派遣会社にクレーム入れてやろうか。
「誰も知らねーか。んー、システム課、システム課・・・ああ、五条の坊がいるじゃねぇか。受話器上げて99だ」
「ありがとうございます」
マニュアルの最後にあった警告、誰も知らないシステム課の番号、そして五条の坊・・・。バラバラのピースに不穏な空気を感じるが、今こうしている時間にも決して安くはない私のお給料は発生している。仕事もせずに利を得ることはしたくない、きちんと責任を果たして得るべきものを得たい。心の中で再び決意を改め、与えられたばかりのデスクに戻って受話器を上げる。ピッ、ピッと左耳が機械音を拾い、無機質なコール音が続く。システム課の五条さん、はいるだろうか。一体、どんな人なのか。どうか、普通の人でありますように。右手に持ったペンに少しだけ力を込めつつ、祈るように相手を待ち続けた。
『はい』
「!」
待てど暮らせど出ないシステム課に、別の方法を模索すべきか悩み始めた頃。ようやく男性の声が聞こえた。
「あ、あの、システム課の五条さん、でしょうか」
『違います』
ガチャッと大きな音がしたと思えば、続くツーツーの音。もしかしなくても、切られた?
「えっ、私、なにか悪いことした・・・?」
社内の相手とはいえ、これまで経験したことのない突然の出来事に驚きすぎて、しばらく受話器を眺めてしまった。番号をかけ間違えた?いや、たしかに9を2回押したし、ディスプレイにもシステム課と表示されていた。いまハッキリと言えることは、相手が五条さんではなかったということ。
「だからって失礼すぎない?」
今日が初日の派遣社員が困っているというのに、我関せずな社員たちに、棒つきキャンディを咥えている日下部部長。だんだんと腹が立ってきて、感情任せに再びボタンを2回押す。
『なんだよ、仮眠「今日から派遣でお世話になってるミョウジです。パソコン起動後に入力するパスワードが分からなくて困ってます。お忙しいところ恐れ入りますが、こちらに問い合わせるよう指示がありましたのでご教授頂けないでしょうか」
息継ぎも忘れて捲し立てるように一方的に要件を話せば、さすがに相手も状況を悟ったのか、通話を終了されることはなかった。無言のまま、カタカタとキーボードを叩いた後に、『配属、今日からかよ』とボヤきが聞こえた。
『すみませんが、こっちの手違いで準備ができていないので。とりあえずadmin・adminでログインしてください』
「え?あどみん、あどみん?」
『明日にはミョウジさん専用のIDとパスワードを作成しておきます』
「ちょっ、待って、アドミンってな・・・に」
再び、ツーツーと虚しい機械音を聞きながら、頭の中を回るアドミン、アドミン。誰かに今の気持ちを共有してほしいが、あいにくこのフロアに適格な人間はいない。頭上に大量のクエスチョンマークを浮かべつつも、キーボードを叩いてアドミンのスペルを入力してみる。
「ダメ、か」
アドミン、アドミン。スペルはadminで合ってるよね?adminadminではエラーが出た。間になにか記号が入る、とか?
考えうるアドミンを含んだパスワードを何度も試すが、アクセスは許可されないまま。このままでは埒が明かないと再び受話器を上げるが、誰もシステム課の番号を知らなかった理由、極力頼るなとメッセージがあった理由をなんとなく察してしまい、元の位置に戻した。

初日で辞めたくなる会社

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